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 その日、キートは屋敷にある図書室で読書をしていた。例によって、ラザールは朝から塔に籠って いたので、暇を持て余していたというのもある。だが、図書室はひとり静かに過ごすにはうってつけで、 なかなか気持ちが安らぐ場所だった。  それほど広くはないが、壁の三面にはハイスクールの図書室や小さな町の公共図書館で見かけるような 白いスチール製のパネル書架が設置されている。気取りのないデザインで、それぞれの棚にはカテゴリー ごとにあらゆる種類の本が並んでいた。床に敷かれたタイルカーペットは淡いグレーとベージュの ツートンカラー、中央に大きな一枚板のクルミ材のテーブルがあった。  キートは書棚の中から興味を惹かれた本を数冊チョイスして、テーブルの上に積み重ねていた。 ナショナルジオグラフィックのバックナンバーやワールドイヤーブックにざっと目を通し、サイエンス誌に 掲載された論文を読んでいると、少し一息入れたくなった。  コーヒーを淹れに厨房まで行こうかどうしようか迷っていると、ドアが3回ノックされた。ラザールなら、 ノックなどするはずがない。キートは訝しみながらもテーブルから立ち上がり、ドアを開けた。すると、 廊下にはキッチンワゴンが置いてあり、その上にはコーヒーサーバーとマグカップ、皿にはプレッツェルが 盛られていた。  キートは廊下の奥に目を向けるが、人影は素早く曲がり角の向こうに消えていき、黒いフリルのスカートの 裾だけがかろうじて識別できた。なるほど、あれが噂に聞くメイドのエンティティーだろう。キートは初めて 謎のメイドの実体を視認した。  キートはワゴンを自分でテーブルまで運び、温かいコーヒーをマグカップに注いだ。一口飲み、丸みを 帯びたハート型のプレッツェルを縦半分だけ食べて皿に戻した。後で食べようと思ったわけではなく、 適度に塩味が効いていて、香ばしいその味に、半分も食べたら満足したのだ。それからまたコーヒーを 飲み、本の続きを読み始めた。  カップにおかわりを注ぎ、暫くすると、ドアを開けてラザールが入ってきた。どこかに出かける予定でも あるのか、グレンチェック柄のダブルのスーツを着ていたが、スキャバル製の上等な布地で作られたスーツが 台無しになるくらい、浮かない顔をしていた。  キートは本から目を離し、ラザールの姿を一瞥すると、また本に目を戻した。 「出かけるのか?」  キートが訊いた。 「ああ、気乗りはしないがな」  憂鬱そうに言うと、ラザールはテーブルの上に腰かけて、皿に残った半分のプレッツェルに手を出した。 美味いとも不味いとも言わず、黙々と食べる。キートはコーヒーを飲みながらページを繰った。 「前々から引き受けていたヴァチカンでの仕事だ。これだけは断る訳にいかなくてな。先方のスケジュールが ようやく整ったらしい。これからローマに向かわねばならん」 「法王様でも診るのか?」  キートは冗談のつもりで言ったのだが、ラザールが黙り込んだところをみると、どうやら近いところを 突いたらしい。 「枢機卿が行う、悪魔祓いの儀式の立会いだ」  ややあって、ラザールが言った。キートは本を閉じると、ラザールを直視する。 「カトリックの総本山には法王庁公認のエクソシストがいるんだ。もちろん、俺は神も悪魔も信じては いないが、ある種の患者には悪魔祓いの儀式はとても有効だ。今回、儀式を執り行う枢機卿は人格者で、 次期法王と噂される人物だ。その道のベテランだが、過去に何度も大怪我を負ったり、心停止している」 「……それで、医者であるあなたが立ち会うというわけか……」 「そういうことだ」  ラザールが立ち上がるのと同時に、スマートフォンから着信音が鳴り響いた。 「……わかった、すぐに行く」  ラザールはぶっきら棒に言うと、通話を切った。 「パイロットのガエルからだ。出発の用意が整ったそうだ」  キートは頷くと、自分も立ち上がった。 「見送りはいい。ここでゆっくりしていてくれ」  ラザールはそう言うが、キートは首を横に振る。 「コーヒーが冷めるぞ」  キートはマグカップを手に取ると、コーヒーの残りを飲み干した。  塔の屋上にあるヘリポートでは、既に操縦席でガエルがスタンバイしており、ヘリコプターのドアは開いていた。 ラザールとキート、二人の姿を確認したガエルはエンジンをスタートさせ、回転翼を回し始めた。  ローターから風が吹きつけてくる中で、ラザールはキートを抱擁した。 「なるべく早く帰ってくる。土産を持ってな」 「そんなものは要らない。無事に戻って来てくれればいい」  真顔で言うキートに、ラザールはヤニ下がった顔をする。そんな顔をしていてもハンサムなのが憎たらしい。 「おい、なんだ? その嬉しそうな顔は?」 「まあ、まだお預けをくらったままの状態だからな。必ず無事で帰ってくるさ」  含みのある言い方に、キートは眦を朱く染め上げる。いつも片頬にかかっている長い前髪が、ローターが 巻き起こす風に吹き上げられているせいで隠しようがなく、バレバレだった。  ラザールはキートの頬に手をあて、キスをした。最初は優しく。次第に情熱的に、キスはどんどん激しさを 増していった。キートはラザールの胸板を両手で押して、無理やり唇を離すと言った。 「ガエルが呆れて見ている。さあ、もう行ってくれ」  顔を背けて、ラザールの肩をヘリの方角に向けて押しやり、歩くように促す。 「仕方がないな」  ラザールは降参するように両手を上げると、渋々ヘリコプターの方に歩いて行った。スキッドに足をかけ、 ちらりとキートの方を振り返り、口の端で笑ってから、勢いをつけて機内に飛び乗った。  ローターの騒音に消されないように、ラザールが大声で何か言った。  だが、そのとき回転音が一段と大きくなり、何と言ったのかキートにはよくわからなかった。すぐにドアが 閉まり、そのままヘリは垂直上昇し、数秒だけホバリングすると、やがてキートの視界から消えていった。  ―――愛している、俺のトーチ・リリー  ……キートの聞き間違いでなければ、ラザールは確かにそう言っていた。  愛していると。だが、トーチ・リリーとは?  キートは朧げな記憶をたぐり寄せ、前にも一度、寝落ちする寸前にその名で呼ばれたことを思い出した―――

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