娘失格
二、交錯と倒錯(7)――娘

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 ひなとイタチ――井達と書く――が再会したのは、先週……オープンキャンパスの日の翌週になる。  学校帰りに声をかけられて、顔を上げると、なんとあの優しいおじさんがいた。びっくりした。どうしてこんな辺鄙な場所にいるのか、一瞬、いぶかしく思わなかった訳じゃないけれど、聞けば、月に何度か県内の地方を見て回っているのだという。 「そんなに田舎に憧れてるんですか?」  そうも聞いた。 「都会にいると、どうしても嫌な思いをすることが多いからね。一息吐くには、人の少ない静かな場所が必要なんだよ」  それから彼は、「井達です」と名乗った。ひなも自分の名前を明かした。  そういえばなんの仕事をしているのだろう。先週に再会した時は聞かなかったが、今日は聞いてもいいかもしれない。井達と連れ立って駅前にある喫茶店へ向かう途中で、思い立った。  ところで今日、ひなが井達と待ち合わせたのは、お互いに相談事があるからだった。ほとんど初対面の者同士だというのに、そろって相談したいことがあると知った時は可笑しかった。二人とも、二つ返事で引き受けた。  喫茶店の出入口は自動ドアじゃなかった。個人経営の小さな店だ。引き開けると、ベルの小気味いい音が鳴った。  ひなにとってこの店は初めての場所ではない。かつて、母に連れられて、一度だけ来たことがある。けれど幼かったせいで、その時の記憶はほとんどない。 「井達さんは、なんのお仕事をしてるんですか」  注文した飲み物を待つ間に、さっき浮かんだ質問をぶつけた。二人ともアイスコーヒーを頼んだ。井達はケーキも勧めてくれたが、そこまでは遠慮しておいた。思えば他人から奢って貰うのなんて初めてかもしれない。 「昔は中小企業のサラリーマンをしてたんだけどね。今は非正規で、兼業をしてるんだ」  正面に座る井達は、手を組んだまま微笑んだ。 「アルバイトってことですよね。でも仕事が二つもあったら、忙しいんじゃ?」 「全然。両方とも楽な仕事だよ。自分が住んでるマンションの管理をしながら、時々、近くの学校で試験監督をしてるってだけさ」 「あっ、だから日立が丘の場所もすぐわかったんですか」 「行くことが多いのは大学とか予備校なんだけど、高校でもたまに呼ばれるからね」 「でもマンションの管理人さんって、大変なんじゃないですか?」 「やってることは自宅の掃除の延長みたいなものだよ。だから、普通のサラリーマンよりも自由な時間は多いかな」  その分、給料もそれなりだけどね、と笑っている。  マンションの管理人って、家族も一緒に住み込みができるのか――以前、井達の口から、ひなと同じぐらいの娘がいると聞かされていたのを思い出す。あの時に見せられた寂しげな表情が気にかかるけれど……。  アイスコーヒーが運ばれてくる。店主と思しきひげの生えた男性から、ミルクとシロップは使うか尋ねられて、ひなは「はい」と答えたが、井達は両方いらない旨を伝えた。テーブルにミルクとシロップが一つずつ置かれる。 「大人が子供に相談したいことってあるんですね」  ミルクピッチャーの中身を全てグラスに注ぎながら、ぽつりと言ってみた。井達は声を出して笑った。 「大したことじゃないよ。田舎に住んでる知り合いなんて、ひなちゃんぐらいのものだから、案内役をお願いできないかと思ったんだ」 「案内役?」 「こないだ言ったこと、覚えてるかな。田舎に住もうと思ってるって話」 「あ、はい」 「そろそろ具体的な引っ越し先を決めようと思ってて。候補はいくつかあって、この町もその一つなんだけど、どこに何があるかも知らないんじゃ決めようがないからね。他の場所なら自分で散策するんだけど、せっかくひなちゃんと再会できたんだ。