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 「そうだろうな」  返事を聞かずとも、ドクター・ヘレティックは訳知り顔で頷いてみせる。  この国にたった一つしかない病院は、現在まったく機能していなかった。民兵組織による 略奪と破壊行為によって廃墟と化しており、三年経った今も、人々の記憶に留めるため、死体は 埋葬しておらず、外国人ジャーナリストにとって格好の撮影スポットになっていた。 「ガエル、今すぐウガンダの市立総合病院に連絡を入れて、手術室が借りられるか聞いてくれ。 人員の手配もな」  横に立っているガエルに向かってドクター・ヘレティックが指示をする。すると、防衛大臣が 腰を浮かせて止めに入った。 「だめです!! ウガンダはいけません!」  それを聞いたドクター・ヘレティックは、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。 「政治的な問題というわけか。では、他にここから近い所だと……ナイロビあたりか。本当は衛生的 にも、医療レベルにおいても、スイスかアメリカの病院が望ましいのだが……大統領の病状を考慮 すると、長時間のフライトはできるだけ避けたい」  ドクター・ヘレティックはが思案顔で言うと、それまで黙っていた大統領が口を挟んだ。 「お待ちください、ドクター。私はまだ手術をお願いしたわけではありません」 「何だと?」  ドクター・ヘレティックは腕組みして怪訝な顔をする。 「手術をしなかった場合、私はあとどれくらい生きられますか?」 「それは予測がつかない。しかし、あなたの腫瘍は悪性度が高く、第四脳室底外側で再発している。 この部位は生命維持に直結する重篤な合併症をきたす恐れがあるから、全摘出が難しい。そして、 肉眼的摘出を行ったあとに残った残存腫瘍は、のちに再増大する。つまり、再発に再発を繰り返す 性質を持っている。あなたの場合、今回で三回目の再発というわけだ」 「……その通りです。今回手術したとしても。残存腫瘍がほんの僅かでも残る限り、いずれまた 再発する。完全摘出は不可能だと、前回の手術のとき医師から説明を受けました。そして、次の 再発では覚悟をした方がいい、との宣告も――― そのような命に大金をかけるのは如何なものか……」  大統領は項垂れた。 「俺を誰だと思っている?」  尊大な態度で問う。 「世界最高峰の脳神経外科医〈ドクター・ヘレティック〉、フリーランス医師。しかし、その報酬は べらぼうに高い」  あたかも、それが惹句のように防衛大臣が言った。 「だが、それ相応の仕事はする。俺の腕を持ってすれば顔面神経核や脳神経、小脳動脈を損傷させず、 腫瘍だけを全摘出することが可能だ。あとは放射線治療を追加すれば、再発のパーセンテージは限りなく ゼロに近くなる」  ドクター・ヘレティックは自信たっぷりに言った。 「まさか……本当に……? 完全治癒が可能だと仰るのですか?」  信じがたい顔でつぶやく大統領に、ドクター・ヘレティックは強く頷いてみせる。 「で、今回の手術を依頼した場合の支払額はいかほどに?」  ルシンダ中央銀行総裁が、もみ手をしながら恐る恐る尋ねる。 「そうだな、ざっと見積もって300万……」  慎重に、考えを巡らせるように顎に指を添え、ドクター・ヘレティックが言う。 「……それは、ドルで? それともユーロで?」  まさか、ルシンダ・フランではあるまい。生唾を飲み込んでオハラが訊いた。 「……ドルにまけておいてやる」  苦い顔をして、ドクター・ヘレティックが言うと、大統領はかぶりを振った。 「やはり無理です。そのような大金は私自身の、親類縁者の財産をすべて処分したとしても、とうてい 用意できる金額ではない。ルシンダ・フランの相場で考えれば天文学的数字だ。私とて命は惜しい。 しかしながら、国庫の金や他国からの寄付金を、私の手術費用として使用することはできません。 この国は本当に貧乏なのです」  誰もが息さえ潜め、重苦しい空気が流れる中、キートは挙手すると、宣誓するように言った。 「俺が払う」  その一言で、皆の視線がキートに集中した。 「こう言ってはなんだが、払うあてがあるのか?」  ドクター・ヘレティックが、優しいとも取れる口調で言った。キートは恥じ入ったようにまばたきして、 いっとき床を見つめるが、顔を上げると真っ直ぐドクター・ヘレティックの目を見つめた。 「……今すぐというわけにはいかないが、何とかする。とりあえず、30万ドルなら用意できる……と思う。 後は少し待ってもらえないだろうか? 無茶は承知だが、この通り、どうかお願いします」  キートは膝に手をあてて、深く頭を下げた。 「ふむ、いいだろう」  あまりに至極あっさりと、ドクター・ヘレティックが承諾するものだから、その場に居合わせた全員が 拍子抜けしたようにポカンとしてしまった。 「では、出世払いということで? それともローンで?」  身を乗り出してオハラが言った。それなら、何としてでも平価切下げを成功させ、貿易収支を黒字に 転じることができれば、支払いも不可能なことではない。 「いや……そうだな、金はいらん。それよりも、別のことで支払ってもらおうか」  ふと、思いついたようにドクター・ヘレティックが言うと、疑念と沈黙がその場を支配した。  ―――タダより高いものはない、という。  いったい、ドクター・ヘレティックの要求とは何なのか……誰一人として、見当さえつかなかった。 「……別のこととは?」  囁くようにキートが訊いた。胃が締め付けられるようだ。 「お前だ」 「……は?」  キートは目を眇めて聞き返す。 「金の代わりにお前が欲しい。それが条件だ」  その、あまりに常軌を逸した要求に、機内は水を打ったような静けさに包まれた。

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