I ____ you
I ____ you

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 窓の外にゆるやかに電車が駆けていく音が、鼓膜を揺らす。音が止みきった頃合いを見計らって、わたしはしずかに目を開けた。枕に埋もれた視界半分は真っ暗で、あとの半分はカーテンの向こうにある外の光を少しばかり透過させて、暗闇を灰色に染めている。  この部屋は、窓から顔を出せばすぐのところに線路が見えた。だから毎日終電とともに眠りにつき、始発とともに目を覚ます。と言えれば格好がよかったのだけれど、実際はベッドの中に潜り込んで電車の音を聴いていても、いつのまにかその音は遠ざかって、気づけば眠りについていることが多い。反対に、なかなか寝付けずに終電まで電車の音を聴き届ける夜もあった。  そして今日は、明らかに後者だった。終電まできっちりと聴き届けてしまうほど夜は更けているというのに、いっこうに微睡みは訪れない。しばらくぼんやりと虚空を見つめていると、カーテン越しに感じられた光の気配が次々に眠りにつくように消えていく。線路の照明が消えたのだろう。明るさが瞼を閉じて、だんだんと闇の濃度を増していく。やがて光は完全に鳴りをひそめた。それでも、何も見えなくなるほどの暗さではなかった。カーテンの襞、ローテーブルの縁、テレビの液晶画面、それぞれの輪郭が白く染まって、無機質にそこにいることを主張している。それらに囲まれるわたしだけが、まるで異物のように思えた。世界でわたしは独りぼっち。静寂にそう言われているような気がした。  寂しさに侵食されるまえに、眠ろう。そう思って枕に顔を埋め直し、目を閉じる。冷蔵庫の唸り、テレビのデータ受信音。機械の音が耳の奥でひそひそと反響する。静寂が、うるさい。寂しさをなぞるように、感覚ばかりが冴えていく。ため息をつくと、すぐに跳ね返ってきて頬に生あたたかい吐息がかかった。  諦めてむくりと身体を起こし、ベッドの上で壁に背中を預けて体育座りになる。そして、枕元に伏せてあったスマートフォンを手に取った。手の中で光る長方形のブルーライトが、不躾に顔をなぶって照らす。眩しさに目を眇めながら、動画アプリを起動させてプレイリストを開いた。そして、いつものように一つの動画を再生させる。タイトルは『_ _1』。たった三文字の記号と数字で並べられたそれは、検索にかければいとも簡単に他に紛れる、ありふれた羅列だった。  画面にはギターを弾く手元と、白いシャツの肩口に透けて見える、青い二匹の蝶々の刺青。弦を爪弾く動きに合わせて、シャツの生地がかすかに揺れ、蝶々が羽ばたく。アコースティックギターの素朴な音色が、戯れるように同じ音階を行ったり来たりしてから、曲はゆるやかに始まった。それは囁くように歌い上げられる、ロックバラード。吐息を孕ませた歌声が徐々に上擦って、熱を持ったものに変わっていく。  ふと、画面の上部にアッシュブラウンの毛先が垣間見えた。その瞬間、感情の波が鎮まったように、穏やかな声色が戻ってくる。 『鮮烈な色をやさしくするよ、だから』  その続きは音にならずに、沈黙に飲み込まれた。ブツリ、ブツリ、バグを起こしたみたいにメロディは途切れて、散り散りになる。ひらひらと鱗粉を撒き散らすみたいに曲の形を留められずに一粒一粒の音になる。そうして今日も、その歪んだリリックはいったい何を歌っているのか、わたしにはわからなかった。最後には砂嵐に飲まれて、画面の真ん中に『この動画は削除されました』と表示される。  ときどきこうやって、彼の動画が削除されることはままあった。厳重注意されるわけでもなし、アカウントを抹消されるでもなし。気がつけばいつの間にか消されているらしい。そのたびにまた新しく投稿して、消されて、投稿して、といういたちごっこが、いつからだったか正確な日にちがわからないくらいずっと前から続いていた。理由は何なのか、わたしには本当のところはわからない。けれど、伝えたいことを歌にのせるのが一概にわるいことだとは、どうしても思えなかった。なんにもわかっていないくせに、彼の歌が少しでもこの世界に存在していてほしいと、わがままなことを秘かに思ってしまう。  プレイリストに戻って、次は『_ _2』というタイトルの動画を再生する。