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「うん……? キートか?」  ドクター・ヘレティックは手の付け根で瞼をこすると、いやにセクシーな掠れた声で言った。 「手術は成功だ。悪さをする腫瘍は全部摘出してやったぞ……」  微笑みながら言う。 「ああ、知っている。看護師から聞いた」  キートは跪き、彼の頭を膝の上に抱え上げた。サージカルキャップはすでに取り去っており、ばらけた 長い金髪は汗で湿っていて、暗いはちみつ色をしていた。  疲労の色が濃い―――  無理もなかった。途中で休憩を挟みながらとはいえ、28時間にも及ぶ手術の大半を執刀したのだ。 ドクター・ヘレティックの尽力には言葉もなく、大統領の手術の成功はまさしく彼のおかげだった。何しろ、 考えうる最高のスタッフと、できるだけの設備を整えてくれたのだ。300万ドルという値段は、決して 法外な請求ではなかった。それどころか、かかった経費を考えると利益などほとんどないかもしれない。 ドクター・ヘレティックは、噂に聞くような、欲の皮が突っ張った人物ではない。では、誠実な人間なのかと 問われると、甚だ疑問を感じるが―――  今、彼はキートの膝の上で、疲労の滲む目を閉じている。とんでもなく無防備だ。力なく投げ出した腕、 浅い呼吸に上下している胸を見つめていると、キートの中で、強い感謝の気持ちが込み上げてきた。 「……ありがとう、ドクター・ヘレティック」  キートは彼の頬に、手のひらを添えて言った。 「ラザールだ」  不意打ちのように目を開けると、ドクター・ヘレティックが言った。 「ラザール?」 「俺の名だ」  そう言うと、また目を閉じた。 「ラザール、ラザール……」  キートは歌うように呟きながら、ラザールの髪をそっと撫でてみた。こんなふうに、他人の髪に触るのに 抵抗も嫌悪も感じないとは、不思議なことだと思いながら―――  それどころか、しっとりとして、手指に擽るように絡みついて、遊びながら流れていく感触にうっとりする。  キートは手の甲に巻き取った髪にキスをした。 「ありがとう、ラザール。本当に感謝している。俺にできることがあったら何でも言ってくれ。どこか…… 仮眠室にでも連れていってやろうか? 少し休息を取った方がいい。疲労困憊じゃないか」  眉間を寄せて、心配そうに言う。 「やさしいな。それよりも、感謝しているのならキスしてくれないか?」  冗談とも、本気ともつかぬようにラザールが言う。  キートは一瞬ためらった後、ラザールの上から顔をかぶせると、そっと唇に触れてキスをした。だが、静電気でも 流れたように感じて、キートはすぐに唇を離してしまう。呆然としながら、唇を引き結ぶキートを悲しい目で見ると、 ラザールは言った。 「……もう行け。俺は清掃人が来るまでここで休んでいく」  キートは決まり悪そうに頷いた。立ち上がり、着ていたコーデュロイのベストを脱ぐと、それを丁寧に畳んでから くるくると巻いて、ラザールの頭の下に敷いてやる。ベストを枕にしたラザールはキートを見上げた。  襟が伸びきってヨレヨレになった、スタンフォード大学のロゴが入った白いカレッジTシャツと、ダメージデニムの ハーフパンツ姿は実年齢よりもはるかに若く見える。変装というほどでもないが、普段のキートなら絶対にしない 恰好だ。いま履いているラバーサンダルと一緒に、ユニセフの難民キャンプで手に入れた古着の一式だった。  踵を返し、手術室を出ていこうとするキートの背中に向かって、ラザールが言った。 「昔に比べて……少し、痩せたな……」  その言葉に立ち止まり、キートが振り返ってみると、ラザールはもう目を閉じていた。

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