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 ペットボトル入りのお茶で唇を湿らせ、菅江さんが口を開いた。 「生類憐しょうるいあわれみの令って知ってるかな?」  と。  いやいやあんた。  いくらなんでもバカにしすぎだから。私たちは高校生ですよ。  徳川とくがわ五代将軍の綱吉つなよしが出した、天下の悪法でしょ。  そのくらいは知ってるって。  犬を手厚く保護して、人間よりずっと大事にしたとかなんとか。  んで、綱吉についたあだ名が犬公方くぼう。  ひどいよね。  いくら犬好きだからって、そこまで犬を優先したらだめじゃん。 「なるほど。やっぱりそういう解釈なんだね」  ふうとため息を吐く。  疲れたように。  私たちはわけがわからず、顔を見合わせた。  だいたい学校で習う程度のことじゃん。  天下の悪法だったってね。 「記憶が戻っていない奇稲田姫だけじゃなくて、素戔嗚尊や八岐大蛇までとは」  なんか嘆いているし。 「江戸時代なんて俺は高天原にいたし、見ていたわけじゃないからな」  不本意そうに伊吹が言う。  七樹は肩をすくめたのみだけど、同意見ってことだろう。  ようするに地上の出来事なんて、いちいち見てないよってことだ。  無情なようだけど、こればっかりは仕方ないよね。  神様はべつに人間を導くために存在しているわけじゃないし。 「これじゃあ迷うのも無理はないといわざるをえないけどね」  なにが?  首をかしげる私をよそに、菅江さんがぱんぱんと手を叩いた。  おいで、とか言いながら。  一人暮らしっていってなかったっけ?  ややあって、それはやってきた。  奥の部屋から、ててて、って走って。  白い毛玉。  イッヌだっ!  モフモフだっ! 「ん? なんかいるの?」  雪那が訊ねる。  あれ? みえてない?  てことは……。 「霊体だな。ようするに幽霊だ」  七樹が説明してくれる。  やっぱりぃぃっ。  犬の幽霊とか、ちょっと勘弁して欲しいんですけどっ! 「いるのっ! みたいみたい!!」  なんで姐御は興味津々なんですか。  あ。そうだ。こいつオカルト好きなんだった。  ゲテモノ好きめ。  だから伊吹とつきあってるのかよ。 「雪那」  声をかけた伊吹が、すいと姐御を抱きしめる。  そして有無を言わせず唇を奪った。  きゃーっ!!  驚きに目を見開いたものの、雪那の表情がとろんとゆるむ。  いやいや。  いやいやいやいや!  なにやってのよ! この変態邪神!! 「おちつけ。美咲。息吹を入れてるだけだ」 「伊吹を入れる!? こんなところで!?」 「何を想像してるんだよ。いまのままじゃ三石にあれ・・は見えないからな」  苦笑しながら七樹が解説してくれた。  ようするに神力を分け与えているらしい。 「……ぁ」  雪那が色っぽい声を出す。 「なんか……からだが熱くなった……」 「やめぃ!」 「いやあ。若い人は情熱的だねえ。僕も今日は風俗いっちゃおうかな」  おいぬらりひょん。何を口走ってやがる。  未成年者ばっかりなんだから、ちょっとは考えろ。  風俗とか生々しすぎる。 「あ。見えた。犬いる」  雪那が目を輝かせた。  結果オーライだけどさぁ。 「伊吹も、他に方法なかったの? 人前でディープキスとかどうなのよ?」 「鼻から入れても良いけど……」  いや。  それは絵面が悪すぎる。  入れる場所ってもうちょっとなんとかならんのか?  くそ仕様かよ。 「あとは、あれをするくらいしかないからな。仕方がないだろ」  カレシどのが肩をすくめる。 「あれって?」  にまぁ、と、私は笑った。  こんなチャンスを逃すと思ったか。七樹よ。 「あれはあれだよ!」  真っ赤になる純情ドラゴンでした。  よし。勝った。  それじゃあ話を聴きましょうか。 「俺の扱い……」  沈んでいく七樹の肩を、伊吹が叩いてやっていた。  邪竜と邪神のうるわしき友情である。 「で、この犬は?」 「簡単に言うとレギオンだね。怨念の集合体だよ」  まったく簡単じゃないよ。ぬらりひょん。 「主人格としては、綱吉だよ」  おいおい。  この子犬、将軍なの? 「の、残留思念じゃな。迷うておった悪霊どもをまとめて、悪さをせぬよう予の身体に封じ込めたのじゃ」 「しゃ、しゃべったーっ!?」  