カナダ西部―― ブリティッシュコロンビア州、ヴィクトリア。
バンクーバー島の南端に位置する古都ヴィクトリアは、厳しい自然環境のカナダにありながらも
温暖な気候に恵まれており、春から夏にかけて街中が花で溢れかえる。英国式庭園も多く、花の都
などとも呼ばれる所以だ。また、オルカの生息地として有名なジョージア海峡には、ウォッチング
目当ての観光船が行きかい、風光明媚なインナー・ハーバーはフェリーや水上タクシーで賑わいを
見せる。カヌーやカイトサーフィンなどのアクティビティスポーツも盛んだ。
今は5月の終わり。ヴィクトリアは本格的な観光シーズンに突入していた。
キートは地元の不動産会社を通して、海岸が見渡せる別荘を売却した。英国調の美しい別荘は
思ったよりも高値で、しかもすぐに買い手がついた。大型ヨットも同様だった。キートはこれらを
売って得た金を、ラザールの口座に送金した。それでも300万ドルには程遠いが―――
当座の住まいが必要なため、クルーザーは手元に残した。仮に売ったとしても、大した金には
ならなかっただろう。
波ひとつない、静かな夜。キートはマリーナから少し離れた位置にクルーザーを停泊させていた。
もう何時間も憑かれたようにキーボードを打っている。まるで、過去を清算するように、来る日も
来る日も回顧録を書き綴っていた。
ルシンダ共和国における自分の役割、PKO派遣師団の過酷な任務について――― 裏で糸を操って
いた近隣諸国、西側諸国の大きな過ち、虐殺に関わった者たちの邪悪。
暴力、混迷、非人間的な行い―――
手元に資料はほとんどない。PCリュックに入っていた数枚の写真、部下の遺品、思いつくままに
綴った書きつけ、覚え書き、身辺雑記。それに、重要人物とやり取りした直筆の手紙がいくつか―――
資料は乏しくても、それでもキートは数々の場面を正確に思い出せる。日付や場所に至るまで、
微細にわたって――― それらを思い出しながら、流れるように文章をタイプしていく。時には
あまりに鮮明に過去の記憶が蘇り、眩暈と吐き気に襲われることもあった。精神科医にかかれば、
間違いなく外傷後ストレス障害と診断されることだろう。
そんなときは、ジェイクの絵を思い出した。
いつのまにか、そのイメージがキートにとって静穏をもたらすものになっていたのだ。ただ、
良いこともあった。執筆に集中していると、ラザールのことを忘れていられたのだ。
指を止め、キートはきりのいい所で一休みすることにした。ひとしきりタイプし続けていると、
パンパンに膨れていた風船が急激に萎むように、体力と意欲が減退してくる。それに、没頭する
あまり喉の渇きにも気が付かなかった。
20フィート級クルーザーの船内レイアウトは合理的だ。テーブルのすぐ横がキッチンになって
おり、生活に最低限必要な冷蔵庫や電化製品が所狭しと並んでいる。電力は船内バッテリーに頼っていた。
キートは湯沸かし器のスイッチをオンにし、お湯を沸かすとインスタントコーヒーの結晶に注いだ。
そのままマグカップを持って、サンデッキに出る。
キートは甲板に座り、水平線を眺めた。夜の帳の向こうから、今まさに月が昇ろうとしていた。
今夜はどうやら満月らしい。水平線に半分隠れて、最初はぼんやりと歪んで見えた赤い月は、上昇する
につけ徐々にオレンジ色へと変化して、最後は白く輝く月輪となった。月明かりが、鏡のように滑らか
な海面を白く煌めかせている。
―――重なる満月。
いつかどこかで、これに似た光景を見たような気がする。
キートが何かを思い出すように考えに耽っていると、はるか後方の上空からプロペラ音が聞こえてきた。
バンクーバーからヴィクトリア間を運行しているハーバーエアにしては時間も遅いし、あきらかに航路から
外れている。
キートは立ち上がって機体を確認した。どうやら、民間の水上飛行機のようだ。キートはこのまま頭上を
通過していくものと思ったが、機体はクルーザー上部で旋回すると、何と着陸態勢に入った。
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