彼の動画は1から6まで続いていて、わたしはいつも、羊を数えるみたいに1から順番にその曲を辿って、眠れない夜を過ごしていた。それは子守唄にしては感傷的すぎて、眠気覚ましにしては穏やかすぎる。でも、その歌声に耳を傾けている間は、この夜の闇の中でも生きていることを許されている気がした。  彼の歌声は、さながら灯火だ。吐息とともにつぶやかれる響き、沈黙の間にもたらされる小さな息継ぎ、その息遣い一つひとつが生に溢れていて、それは暗闇のなかで唯一灯る純粋であたたかな光のよう。時に風に煽られてゆらりと揺れ、それでも光は消えない。その輝きが抗いようのない引力でしたたかに、わたしの琴線を撫でてくるのだ。訴えるように、叫ぶように震えるその声に耳をすませながら、いつも救われるような想いでいた。  画面の中でまた、歌が途切れる。声が蘇る。その繰り返しを何十回か聴き届けて、でもやっぱり、と心の中でつぶやく。不特定多数より、わたしだけに向けられたものがいい。  動画アプリを閉じて、短縮一番で電話を掛ける。3コールが鳴った後に、ぷつりと電話が繋がる音がした。 「もしもし?」  電話越しに聞く彼の声は、同じ機械を通してでも先ほどとはまったく違った響きを湛えていた。いつもよりゆったりとしていて、寝起きなのだろうなぁとわかる。 「どうした?」  優しい声に、途端に申し訳ない気持ちが心を占めて、言葉が詰まった。自分から電話を掛けたというのに、何をやっているんだろう。 「……また、眠れない?」  そう問い掛けられた声は、あくまでも優しい。あの蝶々の羽ばたきと共鳴する叫びとは違う、甘い柔らかな響き。  わたしは「うん」と控えめに頷きながら口にした。そして二三度逡巡したあと、ぽつりとつぶやく。 「おまじない」  電話越しに、短く息を吐く音が揺らめく。 「言って」  求めるように電話口に声を這わせる。大きく息を吸って、吐く。向こうでは、彼の深呼吸の間に車の走行音が忙しなく駆けていって、遠くなる。 「わかった」  その声は少し上擦って、擦り切れたようにしぼむ。もう一度吸って、吐いて、吸う。そうして一度咳払いをしたあと、「コウ」とわたしの名前を呼んで、囁いた。 「  」  だよ、という語尾だけが、わたしの耳に届く。とくん、と少しだけ胸の奥がふるえる。 「もう一回」  ちょうだい、そう言うと、長いため息の末に、再びその言葉が紡がれる。 「  」  二拍分のその空白。その間だけは世界が遠ざかって、何も聞こえなくなって、わたしの鼓動だけがしずかに脈を打つ。それは、わたしは今ここに生きているんだと実感できる、無音のおまじない。ほんとうはそこにあるはずだった言葉の響きと引き換えに、わたしという存在は生き返って、ここに存在している。その言葉の正体はとうに忘れてしまっているけれど、聞こえないその言葉がわたしと彼をつなげる唯一の光だった。  愛より重くなくて、友情とは少し違う、その二拍の間につむがれる魔法の言葉。      ◎  ある日突然、世界中の女の子たちの頭の中からその言葉は消えた。対象は年齢問わずに女性だけ。まるでこの世界に元から存在していなかったかのように、その言葉はわたしたちの記憶から抜け落ちていた。そしてその影響に、わたしたちはその言葉がいっさい認識できなくなった。書き物には空白、音のものはテレビ、電話などの電子媒体、ましてや生の声でさえも、その言葉の部分だけが抉り取られて無音の時間が生まれる。時間を経てくるとそういう概念があることは朧気にわかるのだけれど、その感情を伝えるための言葉がわからない。考えようとすれば頭の中に靄がかかって、何も考えられなくなる。けれど、世界にはその言葉は当然のように存在していて、わたしたち女の子だけが、その言葉を前にすると赤子のように無知だった。巷では書籍、音楽などのその言葉に関するものを規制するような噂が出たこともあって、一時的にではあるけれども世界は混乱を極めた。時とともに話題性は薄れていって、今では状況は落ち着いたけれど、あの時は誰もがその現象の詳細をつかめず、その言葉を口にするのを怖れていた。  その現象が起きた直後、私は彼のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていた。つまり、そういう感情で見ていたってことだろう。だから断りもなく部屋に現れた彼に対して、わたしはすごく警戒心を抱いていた。