これも何かの縁だと思いたくて」 「って言っても、なんにもないところですよ」  心なしかふてくされたような声になった。この町のことは嫌いじゃないが、不便ではある。そんな田舎に憧れる人の気持ちは、やっぱり理解できそうにない。  こういうのを、ないものねだりというのだろうか。それとも、隣の芝生は青く見える? あれ、同じ意味の言葉だったかな――  井達はまた笑っている。 「えっと、管理してるマンションからは、出ちゃうんですよね。家族は嫌がらないんですか?」  どうでもいいことを考えるのはやめて、さらに気になったことを声に出す。さっきから、ひなばかり質問している。  井達は嫌な顔をせず、穏やかに答えた。 「家族は、いないよ。ぼく一人で住んでる」 「あれっ、わたしと同じぐらいの娘がいるって……」 「離れて暮らしてるんだ。それに、今の稼ぎで家族がいたら、家なんて買えないかな」  井達は笑うが、それを聞いたひなの方は、彼が見せた寂しそうな表情の理由もそこにあるのではないかと思った。  深くは聞かない方がいいかもしれない。ひなが、母に、父のことを聞かないでいるのと同じように。 「それで、どうかな。引き受けて貰えると、嬉しいんだけど」 「えっ、ああ、うん……いいですよ」  特に断る理由は浮かばなかった。 「本当に?」 「はい。わたしも、井達さんに聞いて欲しいこと、ありますし」 「わあ、助かるなぁ」  井達は顔をしわくちゃにした。そんな笑顔を見せられると、どうしていいかわからなくなる。 「でも、ほんとになんにもないんですよ」 「公園もかい?」 「それは、ありますけど」 「商店街は?」 「今にも潰れそうなとこなら……」 「たくさんあるじゃないか」  そんな場所でいいなら、確かにないとは言えなくなるが。やっぱりこのおじさん、変わっている―― 「ひなちゃんと一緒に歩くとなると、明るい時間帯がいいだろうね。夕方までに都合のいい日があったら教えてくれないかな」  それから、連絡先を交換する流れになった。流行りのメッセージアプリのIDではなく、メールアドレスだった。メールなんて、ひなは数えるほどしか使ったことがない。 「ありがとう。それで、ひなちゃんが聞いて欲しいことっていうのは?」  グラスの中の氷が、からん、と音を立てる。ひながこれから言おうとしているのは、今まで誰にも言わなかったことである。そのせいか、大した相談事でもないのに、ひどく緊張する。 「おかあ、さんが」 「ん? なんだい?」 「最近、お母さんの機嫌が悪いような気がするんです」  井達はきょとんとした。だがすぐに微笑を浮かべた。 「お母さんが怒る原因に心当たりはあるのかな?」 「んー……嘘なら、吐いたけど」 「どんな?」 「オープンキャンパスの日……井達さんに会った日、わたし、友達と遊びに行くって……日立が丘までの交通費を、嘘の理由を言って、貰ったんです。今から勉強を頑張ったら、もしかしたら、もっと近場の高校にも行けるかもしれないから、ぎりぎりまで進路のことは言いたくなくて」 「それはひなちゃんの、お母さんへの思いやりもあるんじゃないかい? 嘘も方便というじゃないか。後ろめたく思う必要はないんじゃないかな」  井達は優しくさとすように返してくれるが、ひなの喉からこぼれたのは、「うーん」という、うなり声だった。 「でもわたし、恵ちゃん……友達をだしにしたから。それは悪いことだと思ってます」 「だし? ああ、友達と街まで行くって言ったからか。そのケイちゃんって子は、このことを知ってるのかな」  首を横に振る。 「じゃあ、お母さんはどうやって、ひなちゃんの嘘に気付けるんだろう? イライラしてるっていうのも、ひなちゃんの思い過ごしとは考えられないかい?」 「お母さんと恵ちゃん、わたしがいない時に喋る機会があったみたいで」 「ああ……」察したような声が上がった。 「でもそれはここ何日かの話で」ひなは続ける。 