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 気持ちを落ち着けるように一呼吸おき、アダムは話を続けた。 「僕が立ち直れたのは妻のおかげだった。だが、彼女に話を聞いているうちに紛争地帯で起きている、 報道されることのあまりないレイプ被害の実態を知った。それで、何か自分でもできることがないかって 考えるようになったんだ」  アダムは飲み物には口をつけず、カップを温めるように手のひらで覆った。 「それで?」 「死に物狂いで勉強して、大学に入り直して法律の学位を取った。今は人権NGO団体の弁護士として 働いている」  話を最後まで聞き終えたキートは心底驚いた。人間、変われば変われるものだ。 「それで、君の方こそ今は何をしているんだい? 支援部隊は全員ルシンダから撤退したけど、君は ただ一人、現地に残ったんだよね。休暇で戻ってるのかい?」  キートは用心したように周りを見る。隣席には学生らしき東南アジア人や、騒がしい中国人カップルしか いなかったが、念のためフランス語に切り替えると、差し障りのない範囲で現状を話した。 「それは絶対に本にするべきだよ」  アダムは即座に言った。 「命の危険を冒してか?」  キートはアダムをちらりと見ると、コーヒーを飲んだ。 「もちろん、今すぐ出版しろって言ってるわけじゃない。だけど、執筆はするべきだよ。まだ記憶が鮮明な うちにね。書き終えた原稿はスイス銀行の貸金庫か、信頼のおける弁護士にでも預ければいい」 「信頼のおける弁護士?」  懐疑的な声を出すキートに、アダムは親指を自分に向けて突き立てる。キートは座ったまま押し黙り、 考え込んだ。……悪くないかもしれない。ルシンダにおける一連の事態において、キートには一家言がある。 今となっては、キートしか知らないおぞましい真実もある。そして何より、これらの歴史を闇に葬るのは 人として許されないことだとも感じていた。 「考えてみよう」  キートはそう言ったが、心の中はもう決まっていた。 「ああ、ぜひ考えてみてくれ。ところで君、これからどうするつもり?」 「とりあえず、カナダに戻るつもりだ」 「ケベックに?」 「いや、ヴィクトリアだ」  静かに席を立ち、素っ気なく別れを告げるキートを引き止めると、アダムは電話番号の記載された名刺を 差し出した。一瞬ためらうが、キートはそれを受け取ると、ポケットに滑り込ませた。   

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