「誰?」わたしが言うと、彼はひどく傷ついた顔をして、俯き口を閉ざした。でも、そんなことに構っていられないほど、わたしは恐ろしさを感じていた。誰かもわからない人と部屋の中で二人きり。狼狽していたわたしに彼は、わたしたちは親しい仲なのだと告げた。そして困ったように笑って、言ったのだ。  たとえ忘れられたとしても、 「俺はコウのこと、ずっと  だから」  必死に、切実な眼差しで訴えかけてきた彼の言葉を、わたしは聞き取ることができなかった。けれど、胸の奥でとくん、と心臓が小さく揺らいだ感覚に刹那的に支配される。溢れ出すほどではない。淡く優しく心を染めていく。その感情を、わたしは何と言っていたんだっけ?   白んだままの思考で、今度は目の前の彼の姿をしっかりと見つめた。伸ばしっぱなしなのが窺えるアッシュブラウンに染まった髪、その隙間から見える傾斜のなめらかな鼻梁と、目尻がつり上がった猫のような目。その瞳の中では無数の光が泳ぐように流動していた。その目が、押さえつけるように細められて光を失う。そうして、彼は悲しそうに笑った。とくん、とまた、胸が高鳴る。その瞬間、わたしはゆっくりと彼の首に腕を回して、体を引き寄せていた。それは本能だったのか、使命感だったのか、わからない。収まった体をできるだけ優しく包み込むと、強い力で抱き締め返された。その力は、もう離さない、と言われているみたいだった。  それ以来、わたしたちは互いの家を行き来する親しい関係になった。彼曰く、元に戻っただけ、らしいけれど。  彼はシンガーソングライターを目指していて、今はバイト先を転々として食いつなぎながら、夢に向かって生活しているらしかった。昼はコンビニでレジを打ちながら、夜はライブハウスでギター片手に曲を歌い上げる。その合間にわたしに会いに来ては穏やかな時を共に過ごした。彼のルーティーンの中にわたしがいることに少しのこそばゆさを感じつつも、それは当たり前のように生活に浸透していた。  けれど、わたしには二つ、悩みがあった。  一つは、あの時の胸の揺らぎを、心地好い静寂を、いつまでも忘れることができなかったことだった。彼と顔を合わせる度、その感覚が脳裏を掠めて、言いようのない気持ちが胸を締め付ける。  そして二つ目は、自分の名前が漢字で書けなくなってしまったことだった。その言葉のことを考えようとする時と同様に、ぽっかりと頭の中に空白ができて、ペンを持つ手が止まる。諦めてひらがなで書いた自分の名前はあまりに幼稚に見えて、毎回惨めな気持ちになった。こんな普通の人ができることを、どうしてわたしはできないのだろう。わたしが一人思い悩んでいる様子を察して支えてくれたのは、彼だった。 「その言葉を思い出せるように、一緒にいるとき、夜眠れないとき、求めればどんなときでもその言葉を伝えよう。そうこれは、コウを幸せにするおまじないさ」  そう言った彼の声は、恍惚とするほど美しかった。こんな何もわかってやしない女に、どうしてそんなに優しいのか。それはきっと、その言葉の正体を知っているからだと少し悲しくなって、そんな彼のことをもっと知りたいとも思った。  それからは彼の言葉に甘えるように、わたしは決まってその言葉を求める。たとえその正体を忘れてしまっていても、その言葉を彼が囁いてくれるかぎり、わたしはわたしでいられて、心から救われる。それは魔法のような、おまじないだった。    ◎  深く、澄み渡るような静寂。一秒にも満たないその時間が、彼のふるえるような吐息で掻き消される。はっとして、いつのまにか閉じていた瞼を開いた。 「コウ?」  漢字で書くことのできなくなった、わたしの名前を彼が呼ぶ。 「眠くなってきた?」 「……ううん」  まだ彼の声を聴いていたいから、とろりとした意識のまま嘘をついたけれど、電話の向こうからふふ、と小さな笑い声が聞こえた。 「切ろうか?」 「……やだ」 「っふふ」 「笑わないでよぉ……」  とがめてはみたけれど、出たのはふにゃふにゃした声で、まるで説得力がない。彼の声はごめんと言いつつ、言葉の端は笑っていた。漏れ出た笑い声に合わせて、視界がふわふわと揺れる。薄い輪郭が曖昧になって、夜に溶ける。笑い声が止んでふいに、そよ風に乗せるように、彼はわたしの名前を呼んだ。そして、 「  」  花を摘み取るような軽やかさで、彼の声が奪われる。