「わたしが嘘を吐く前から、お母さん、イライラしてる気がします。わたしに隠れて、今まで吸わなかった煙草を吸ってたぐらいだから」  母が苛立ちを見せることが増えたように感じるのは、今年に入った辺りからだろうか。これに関してひなに心当たりはない。  問い詰めようとは思っていなかった。けれどほのかな罪悪感を抱えている今、余計に苛立ちの理由を聞き出しにくくなっているのは事実である。裏を返せば、母に「ごめんなさい、実は貰ったお金は他の目的で使いました」と切り出せないでいるのも、隠し事を続ける母への不信感によるものが大きい。  悪循環、という言葉が浮かぶ。 「そろって隠し事をしていて、しかも両方ともが勘付いてるって状況なのかな」 「たぶん、そんな感じです」 「ふむ」井達はうなる。 「ひょっとするとお母さんの隠し事の理由も、ひなちゃんと同じで、ひなちゃんを思いやってのことかもしれないね」  顔を上げた。井達はどこまでも穏やかだ。少し、意表を突かれた気になる。母がいつだって、娘である自分を守ろうとしていることなんて、わかっていた筈なのに。  でももし、母の様子の変化が思いやりからくるものだとすれば……不機嫌の理由はますます聞き出しにくい。知る必要のないことは知らなくていいというのが、ひなの持論なのだから。  結局、問題解決へは至らなそうである。  それでも誰かに話したお陰か、胸の中のもやもやとしたものは、いくらか軽くなっているように思えた。 「やっぱり、お母さんにはまだ、何も言わないでおこうと思います。……聞いてくれてありがとう、井達さん」 「ひなちゃんの相談したかったことって、それかい?」  うなずく。 「ぼくは聞くぐらいしかできないから、本気でどうしようか迷った時は、もっと身近な人に相談するんだよ」 「それは無理です」  ひなは、今度は乾いた笑いを上げた。 「恵ちゃんは同い年だし、家庭の相談とかできるタイプじゃないし。それにうち、お父さんもいないから」  恵太と話す時のように、さらっと、なんでもないことのように答えた。 「別居中なのかな?」 「ううん。物心ついた時から、ずっと」 「……そうか」  それで大体の事情は伝わったらしい。井達の優しそうな笑顔は、神妙な顔付きに変わっていた。 「うちと同じなんだなぁ」  そう言って腕を組むので、ひなも同じようにした。二人して、ううん、とうなる。  同じ。井達がそう言ったことで、彼が家族と離れているのも、単身赴任などの一時的な理由によるものではないというのがわかった。 「なんか、井達さんとは偶然がいっぱいありますよね」  ストローに口を付ける。グラスの中身は、溶けた氷でかなり薄まっている。 「それは、いい意味でかな?」 「悪い偶然だったら嫌だなぁ」  素直に答えると、ははは、と笑われた。 「ところで、ひなちゃんの家に関する大事な話を、ぼくなんかが聞いてもよかったのかな」 「井達さんに聞いて欲しかったんです」 「どうして?」 「とっても親切な人だなって思ったから。でもそれだけじゃなくて、変な理由だって思われるかもしれないですけど、その、似てたから」 「似てた?」 「横顔が……」  この時のひなの頭の中には、二人が出会ったあの日の情景が浮かんでいた。横断歩道で並んで信号待ちをしている時に見たものが。  井達の横顔。それは確かに見覚えのあるものだった。  母の撮った写真を見た時に。合わせ鏡の間に立って、横目で見た時に―― 「井達さんの横顔。わたしの横顔に、似てるんです」  首を動かして、顔を横に向けてみせる。ふっくらと丸みを帯びた頬や、高くはないけれど尖った鼻先が、相手からはよく見えているだろう。  井達ははっと息を呑んで、「言われてみれば」と、つぶやいた。続けて、「それが理由なんて、君は変わってるね」とも。

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