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「下がりなさい」  白き乙女の命令は目前の開明に向けられたものではなかった。  忍達の撤退は迅速かつ、静粛。  鍛えぬいた身のこなしは、足音すら慎ましく、出てきたときと同じく物陰に消えていく様を見送りながら、黒衣が唸る。 「ご配慮、痛み入ります。族長よ」 「代理です。お間違えなきよう」 「これは失礼」  僅かに頭を下げる。  心から申し訳なさそうに見える怪人物の挙動を、風香は眉一つ動かさず見つめている。  頭二つ以上高い、艶消しの、表情なき顔から眼を逸らさない。  髑髏を模した仮面で顔を隠し、黒衣で全身をすっぽりと覆っている。  見た所、空を飛べるような体つきではないにも関わらず、遥かなる空から突如現れた。  自らを医者だと名乗った、風鳴の主治医だと。  とてもそうには見えない。  命を救うというより、頂戴しに来たと言われる方がまだしっくり来る。 「あなたは……」  ぎにゃああ、と客間から悲鳴が上がった。  黒衣の頭がハッと上がり、風香が振り返る。 「極楽じゃあ~、極楽浄土~」 「止めろーッ、離せーッ!」  円族の少女が赤毛を振り乱して暴れている。  その体に人が組み付いている。  しかも、豊かな胸を掴まれて。  振りほどこうと壁に床にとドタバタのたうち回るのをのらりくらりとやり過ごしながら、離れる気配がない。  暖簾に腕押し、糠に釘、風に吹かれる柳かはたまた激流に事無く揺れる海藻か。  風歌と風鳴も手を出したくても出せないといった風に、環から距離を取っている。 「あれは?」  開明が疑問を呈する中、風香だけが深い溜息の後、眉間を押さえる。  なにしろ、見知った者だったので。  指の一本一本の、あの絶妙な力の入れ具合、少女の抵抗をものともしない技術、にやけた赤ら顔、匠の技にして見飽きた顔だ。  中肉中背、作務衣姿、白髪の男性。 「……父上」  たん、と音が聞こえた。  一同がそう認めた時、環と男の背後に白い影が浮かぶ。  亡霊めいた立ち姿から白線が二条伸びて、お互いをしっかり掴んだかと思うと二人の姿は離れていた。  この世ならざるものではありえない挙動に驚く間もなく、環は顔面から畳にすっ転び、男は風香と無理矢理対峙させられた。  風切る音。  びびびびびびびび。  弁明の余地もなく族長代理の高速ビンタが無精ひげの頬に炸裂する。

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