真夏のコスモス
一 真夏の中のコスモス(9)

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 ノートを閉じると、その隣に夏休みの宿題の教科書とノートが積まれていることに気付く。とりあえず鞄から出して、すぐ近くに置いておけば手をつけるだろうという安易な考えでこうしているのだが、案の定まだこれらの書類は一度も開かれていない。  僕は現実から逃げるように部屋を出て、そのまま家も出る。バットを片手に、また別の現実と対峙するために。 「こんなに暑いのに、熱心なこと」  しばらく素振りを続けていると、玄関の扉が開いて奈央姉が出てきた。寝間着にしている薄い半袖半ズボンのジャージ姿で、アイス片手に僕のスイングを見ている。風呂上がりなのだろう、髪がまだ少し濡れていた。 「暑くても、暑くなくても熱心だよ」  自分でそう言えるぐらい、僕は一生懸命バットを振った。 「最近調子どう?」  地元の友達と久しぶりに連絡を取った時の一言目みたいなノリで、奈央姉は呟く。僕は三回スイングしてから、奈央姉に向き直って答えた。 「全然良くない。ボールが見えていない」 「ふーん。体の開きが早いんじゃない?」 「まあ、そうなんだけど……」 「開かないように、って思ってるだけじゃうまく振れないよ。もっと具体的にイメージしないと」 「例えば?」 「右腕に力が入りすぎないように、とか」  ソフトボールである程度鳴らした僕の姉は、時折こうしてコーチにもなってくれる。今みたいに僕の思いつかなかったような意識の仕方で修正方法を教えてくれるといったように、野球をやってきた人にしかわからないような表現、話でもちゃんと通じるから、僕としては正直なところ感謝している。 「……確かに。うん、ちょっとわかるかも」  何度か振ってみて、感覚を確かめる。悪くなかった。しばらく意識してみよう。  奈央姉はアイスを食べ終わってもしばらく、僕のスイングをじっと見ていた。 「ホームランは打った?」 「まだ。そんなに打球が上がんない」 「そっか。まあ、それはまた次のステップだね」 「次?」 「まず体の開きから直しなさいってこと」  暑いからそろそろ戻るわ。そう言って、奈央姉は玄関の扉を開ける。お風呂あんたが最後だから、終わったら入りなよ。うん。何でもないやりとりが、熱帯夜に響く。  次のステップ。僕にはたくさんのステップがある。野球選手として、主将として、勉学に勤しむ高校生として。それぞれがそれぞれのスピードでステップアップして、少しずつ変わっていく。  できることだけ。つい先日の守山の言葉が蘇る。  できることを増やしていく。それは立派なステップアップだと思った。 「あと十回」  少し上がってきた息を整えて、ぽつりと呟く。  一人きりで、黙々と振る。振る。また振る。十回数えて、よし、と大きく息を吐く。  途中で奈央姉が来たから曖昧だけど、多分四百回ぐらいだろうか。少なくともこれぐらいは毎日振り続けたかった。量か質かいう議論はいつ何時も絶えないが、僕は量あっての質だと思っている。まず量をこなさないと、必要な質は得られない。少なくとも、高校球児であるうちは。  夜風に背中を押されるようにして、家の中へと戻る。  明日も頑張ろう、と誓うように思った。  僕が部員の誰よりも頑張ろう、と祈るように思った。  もしかしたらそれは、ただの身勝手な承認欲求に過ぎないのかもしれない。  そんな少し色の黒い思いを頭の片隅に感じながら。

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