思わず私がのけぞる。 「そりゃ喋るじゃろ。見た目は犬の霊体じゃが、予は人間の残留思念じゃもの」 「ア、ハイ」  そうかもしんないけどさ。  衝撃的じゃん。犬が喋ったら。 「よっと」 「こりゃ。なにをするのじゃ。姐御」  雪那の手が伸び、犬を持ち上げて膝に乗せる。 「OK。綱吉。ウチらの話をずっと聴いてたんだね」 「ぬ……」  姐御って呼ばれただけで、雪那は事情を読みとってしまう。  むしろそれを確認するための行動か。  すげえな。  このJKおそろしすぎる。 「僕からの条件はそれだよ。姐御。綱吉の頼みをきいてやってくれないか?」  妖怪たちの総大将が笑った。  帰路である。  連れだって歩く私たち四人と一匹。  より正確には一匹は歩いていない。七樹の頭に乗っている。  なんでそんなところにいるかというと、精気エナジーの補給にちょうど良いのだそうだ。  見た目的にかなり可愛いので許可である。 「べつに伊吹の頭でも良いんじゃないの?」  雪那が指摘するのは、自分のカレシの方に乗って欲しかったからだろう。  可愛いからねっ。綱吉はっ。  ちなみに私や雪那には乗れない。ふたりとも普通の人間程度の霊力しかもってないからだ。  ちゅるちゅる吸われたら死んじゃうのである。 「予はこれでも悪霊の類じゃからの。神とは相性が良くないのじゃ。その点、七樹はモンスターじゃからな」  ふっさふさの尻尾を振りながら綱吉が応えた。  属性的なものだろうか。  七樹はドラゴンだから闇属性で、伊吹はあんなんでも神様だから聖属性とか?  うぷぷぷっ。  伊吹が聖て。 「すげー失礼なこと考えてる顔だけどよ。クシナダ姫さんよ。俺ら神に聖邪の区別はねぇよ」  睨まれた。  つーか私まで一緒くたにまとめられた。  ……そうかぁ。わしは神じゃったのう。忘れてたけど。  奇稲田姫って国津神なんだよなぁ。あ、素戔嗚尊は天津神ね。 「力を分けてもらえぬ、ということはないがの。やはりバケモノ同士の方が相性は良いのじゃよ。美咲や」  後ろ脚で、てしてしと頭を掻きながら言う綱吉。  なんつーかあんた、犬そのものなんだけど、将軍ってそれで良いの? 「すでに死んだ身なれば、姿形を嘆いても詮無きことじゃよ。ましてこの姿は、予が犬公方などと呼ばれた結果じゃしの」 「そうなんだ?」 「予が人より犬を大事にした愚かな君主で、そんなに犬が良いなら犬にでもなっちまえ、と願われたのじゃよ」  あくびをしながら、皮肉げなことをいう。 「ていうかさ。そんなに犬好きだったの? 綱吉って」 「べつにたいして好きでもないがの。嫌いというほどでもないが」  おいおい。  じゃあなんだって生類憐れみの令なんか出すのよ。  あの時代って、お犬様お犬様って人間よりも犬の方が大事にされたって習ったよ。  で、あんまりの愚行に怒った水戸黄門みとこうもんが、犬の毛皮を綱吉に送りつけて、いい加減にしないと戦だぞって脅したとかなんとか。 「それを事実と思うかや? 美咲や」 「……歪曲されてるってことね。OK」  私は頷いてみせた。  スサノオ伝説だって嘘っぱちだった。九尾の狐伝説もかなり怪しい。  ということは、綱吉伝説だって捏造された可能性はあるのだ。  何者かが都合良く書き換えた歴史ってやつである。 「そうじゃの。生類憐れみの令は、べつに犬はえらいのじゃ、という律令ではないよ。そもそもひとつの法でもないしの」 「そうなんだぁ」  知らなかった。  ふつーに、そういう法律がどーんとひとつあるのかと思った。 「犬好きでもない綱吉が、じゃあなんで犬公方なんて呼ばれたの?」  雪那の問いは当然のものだろう。  授業で習った歴史が間違いだとすれば、どうしてそんな嘘を教えたのか、伝えたのかっていう思惑があるはずなんだ。  何者かの。 「ふむ。たしかにそれは語らねばなるまいの。予の願いにも関係のあることじゃし」  子犬が遠い目をする。  ものすごく似合っていない。 「まずは予の生きた時代、元禄げんろくというのがどういうものじゃったか、そこから理解してもらわねばならぬ」  そう呟いて、綱吉がおすわりした。  七樹の頭の上に。

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