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 キートは寛げていた、カナダ国外派遣軍のデジタル迷彩服の襟元を整えた。そして、 平和の象徴であるオリーブの枝と世界地図をデザインした、国際連合のバッジをつけた ブルーベレーを手に持って椅子から立ち上がった。  歩きながらベレー帽を斜めにかぶり、帽子が上がっている方に前髪を寄せる。 ここ何ヵ月も髪を切っていないので、軍人にあるまじき長さになっているが、ルシンダでは 誰も気にしないし、苦言を呈する者もいない。左頬にかかった前髪は、恐ろし気に見える 傷跡を少しだけ目立たなくしてくれる。キートはかぎ裂きのように、左の頬に走る傷跡を 指でなぞってみるが、急に静電気でも走ったように手を引っ込めた。  最近、子供の頃に直したこの癖が復活してきて、つい無意識のうちにやってしまう。  気を付けなければ―――  出来の悪い不肖の兄、ルイスにはよくこの癖をからかわれたものだ。 あまり恰好のいい癖ではないし、周りにコンプレックスだと受け取られかねない。 そう思われても一向にかまわないのだが、変に同情されたり、傷の理由を詮索されたり するのがうざったらしいのだ。  キートがドアを開けると、そこに五十代前半の小柄な日本人が立っていた。 「おはようございます、大佐。そろそろ時間なので、よろしければ会議室まで一緒に 行きませんか?」  IMF国際通貨基金からルシンダに出向してきている、ケンジ・オハラ総裁だった。 「ええ、喜んでお供します。総裁」  キートの口元がほころぶ。オハラ総裁はIMFから要請を受け、途上国中央銀行の 技術援助計画推進のため、誰も来たがらない最貧国、ルシンダまでわざわざ赴任してきた 人物だ。その前身は、先進国である日本の経済官僚であり、過去には日銀の副総裁まで 勤め上げた傑物だった。非常に頭がよく、非情なまでに切れ者で、そしてとても善良な 人間だった。この異なる二つの資質が、一人の人間に内包されていることはあまりない。 そして、キートは明晰な頭脳と篤実な精神を併せ持ったこの人物に好感を持ち、気を 許していた。それは、キートにしてはとても珍しいことだった。  二人の男はホテルの中庭を通って、会議室がある東棟に向かった。  キートは歩きながら、緑陰の影で眩しさに目を細める。手入れの行き届いていない 庭は荒れているが、それでも――― いや、だからこそか……尚のこと野性味に溢れて いて美しい。国自体が復興途中なので、こんなところまで手が回らないのだ。マゼンタ 色の苞が華やかなブーゲンビリアに、バナナの葉が瑞々しい。赤いアロエの花とオレン ジ色に尖ったストレリチアが南国の雰囲気を醸しだしており、生き生きとして、ある種の 生命力を感じさせる。  今は三月で、例年より一足早く雨季に突入していた。歓迎すべき恵みの季節だ。 ルシンダは赤道上に位置しているが、標高が高いおかげで美しい緑に満ちている。 なだらかな丘に清々しいそよ風が吹き、おおむね、一年を通して夏の避暑地のような 気候が続く、とても暮らしやすい国だった。  だが、東西南北は強国に囲まれていて、立地条件はよくない。いや、とてつもなく 悪い、というほうが合っている。アフリカの中央に位置するため、海までの直線距離は 二千キロメートル以上ある。それゆえ、海外との交通や輸送は不便を極めた。植民地 時代には未舗装の道路輸送で隣国に出てから、鉄道輸送か、汽船輸送に頼っていたのだ。 もちろん、現在も近代的な道路は敷設されていない。そして、未だに海外からルシンダに 物資を輸送するには二つ以上の国を経由しなければならなかった。なにしろ国内には 小さな空港が一つあるだけなのだ。ゆえに、近隣諸国との関係の良否が重要であるのだが、 それは必ずしも良くはない。 「ところで、キート君……大統領の病状は本当のところ、どうなのだろう?」  ところどころ雑草が混ざった、伸び放題の芝生の中を滑るように歩きながら、オハラは 慎重に尋ねてきた。 「―――あまり、芳しくはないようだ」  息を吐き、言葉を濁すキートを、オハラは沈痛ともいえる面持ちで見上げる。 「だが、何とか持ちこたえてもらわないと、この国はまた混乱の時代に逆戻りしてしまう」  オハラの言葉にキートは眉を寄せ、寡黙に頷いてみせた。  まさしくその通りで、それこそキートがもっとも恐れていることなのだ。

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