「ノーヒット? 珍しいね」 「たいしたピッチャーじゃなかったから、思いの外ショックで」 「それはきっと、アキもたいしたバッターじゃないからだよ」 「おっしゃる通りで」 何の気なしに鋭利な発言をするのは昔っから変わらない。 永原桜乃は、日によく焼けた顔をくしゃりと崩して笑った。女の子にしては短めの髪が、夏の夜の生暖かい風に吹かれてふわりと舞う。僕と同じように一日中土の上で走り回っているはずなのに、どうしてこうも柔らかそうな髪質に見えるのだろう。女の子だからだろうか。それともただの錯覚だろうか。 「まあ、夏休みは長いんだし、気楽に行こうよ。途中でばてちゃうよ」 桜乃は大きなエナメルバッグを肩で背負い直して呟く。お互いに部活帰り、疲労は溜まっているようだった。 桜乃は小学校に入る前からの友人で、小中高と同じ学校に通う腐れ縁だった。家が少し離れているが、最寄りの駅からしばらく同じ道なので、偶然帰りが同じ時間の時はこうして近況を話しながらのんびりと歩いている。 「ていうかアキ、キャプテンになったんだって?」 「えっ、よく知ってるな」 「女子の情報網を舐めちゃいかんぜよ」 主将就任はつい一週間ほど前のことで、長期休暇中ということもあり友達にはあまり言っていないが……女子サッカー部と付き合ってるやつなんていたっけ。 とりあえず、なぜか威張っている桜乃にでこぴんをかまして、僕は暗がりの道を先に進む。 「いったぁーい……何よぉ、もう」 特に理由はないけれど、反応に困った時にたまにやるだけだ。 「いろいろ考えちゃって、大変なんだぜ、キャプテンって」 「キャプテンぶるねえ」 「キャプテンだからな」 なんとなく、男友達にも姉にも言わないようなことでも、桜乃ならいいか、という無責任な思いは昔から持っていた。 多分、付かず離れずのちょうど良い距離感の存在だったからというのと、僕も彼女からの話をよく聞いていたことがあったからだろうな、と思っている。 でも時たま我に返って、どうして僕は今こんなことを他人に訥々と語っているのだろう、と思ったりもする。 桜乃だから。その一言に集約されている。きっとそれだけだ。それ以外には、うまく思い付かない。 「あっ、そうだ」 互いの帰り道が分かれるその直前に、桜乃は立ち止まって声をあげた。 「何、急にどうしたんだよ」 「アキ、ちゃんとオフってあるの?」 「オフ? まあ、そりゃあ、あるけど」 「何日かわかる?」 「八月で?」 「うん」 僕は八月のオフの三日間を即座に答えた。野球部員は基本的に、休みの日と雨の日は常に把握している生態がある。 「それがどうかしたのか?」 「……いや、聞いてみただけ」 再び歩き出す。追求しても良かったが、なんだか家が近くなるにつれて疲れが徐々に押し寄せてきていたので、何だよ、の一言で済ませておいた。 聞いてみただけと答えて、本当に聞いてみただけの場合なんてあるのだろうか。まあ、何でもいいや。 「それじゃあ、ここで。夏休み頑張ろうね」 社交辞令と本心の間みたいな台詞。薄暗い小さなこの交差点で、僕達は左右に分かれる。 「そうだな。頑張ろう」 僕はそう言って、桜乃に背を向けた。頑張ろう、と胸の中でもう一度、自分に言い聞かせるように思う。何でもないように口にしてしまうけれど、その言葉の重みは計り知れない。頑張ることは、口にするよりもずっと難しい。 暗がりの道は人気が少なく、街灯が等間隔に並んでいた。見慣れた夜の路地。練習漬けの日々だから、最近この辺りが明るいうちに帰ってきた覚えがない。桜乃を家まで送ってやれば良かっただろうか、と手遅れな思いを抱いて、無意味に一度振り返る。 そこにはすでに桜乃の姿はなかった。小さい頃から、足の速いやつだった。歩くのも、なぜかやたらと速かった。送った方が、と僕が気付く方がよっぽど遅かった。 まあ、この夏休みの間に、そのうちまた一緒に帰ることもあるだろう。その時は家まで送って行こう。 そんなことを疲れた頭でぼんやり思う。同じぐらいぼんやりと、夜道が明るんだ。上を向くと、丸い月が雲間から顔を出している。夏か、と唐突に当たり前のことを感じた。今更思うには遅すぎる思いだった。それでも、今日は何かの新しい始まりの日のようだと思った。 夏休みが始まって三週間、主将になって一週間が経っていた。 僕の中で、何かが始まった。それは主将としての自覚かもしれないし、随分遅い夏の実感かもしれない。 頭上の月に問いかけても、誰も何も答えてはくれない。 それはまるで、自分で気が付くものだよ、と自分自身に言われているようだった。
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