娘失格
一、母娘の隠し事(1)

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「ドリーのかーちゃん、若いよなぁ」  クラスメートの浅尾恵太が、藪から棒にそんなことを言うものだから、ひな――妻鳥雛はまばたきをくり返した。彼女がドリーと呼ばれるのは、苗字がメンドリだからだ。 「そう? お母さんはお母さんとしか見てないから、よくわかんない」 「スタイルもいいって俺のかーちゃん羨ましがってたぜ。俺を産んだせいで太ったんだって。ひでーよな、俺が産まれたのは俺のせいじゃねーのに。あとショタイヤツレ? して見えないって言ってた」  恵太は、およそ中学生が使わない言葉を口にした。所帯やつれ。意味はわかる。母だって苦労はしていると思うが、 「気をつかう相手がいないからじゃない? うち、お父さん、いないし」  表情を変えることなく、答えた。  恵太はどこかげんなりした顔を見せて、「そーゆーこと、さらっと言うなよ……反応に困るだろ」とぼやいた。  ひなには、生まれた時から父親がいない。なぜいないのか、どんな人だったのか、母に尋ねたことがない訳ではない。でも、はっきりとは教えてくれなかった。その時の母の困り果てた様子から、あっ、これは聞いてはいけないことなのだ、と悟った。それ以来、母に父のことを聞くのは控えている。  それに、父がいないことで、これといって困った経験もない。ひなにとっては父がいないのが当たり前。そんなだから、この坊主頭の幼馴染からは、どこか抜けていると呆れられるのかもしれないけれど。  終礼の済んだ教室内からは、みるみる生徒が減っていく。もともと一クラス当たりの生徒数は少ないけれど、今は五人ぐらいしかいない。その内に恵太も部活へと向かっていった。野球研究部だ。野球部ではないのは、部員数が九名しかいないせいだった。田舎にあるこの中学校は全校生の数自体が少ない。週末にはたまに他校と合同練習をしているようだが、普段は草野球に毛が生えたような活動をしている。どうせ大会に出ることもないから、ふんわりとした部活内容になっているのだと、恵太はあっけらかんと言っていた。  帰宅部のひなには、あまり興味が持てない問題だけれど。本人たちが楽しんでいるなら、なんの問題もないと思う。  鞄を肩にかけると、帰り道を進んだ。ひなの家は学校から歩いて三十分弱のところにある。今日はいつもより早くに授業が終わった。教員による会議だかなんだかの都合で、午後の二時限が十五分ずつ短縮されたのだ。いつもなら学校を出る時間に家に帰り着くことになる。  あぜ道ともいえる田舎道を歩いている時、春風に吹かれて、くしゃみが出た。  ところで卒業までもう一年を切っているのに、ひなの進路はまだ決まっていなかった。  自宅の引き戸をからからと開けて、玄関に入る。古い、小さな戸建て。借家だと聞いている。  廊下の奥から、あわただしい気配を感じた。 「ただいまぁ。お母さん、いるの?」  鍵が開いていたのだから、いるのはわかっている。それでも声をかけながらリビングに向かう。  途中、違和感を覚えた。嗅ぎ慣れない臭いがする。  リビングに入ると、母と目が合った。長い髪を一つに結んだ――幼馴染がいうには、若々しい――見慣れた母の姿が見える。ごうごうと音を立てる換気扇の下で、何かに怯えたような表情を浮かべている。 「おかえり、ひな。早かったのね」  口調もどこか取り繕ったようなものに聞こえる。幼馴染から抜けていると言われるひなでさえ、不思議に思わない方が難しいぐらいだった。  学校指定の通学鞄を食卓の椅子に置いて、制服のリボンをはずした。 「今日は午後だけ短縮授業だって言ったじゃん」  ついでにスカートも脱いでハーフパンツ姿になる。いつも、スカートの下には体育で使うジャージを履いている。 「お母さん、今日はパートじゃなかったんだよね。さっき何してたの?」  問いかけてみたところ、母はわずかにうなった。 「実は、ゴキブリがいて……仕留め損ねちゃったのよね」 「うそ!」悲鳴を上げる。 「大きいやつ?」  続けて質問すると、申し訳なさそうにうなずかれた。  田舎の民家なのだからゴキブリなんていない訳がないのだが、大物がひそんでいるとなると、知らない方がよかった。 「もう……それなら黙っといてよぉ」 「ひなが聞くからじゃない。いぶせば出てこないかと思ったんだけど、無理ね、この程度の煙じゃ」  母は、どこか諦めたようにため息を吐いた。さっきから部屋の中に漂っているこの臭いは、煙が原因らしい。 「何か燃やしたの?」 「線香花火をね。ほら、去年の夏祭りで貰ってたやつ」 「危ないなぁ」 「ちゃんと水を張った器の上でやったわよ」  キッチンのカウンターに、炭酸飲料の空き缶が乗せてある。母はそれを手に取ると、勝手口から外に出た。臭いが、少し、ましになる。  きっとあの中に捨てていたのだろう。――吸い殻を。  ひなは世間のことは何も知らないけれど、それでも、線香花火があんな臭いじゃないことぐらいは知っている。あれが、多分、煙草の臭いであることも……。  母が喫煙する姿など、生まれてこの方見たことがない。けれど見たことがないというのが、存在しない証明にはならない。意図的に隠された情報を手に入れるのは難しい。  