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 一階フロアはエントランスホールを広々と取ってあり、円形のレセプションデスクとロビーベンチが 置かれているだけの、愛想のない空間だった。キートは階段を使って、さらに上階に行ってみることにした。 二階はまるで病院の診察室のようだった。三階にはレントゲン装置などの医療機器が設置されており、四階は どうやら手術室らしい。五階は病室のようで、ベッドがいくつか並んでいた。  どうやらビル全体が医療センターのようになっているらしい。といっても、どこもかしこも無人で、開業 しているようには見えないが―――  取り立てて変わったところもなく、病人がいるわけでもなさそうだった。なぜラザールがいつも塔に 籠っているのか、謎は深まるばかりだ。  キートは階段を降りて二階に戻った。診察室を見渡して、違和感を覚えた。なんとなく、他の階と比べて 狭いような気がする。キートの優れた空間認識能力が警戒していた。キートはどこかおかしい所はないか、 室内をつぶさに観察する。  デスクの向こうにある、人体模型のトルソーが飾られたガラスケースが目に付いた。キートがそれを 回転させると、思ったとおり、奥はパニック・ルームになっていた。  パニック・ルームとはセイフティー・ルームとも呼ばれ、押し込み強盗などに襲われたときに逃げ込む ための場所だ。近年は犯罪の凶悪化にともない、一般住宅でも警備会社と契約する家庭が増えているが、 急激に襲来されたら警備員が駆けつけるまでに被害にあう可能性もある。パニック・ルームとは、一時的に 不法侵入者から身を隠すシェルターの一種であり、隠し部屋になっていることがほとんどだ。そして、 外部と通信できる電話や、外部の様子を観察できるテレビモニターが設置され、排気設備も整っている。 敵の多い富裕層の間では、防弾、防爆資材を用いているのはもちろん、内部を趣味で設えた高級 パニック・ルームなるものが人気だ。  だが、どうやらここは侵入者から身を守るために作られた部屋ではなさそうだ。ずらりと並んだ モニターにコンピューター、通信機器は一見オフィスのように見える。  キートはコソコソ家捜しする泥棒か、敵のアジトに踏み込んだポリスか、その手先にでもなった気分だった。  ログインして覗いてみたい好奇心を押さえつけ、壁に並んで置かれたラボラトリーキャビネットまで 歩いていく。可動式の引き出しユニットには鍵がかかっていた。上部にある薬品棚にはシアン化カリウムの 試薬瓶や有機溶剤、特定化学物質などの医療用解毒物が並んでいるが、こちらも施錠されていて手が出ない。 だが、隣にあるメディカルキャビネットは鍵がかかっていなかった。  下段のステンレス製引き戸を開けると、包帯や消毒薬の瓶が入っており、上段には様々な薬が置かれていた。 キートはガラスの引き戸を開けて、まるでコソ泥のように物色する。そこには鎮痛剤や解熱剤といったもの から、ビタミン剤などのサプリメントまでがズラリと並んでいた。  キートはトラゾドンに手を伸ばす。強力な睡眠剤だ。ラベルを見て元の位置に戻す。ゾロフト、抗鬱剤。 興味がない。人差し指で傾けたボトルを戻す。ヴァリウム、バイコディン、ハルドル、ザナックス――― どれも医療麻薬であり、中毒性がある。医師の処方のもと、適切に使用しないと依存症を生じる為、注意が 必要な薬だ。副作用も強い。これらは、退役軍人のための専門病院ではよく処方される薬であり、キートには 胃薬や風邪薬などよりなじみが深い。  ―――メチレンジオキシメタンフェタミン。 あるいは、単純にMDMAと呼ばれる。化学構造からは精神刺激薬のアンフェタミン類に分類される薬物だ。 これは試したことがない。重度の心的外傷後ストレス障害に苦しむ患者に処方される薬だ。路上では エクスタシー、またはEXCの略語で流通しているが、合成麻薬としてのこれらの純度は様々だ。中には MDMAの成分をまったく含まない危険な粗悪品さえある。だが、これは間違いなく正規品だ。  キートは白い錠剤をボトルから一錠取り出して、ポケットに滑り込ませた。  ガラス戸を閉めようとして、ふと気が付いた。ラボラトリーキャビネットとの間に、昇降ボタンがついている。 キートは薬棚の方を少し動かしてみた。どうやらこの奥に、さらに隠された地下室があるらしい。 「ミスター・キート?」  急に声をかけられて、キートは飛び上がるほど驚いた。振り返ってみると、戸口にコーベットが立っていた。 屋敷の料理人であるアブロウの夫で、ラザールの雑用人だ。  キートは動揺した。50メートル後方からでも撃鉄を起こす金属音を聞き分けられるというのに、 あろうことか、老人が近づく気配にまったく気が付かなかったのだ。

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