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「この絵がどうかしましたか?」  ―――絵? なんのことだ?  キートは一瞬何を言われているのかわからなかった。 「もしかして、作者をご存知なのですか?」  だが、アブロウの、控え目で温もりに満ちた声に導かれ、キートは凍りついたように動かなかった 眼球を、何とか動かすことに成功した。そして、マントルピースの上に飾ってある絵を見た。  ―――それは、不思議に美しい抽象画だった。    線と色が織りなすバランスとリズム。ギザギザの歪な星形の中に、歪曲した川のように流れるライン。 緑、黄色、赤、茶色のグラデーション。  一般的に、具体的な対象を描き写すのではない抽象絵画は、理解するのが難しいと言われている。 あるいは、抽象画とは絵画全体の雰囲気や印象を楽しみ、感覚で鑑賞するものなのだ、とも――― ようするに、抽象画とは何が描かれているのかさっぱり解らない絵のことだ。だが、少年時代を カナダで過ごしたキートには解る。これはメープルリーフの絵だ。ここに描かれているのは、 カエデの葉の一生だ。  その絵を眺めているうちに、キートの心は平静を取り戻し、浅く速くなっていた呼吸も平常に 戻ってきた。深く呼吸をすると、背中に流れる冷たい汗が引き、手足の震えも治まって楽になった。 「この絵は息子が亡くなる前に描き上げた、最後の作品なんです」 「あなたの息子さんが?」 「ええ、ジェイクという名の、世に少しは知られた画家でした。あの子はいつも、なぞなぞみたいな 絵を描いていましてね。うちのひとは、世間でなんと持ち上げられようと子供の落書きだ、なんて 言っていましたけど」  うるんだ目をしながら、クスクス笑う。 「これはとてもいい絵だと思う。亡くなられたとは残念だ」 「……ガンだったんです。気が付いたときには手遅れで……まだ若かったから、あっという間でした。 マッド・マンは充分によくしてくれたんですけどね。天命には逆らえません」  アブロウは人差し指で目尻に溜まった涙を拭うと、気持ちを切り替えるように微笑んだ。そして、 上階へと続く曲線の美しい階段を上がって、キートを部屋まで案内した。  キートが通された部屋は広々として清潔で、居心地がよさそうに整えられていた。アルメニア風の ラグとシャンデリアが豪華さを演出しているが、全体的にとても落ち着いている。ロートアイアンの、 凝った装飾が施された大きなベッド、揃いのチェア。フランス窓の鎧戸は開け放たれ、そこから 陽が差し込んでいる。カーテンはついていない。必要ないのだろう。  キートは壁際のカウチにPCリュックを置いた。 「必要なものがあったら遠慮なく言ってください。着替えの服とか、生活用品はすべて揃っている はずです。マッド・マンの言いつけで〈機械と話す男〉がエドガータウンまで行って買ってきたんです」  クローゼットにデスク、バスルームを指し示しながら、アブロウが言った。 「〈機械と話す男〉?」  キートは首を傾げた。 「アレンのことです。彼は機械が持つ感情や心が解るんです」 「機械の心? つまり、掃除機とか芝刈り機が何を考えているのか解るのか?」 「ええ、それに冷蔵庫やミシンの心もね」  胡散臭そうな顔をするキートに、アブロウは楽しそうに笑ってみせる。キートはそれ以上 ファンタジーに言及するのを止めて、先ほどから気になっていることを訊いてみた。 「ところで、あのドアは?」  それは壁の中央に堂々とある、両開きのドアだった。 「あれは、マッド・マンの部屋に続くコネクティングドアです」 「……鍵はかかるのか?」 「かかりませんね」  アブロウはニコニコしながら即答した。  ―――鍵のかからないドア。つまり、いつでも自由に出入りできる。  それでは同室と一緒だ。部屋なら他にいくらでもありそうなのに、わざわざラザールと同じ 部屋に滞在するなんて、明らかに不自然だと思うのだが、彼女はまるで気にしていないようだった。  それから彼女は、家具や調度品、設備の説明を一通りすると、言った。 「そうそう、カニ料理はお好き? 魚は? マッド・マンが屋敷に滞在中は、ネイティブの漁師が 毎日新鮮なものを持ってきてくれるのよ」 「……カニ肉のクラブケーキは好物だ」  もう何年も食べておらず、味さえよく覚えてはいないが。 「よかった! それじゃ、さっそく作るわ。楽しみにしていてね」    アブロウはにっこり笑い、くるりと後ろを向くと、スカートの裾をたおやかに翻しながら ドアの向こうへと姿を消した。  一人きりになり、気が抜けたキートは疲れたようにベッドに腰かけた。このまま横になって少し 眠ろうか、とも思ったが、考えを変え、シャワーを浴びてスッキリすることにした。

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