そっと、胸を押さえる。心臓が早鐘を打っている。  ひなには知らないことが多過ぎる。でも知ってしまえば、こうやってショックを受けるものもある。ゴキブリの存在と同じだ。もっとも今回の件は、ゴキブリの話から嘘だった可能性もあるけれど。  母は、きっと、ひなを守ってくれている。ひなが知らなくてもいいことから。煙草を吸っていたのを隠そうとしたのも、父のことを何も言わないのも、全部、それが理由だ。  それがわかるからこそ無理やり聞き出そうとは思わない。ひなはただ、母の庇護を享受するだけ。そうしていれば、怖いものなんて、何もないから。  ……こんな考え方をしているから、恵太からは呆れられるのだろうか。でも、自分はきっと、知らないことが多いぐらいでいいのだと思う。  夕方の六時になって、母と一緒に夕飯の支度をする。 「ひな、食べる前に着替えちゃいなさい」  まだセーラー服を着たままだったせいで、とうとうたしなめられた。渋々、ラフな部屋着に着替える。 「そういえば今日、恵ちゃんがお母さんのこと褒めてたよ」  着替えた後で思い出して、いただきますを言う前に切り出した。対面に座る母が不思議そうな顔をする。 「褒められるようなことなんてあったかしら」 「若くてスタイル良くて所帯やつれしてないって」  矢継ぎ早に言うと、母は咳き込んだ。 「恵太くんも、そんなませたこと言うようになったのね……」 「スタイル良くて所帯やつれしてないって部分は、恵ちゃんのおばさんが言ってたみたいだけど」  両手を合わせて「いただきます」と口にしてから、箸を手に取る。正面からも同じ声と動作があった。 「浅尾さんの言うことはあんまり真に受けない方がいいわよ。軽口を言うのが大好きな人だから」  直後に呆れたような声が続いた。  恵太の母親は、ひなから見ればステレオタイプのザ・おばさんという感じの人で、悪い人ではないけれど、あまりものを考えずに発言するところがある。  正直、あまり深く関わりたいとは思えないタイプだ。母も恐らく同じように感じているのだろう。はっきり口には出されなくても、雰囲気で伝わってくる。恵太には悪いけれど……。  ――しかしそれをいったら、母は娘以外の誰に対しても、あまり心を開いていないようではあるが―― 「お母さんがお母さんで、よかったな」  菜の花の煮浸しを口に運びながら、ぽつりとこぼした。 「何よ、ひなまでそんなこと言って」 「恵ちゃんのおばさんみたいなお母さんじゃなくてよかったな、って」  本当にそう思う。恵太も言っていたが、あの人が母親だと、疲れると思う。 「もう。浅尾さんの話はここまでにしましょ。職場で顔を合わせた時に、気まずくなりそうじゃない」  母はそう言うが、どこか嬉しそうに見えた。  恵太の母親は、ひなの母のパート先の常連でもある。小さなスーパー。それが母の職場。ひなが学校の日は、ひなを見送った後、自転車で出勤して、夕方までをそこで過ごしている。  もうすっかりベテランの域にある。かつて、社員にならないかと声をかけられたらしいが、断ったと聞いた。社員になれば拘束時間が延びる。母は、家庭での時間を優先したのだ。  母娘二人……これまで通りのつつましい生活を続ける限りは、そこまでお金に困ることもない。ひなが、公立高校に受かりさえすれば。  クラスの担任からは、現在のひなの学力では、選択肢は限られていると言われた。そうして薦められたのは、日立が丘高校。ここから電車で二時間かかる学校。学区内で一番、遠いといってもいい。一応、寮もあるから、そちらでの生活も視野に入れてはどうかと提案されている。  この話はまだ母にはしていない。反対はされないだろうが、心配させることが目に見えているからだ。もちろん、少しでも学力を上げる努力はするつもりだが、進路を決めなければいけない時が来るぎりぎりまでは黙っていようと思う。  中学最後の年も、始まったばかりなのだから……まだ、大丈夫だ。そう言い聞かせる。  そういえば来月に、オープンキャンパスがあるとも、担任は言っていた。一度、見学に行ってもいいかもしれない。……一人で行けるだろうか。そこが不安ではあるが―― 「それより、高校はどうするか考えてるの?」  見透かすようなタイミングで質問された。ひなが味噌汁からつまみ上げたばかりのかぼちゃが、音と飛沫を上げて、味噌汁の中へと戻っていった。服に少しかかる。あわてて布巾でぬぐった。 「考えてるけど、決めるにはまだ早いから……」 「何言ってるの、もう三年生じゃない。うかうかしてたら一年なんてすぐ過ぎちゃうわよ」 「わかってるよ」  小言を言う母は好きじゃない。唇を尖らせて、味噌汁を拭き取る作業を続ける。  ふっと、母の雰囲気が優しいものに変わるのを感じた。 「塾に行きたいとかあれば、遠慮なく言っていいんだからね。もし私立に行きたいならそれでも構わないから。その為の貯金ぐらいはあるのよ」  ひなは顔を上げない。今、母の顔を見たら、甘えてしまいそうになるから。 「うん」  わかったのかわかっていないのか曖昧な返事をする。母も、小さく息を吐くだけで、それ以上は何も言わなかった。

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