その淡い一枚が舞い降りて、とく、とく、と小さく鼓動を高鳴らせる。瞼の裏にぽお、とゆるやかに光が生まれて、そのたった二拍のリズムが心地好く胸を焦がしていく。 「ありがとう」  わたしがそう言うと、数秒の間があって、彼はうん、とつぶやいた。声が切なげにふるえて聞こえたのは、きっと気のせいではないのだろうなと、他人事みたいに思う。そうさせているのは、他ならないわたしだというのに。  目の前の薄闇に、彼の姿を思い描いた。視線を落として微笑するその顔。それがこちらに向けられて、薄い唇がゆっくりと、二つの文字を象る。細められた瞳から光が消えて全部、真っ暗になる。幻影が黒に吸い込まれても、その微笑みは頭の中から消えてくれなかった。  彼はその言葉を口にした後、決まって数秒黙り込んでから、悲しげに笑った。しずかに潤みが差す瞳。そこに宿った光を覆い隠すように引き寄せ合う目尻と口角。それぞれが見えないくらい僅かに、穏やかに歪む。  どうしてそういう顔をするのか、わかっている。その言葉を求めるのは、いつだってわたしの独りよがりなのだ。満たされているのはわたしだけで、彼はきっとその数秒の間に、わたしの口から同じ言葉が囁かれるのを待っている。それでもわたしは、その言葉を繰り返すことはできなかった。諦めて彼の目が弧を描くとき、その中に息づいていた光は消えて、全てわたしに吸い取られる。少しずつ、確実に希望を奪っていく。  いっそ愛してると言ってあげられたなら、どんなに良かっただろう。けれど、そう答えられるほど、お互いの気持ちは膨れ上がってはいなかった。わたしが愛してると告げられないように、彼も決して、わたしに愛してるとは言わなかった。ただ一途に、その言葉を囁くだけ。なにも、返すことはできない。  どうして、消えてしまったのだろう。その言葉の輪郭だけをなぞって、しずかに想いを馳せる。テレビのニュースで、どこかの誰かが言っていた。女の子だけその言葉を失ったのは、浮気や未成年同士の性行為など、不純な関係をなくすためなのだと。その言葉が失われて、男が女を捨てでもすればその程度の関係だったってことだし、手放せないほどつながりが強ければ愛に発展する。そうして取捨選択して、深い愛だけを残すことで、世界は幸せになるだろうと。  深く愛することだけが幸せなんだろうか。それが本当なら、わたしたちの関係は何なのだろう。壊れもしないし、愛にも発展しない。この世界ではやっぱり、異物なのだろうか。 「  」  彼の口から空白が生み出されるたび、わたしは幸せだった。ふわふわと掴みどころのない感覚に満たされて、繰り返し、繰り返し、彼がつぶやくその言葉を聴いて、不確かだった幸せはやわらかに形を得て、いつの間にかかけがえのないものになっていた。でもそれは、わたしだけなのだ。彼はきっと、幸せじゃない。おまじない。そう言って作られる微笑みは、吹けば消えてしまいそうな、小さな灯火のように見えた。ゆらゆらと彼の顔が歪んで、吹きつけた風に煽られて一瞬で消える。想像するだけで苦しくなる。彼が幸せでないならば、わたしのことなんていっそ捨ててくれたって構わなかった。微笑みに隠したその本当の想いを見せてほしい。その一心で繰り返し、繰り返し、それでもまだ思い出すには足りなくてまた、その言葉を求め続ける。わたしだけが幸せで、彼はそれに応じるだけ。こんな関係はきっと、歪だ。わたしはただのおまじないじゃなくて、彼を幸せにするその言葉を知りたかった。    彼の口のかたちを真似して、その言葉の片鱗を描く。すぼめて、薄くひらく。一音も零れることのないそのくちびるに、しずかに触れた。淡い桃色に染まったそれはどこまでも、あたたかくて幸せだった。途端、とろとろと思考がとろけて、視界が薄桃色に包まれる。なすすべもなく、わたしはベッドに身を委ねた。 「コウ?」  彼がまた、やわらかな声でわたしの名前を呼ぶ。その声が、微睡みに溶けて遠くなる。枕に埋めた左耳から、ゆるやかに走りはじめる電車のような心地好いリズムが鼓膜を揺らした。深い眠りに、つれていってくれる懐かしい響き。この感情をわたしはなんて言っていたんだっけ。  まぁ、いっか。わからなくても。だってたどり着くにはまだ、先は長いから。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません