目の前に蓮斗の顔があった。 もう、キスするんじゃね? って距離に。 「のぉぉぉぉ!? やめろぅ! 蓮斗! わしらは姉弟じゃぁ!!」 思わず叫んでしまう。 無言のまま、おでこにチョップされた。 「はうぁっ!?」 「急に落ちたから心配して覗き込んでみたら。なんだその態度。猛省しろ。バカ姉」 ふんと鼻息を荒くしている。 怒っていらっしゃるようだ。 どうやら弟には、近親相姦の趣味はないらしい。 私にもないけどね。もちろん。 姉萌え弟萌えの皆さん、ご期待に添えず申し訳ない。 でも、実際の兄弟姉妹なんてこんなもんだよ。 憎しみ合うってのは剣呑だけど、愛し合うなんて話にはならないんですわ。 「私ねてたの?」 訊いてみる。 弟君がゆっくりと頷いた。 すげー重々しく。 「授業中に寝たら先生が怒る理由が良く判ったぜ。むちゃくちゃ腹立つな。こっちが喋ってるときに寝られるのは」 「わりわり」 よっと立ちあがる。 まあね。そりゃ腹立つわ。 「大丈夫かよねーちゃん。なんかぶつぶつ言ったあとに、こてんって寝ちまったけど」 なんだよぶつぶつって。 寝言的なやつ? はずかしいでござる。 「睡眠不足かなぁ。午後の授業も眠かったんだよね」 「大丈夫。だいたい全人類がそうだよ」 「なんてこった」 「ぱんなこった」 「晩ご飯まで寝るわ。お母さん帰ってきたら伝えておいて」 「あいよう」 ひらひらと手を振って、私は自室へと向かった。 翌日のことである。 たっぷり寝たというか、寝過ぎてちょっとだるい私は、いつものように始業の十五分前に教室に入って自分の席に着いた。 うーん。 まさにルーチンワーク。 高校生なんてそんなもんだよね。 あ、いや、OLになってもおんなじかー。 せつねー 社会に出たくねー。 などとどうでも良いことを考えているうちにチャイムが鳴り、担任教師が教室に入ってくる。 ちなみに美人だ。 三十を超えてしまったと本人は笑いながら嘆いてるけど、大人の女性の魅力ってやつがすごい。 肩下の黒髪と、黒曜石みたいな切れ長の一重の目。 すらりとスレンダーな肢体。 私が男で、しかも年齢が近かったら、間違いなく放っておかないですよ。ぐへへへ。 その足立涼夏先生が、転校生を紹介する。 入ってきて、と。 ていうかなんで呼ぶんじゃろ? 最初から一緒に入室すればよくない? 呼ばれるまで廊下で待ってるって、端から見たらけっこう間抜けっぽくない? 引き戸が開き、長身の男子生徒が姿を見せる。 ひとりを除いたクラスメイトたちが、ほうとため息を吐いた。 すっごいイケメンですよ。奥さん。 百八十センチ近い身長で引き締まった体躯。顔立ちはきりりとしていて目力がすごい。 ちょっと強烈すぎるくらいなんだけど、微笑をたたえた口元が和らげてる感じかな。 モデルかアイドルっていっても、普通に納得しちゃう。 もちろん、ため息を吐かなかった生徒は私じゃないよ。 「早来伊吹です。よろしく」 自己紹介してにこっと笑う。 女生徒たちがきゃーきゃー騒ぐ。 あざといな。 さすがイケメンあざといな。 反対に男子は慨嘆だ。 こりゃ勝てない、という類のため息ですね。 つーか、涼夏先生まで赤くなってるのは、どうかと思うぜよ。 ゆーて私も目が離せないわけですが。 「席は、そうねえ。櫛田さんの隣がいいわね。伊藤くんより後ろ、ひとつずつ下がってくれる?」 顔を上気させたまま、ぽーっとした口調で先生が告げた。 おい。 意味わかんねーから。 なんで私の隣やねん。むしろ一番後ろで良いじゃん。 わざわざ席をずらす必要が、どこにあるというのかね? ほんっとやめて。 女子たち睨んでるし。 これ私へのいじめとか始まるんじゃない? かといって、ここで反対しても私の立場が良くなるわけでもない。 不承不承の体で男子たちが移動する。 微笑を浮かべたまま、謎の転校生が近づいてきた。 ざわっと。 悪寒が走った。 え? なにこれ。 女子たちに睨まれているから、ではない。 私、この人こわい。 嫌な汗が背中を伝う。 「美咲。ひさしぶりだな」 「なんで……私の名前……」 からからに渇いた喉から掠れた声が漏れる。 