次に目覚めたとき、キートは純粋なる憂鬱とパニックに見舞われた。隣には、ゆうべ情を交わした 相手が裸で、満腹の虎のように悠々と寝ている。 キートはひとつひとつ鮮明に、昨夜の行為を思い出していく。 ラザールの指、腕、唇、熱い楔――― だが、その瞳はいったい、誰を映していたのか――― 身体を重ねている瞬間は、あんなに満たされて幸せだったのに、今のキートは物悲しい気持ちで 一杯だった。なぜ、こんな暗い気分になるのだろう。これはドラッグが抜けたあとの倦怠感なのか? それとも、愛されていると思っていたのが、錯覚だと解ったからか? ……前者だと思いたかったが、 答えは自分でも分かっている。 「トーチ・リリー……か」 泣きたい気分で、囁くように呟く。 ……自分は花に例えられるような人間ではない。ラザールが愛しているのは自分ではない、他の誰か なのだとキートは確信した。そもそもラザールは、出会ったときから自分を誰かと勘違いしていたでは ないか。あまりにも滑稽で、哄笑を上げたくなる。 そして、なぜこんな気持ちになるのか、キートは唐突に理解した。 ラザールを愛していることに気付き、やるせないほどの悲しみを感じた。 ……これ以上、彼の傍にはいられない。 ―――今なら、まだ間に合う。 今ならまだ、離れても生きていくことができる。いつかはその腕の温もりも、その唇の甘さも忘れ られる日がくるだろう。そして、手放しがたいほどの快楽も――― ―――今なら、まだ…… すべては、夢だったのだ。 こんな気持ちを抱えたまま、誰かの身代わりに抱かれ続けるのは無理だ。この閉ざされた世界で、 ラザールの身を案じながら待ち続けるのは耐えられない。 自分の存在意義が見いだせない――― ラザールへの想いを自覚したキートが取った行動は、速やかに姿を消すことだった。 ♦ ♦ ♦ キートが姿を消した翌日――― ラザールは、林の中に流れている、小川に沿った小道を急ぎ足で歩いていた。朝から針のように細い 霧雨が降っていた。ニレやカバの木に芽吹いた新緑も、畦に咲く草花も、何もかも色褪せて、雨に烟る ように霞んで見える。 ……キートが姿を消した今、世界は再び色を失くしてしまった。しかし、ラザールはこのまま悲嘆に 暮れているつもりは毛頭なかった。 坂道になった林道を歩いていくと、小高い岩山の斜面に洞窟があった。 ラザールは入口を覆う麻布を持ち上げて、躊躇うことなく内部に足を踏み入れる。洞窟の中では、 強く、甘い匂いが漂っていてラザールはほっとする。スギの葉とハーブが燃えるその匂いは、ここに アレンがいる証だ。 どんどんと奥に入っていくと、小さな岩を積み上げて作った炉の前で、アレンが火の番をしていた。 ラザールの姿を目に留めたアレンは、スギの小枝とヤクヨウサルビアを炉の中に落した。香りが一段と 強く漂う。 「キートが姿を消した」 開口一番、厳しい声でラザールが言うと、アレンは肩を竦めてみせた。 「それはまた何で?」 「知るか」 やけくそ気味に言いながら、ラザールは焚き火炉を囲む岩のうえにどっかと座った。
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