どうして知ってるの? と、という言葉が出てこない。 転校生の手が伸びてきた。 私の顔に。 払いのけたい。逃げたい。 でも身体は硬直したように動かない。 怖い。 怖い。 怖い。 「思い出していないのか。まあいい。じっくり思い出させてやるさ」 微笑、じゃない。 この人が浮かべているのは冷笑だ。 バカにしているんだ。私のことも、他のみんなのことも。 先生のことすら。 「お前ほど良い声で鳴いた玩具はなかったからな」 「近寄ら……ないで……」 彼の手が私の頬に触れる寸前。 ばしんと高い音を立てて、それが払いのけられた。 「山田くん!」 目を見張った私の前に立っていたのは、クラスの陰キャラ王である山田くんだった。 間一髪、助けてくれた。 「櫛田に触れるな」 低く、まるで地の底から響くような声。 あきらかな怒りを伴って。 教室内がざわつく。 彼の声を初めて聞いた生徒も多いのだろう。 光り輝くようなイケメンと、ブラックホールを背負ったそこそこのイケメンが睨み合う。 「貴様までいるとはな。山田七樹」 「できることなら、二度とそのツラは見たくなかったぞ。早来伊吹」 二人の男が放つ視線がばちばちと火花をあげている。 不倶戴天の敵ってのは、こういうのを指すのかもしれない。 けど、私は二人の対決を最後まで見ていることができなかった。 恐怖とか緊張とか安堵とかに耐えかねて、意識を手放しちゃったから。 でも……。 彼らがお互いを呼んだ名前、なんか意味がだぶって聞こえたような気が……。 夢を見た。 幸せだったような、あるいは不幸だったような。 よく判らない。 ぐずぐずと鼻をすすりながら目をさました。 我ながら意味不明である。 どんな夢を見てたんだっけ……。 「目がさめたか。櫛田」 優しげな声がかかる。 やや低音な、謎の安心感のある声だ。 なんですか? この事後風な雰囲気。 「知らない……天井だ……」 「ここは保健室だ。知らないってことはないだろう」 「うん。言ってみたかっただけ」 「この状況で冗談が飛ばせるメンタルは、むしろ驚愕だ」 山田くんが苦笑を浮かべている。 ええと、なにがどうなったんだっけ? イケメン転校生がきた。 なんかおかしな人だった。 迫られた。 山田くんが助けてくれた。 ベッドイン。 いまここ。 「ふむ……私の初体験は保健室のベッドだったか……」 「その冗談は笑えないからやめろ」 すっとのばされた右手が私のおでこを弾く。 ぱっちんといい音が響いた。 「いったっ!? 気絶から目ざめたばっかりの乙女にデコピンするっ!? ふつうっ!」 「気絶から目ざめたばかりの乙女は、そんな下ネタは言わない」 やれやれと肩をすくめる陰キャラ王。 私は思わず、くすりと笑ってしまった。 このスタンスはけっこう懐かしい。 彼とは、小学校に入ったときから同じクラスだ。 今はもうあんまりっていうか、ほとんど話をすることもなくなったけど、昔はそこそこ仲も良かった。 若気の至りというやつである。 「他に言い残すことはないか?」 ぴきぴきと青筋を立ててる。 気の短い男だ。 「話しかけても無視してたよーな薄情者が、なんで助けてくれたの?」 仕方がないので本題に入ってやる。 「……無視していたわけじゃない」 「うん。陰キャとつるんでると思われて、私が孤立するんじゃないかって心配したんだよね」 「…………」 「そこはどーでもいいんだよ」 「どうでも良いのかっ!」 「山田……七樹が優しくて気遣い屋なのは知ってるからね。大昔から」 「大昔てお前……記憶が……?」 なんか変な顔をする七樹。 嬉しそうな切なそうな、なんともいえない表情だ。 「ん?」 「……気のせいか……いや、なんでもない。どうして助けたのかって話だったか。あいつはお前に執着してるからな」 「ふうん。それは私が奇稲田だから?」 にこっと笑って訊ねる。 一瞬、絶句した七樹が私の頬に手を伸ばした。 「とぼけてやがったのか! この口か! この口か!!」 そしてびろーんと両側に引っ張った。
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