拳星 ― Knuckle Stars
12. 共同戦線
並べられた料理のうち、まずは目の前の一皿――炒飯を手に取り、口へと運ぶ。
妙に茶色の濃いそれは、予想を少しだけ越える塩気で、口内を刺激した。
食べられないことはないものの、期待していた味と随分ずれている。
少女が炒飯を食べるさまを、じっと見つめるナデシコ。
彼女はどこか嬉しそうに笑いながら、問いかけた。
「ねえ、どう。どんな感じ? これは自信あるんだよね。最新レシピ、試してみたんだ」
「うん……う……うん?」
感想を尋ねられ、言葉に困るアイリス。
暖かい飯であることに変わりはないが、予想を裏切る肩透かしな味に、なんとも困ってしまう。
だが、キラキラした眼差しでこちらを見つめるナデシコに、たじろいでしまった。
「どう? ねえねえ」
「あ……お、おいしい…よ」
「本当!? 良かったぁ、ぶっちゃけ、醤油多かったんじゃないかなって思ったんだよねえ」
嬉しそうに自分も茶色い飯をほおばり、笑顔を浮かべている。
彼女の言う通り、確実に醤油の分量は間違っているのだろう。
アイリスはそれ以上何も言及せず、ただ黙って飯を口に運んだ。
帰ってくるなり、ナデシコはたっぷり仕入れてきた食材を使い、遅めの昼食を作ってくれた。
探偵事務所の奥にある狭い厨房を使って、手際よく調理していたものの、実際に出てきた「炒飯定食」は実に独特のとがり方をしている。
皿もコップも、取り急ぎ二人分を揃えたらしい。
デザインも形も不揃いなそれらに盛り付けられた料理を、ナデシコとアイリスは口に運ぶ。
「しかし、まさか姐さんがわざわざ忘れ物、届けてくれるなんてねぇ。驚かせちゃってごめんごめん。でも、応対してくれて助かったよぉ」
「あ……うん……」
「ん? どした?」
「な、なんでも……」
微かに頬を赤らめたアイリスに、首をかしげるナデシコ。
顔パックを付けたまま応対してしまったという珍事件については、ひた隠しにしている。
「綺麗な人だったでしょ、姐さん。あれでいて凄腕刑事で、おまけに強いっていうんだから、スーパーウーマンだよ、本当。いやもっと、こう……ウルトラウーマンとか。ん? なんかどっかで聞いたことある響きだな」
相変わらず、ナデシコは一つの会話の中でころころと話題が変わる。
アイリスはその中でも、気になった点だけ問いかけてみた。
「強い……あの人も?」
「え? 『も』ってどういうこと?」
「あなたも、強いから……」
一瞬、ナデシコは目を丸くしたが、すぐに痛快に笑う。
「こんなの、まだまだだよ。姐さんに比べたら雑魚も雑魚――今日だって、一撃も入れられなかったしねえ」
「あの人と戦ったの?」
「スパーリングだよ。週一で運動ついでにやってるんだ」
今度はアイリスが目を丸くする。
中途半端に開いた口から「へえ」と声が漏れた。
「まあ、たしかに、その辺のチンピラに負けないくらいの自信はあるけどねえ。なにせ、ガキの頃から教え込まれたもんだから」
「小さい頃から、やってたの? その……トレーニング?」
「まあね。うち、実家が道場やってるんだ。特に母さんが『柔術』の使い手でね。私も物心ついたころから、あれこれ教わってたの。もっとも、今使ってるのはオリジナル――『わたし流』の喧嘩術だけどね」
ナデシコの素性に、しばしアイリスは食べる手を止めていた。
大きな眼は何度もまばたきし、目の前の探偵を見つめている。
「すごいね……私、あなたがあの時、やられちゃうんじゃないかって思ってて……でも返り討ちにしちゃったから、びっくりして……」
「ああ、あのトサカ先輩ね。あれくらいなら楽勝楽勝。多分あの動きは、そこそこ格闘技かじってるんだろうけど、まるでダメ。選手としても三流だし、なによりあの程度で私の『忍術』には届かないよ」
「え……」
忍術、という奇妙な単語に目を丸くするアイリス。
思わず、壁に貼り付けられた忍者のポスターをちらりと横目に見てしまう。
全身黒ずくめの忍者が手裏剣や鉤縄、そして短刀を構えて跳躍した、躍動感あふれる一枚が飾られている。
「えっと……探偵じゃあないの? 忍者なの?」
その一言に、ナデシコがきょとんとし、そして笑った。
「ああ、いやいや。そういうことじゃあないさ。もちろん、私は私立探偵だよ。『忍術』ってのは使ってる技術の話ね」
いまいちピンと来てないアイリスに、ナデシコは烏龍茶を飲み干した後、伝える。
「昔から『探偵』も大好きだったんだけど、同じくらい『忍者』も好きだったの。映画や本の中で活躍する姿に憧れてさ。で、親が教える格闘技とは別に、遊びでまねしてたんだよ。そしたらさ、それを見た親が『忍術』も教えてくれてさ」
「え……お父さんとお母さん、忍者――?」
「違う違う、そうじゃあない。『忍術』っていったって、フィクションの中で描かれるような荒唐無稽なやつじゃあないんだよ。実際に歴史の中で残ってる『体術』や『技術』としての忍術。それを、色々教えてくれたのさ。相手の虚を突いたり、かく乱する術みたいなことかな」
素直な関心から「へえ」と声を漏らすアイリス。
「『憧れは、絶対に捨てるな』――私の両親の口癖でね。だからその教え通り、私の『大好き』なものに従うように生きてきたのさ。だから探偵になって、それでいて忍術も使いこなす。そういう道を選んじゃったわけ」
「憧れ、かぁ……」
アイリスは何やら思うところがあるのか、食べかけの炒飯に目を落とす。
レンゲの動きは、完全に止まってしまった。
今度は逆に、ナデシコが問いかけてみる。
「あんたの両親はどんな人なの? てかさ、これはあくまで私の予測なんだけど、結構良い所の出でしょう?」
「え……ど、どうして?」
「あんたの洋服、知り合いのクリーニング店に任せたんだけどさ、すごい絶賛してたんだ。生地から糸から、あの『黒薔薇』の刺繍までとにかくスペシャルだってね」
アイリスが着ていた黒色のドレスは、ひとまず袖口の血痕をできる限り洗ってごまかし、クリーニング店に清掃を依頼している。
クリーニング屋の店主曰く、彼の人生でもなかなか見ない高級なドレスらしい。
「この街歩くのに、そんな高そうなゴスロリ服着てたら、ああいう厄介者に目はつけられるだろうからね。そういう常識を知らないってことは、この街に慣れていない外部の人間。それでいて、高級なドレスを仕立て上げられるだけの『資本』を持った家の生まれ。そう思っただけだよ」
推理というより、ありあわせの要素を組み合わせて導き出した「予感」である。
しかし、その予感は的中したらしい。
「あれ、お気に入りなの……お母さんが作ってくれた、オーダーメイドだから」
「そうかぁ。なら、血なんかで汚しちゃあもったいないな、なおさら」
「うん……だから、あのままじゃあ、家に帰れないって思って……それに……」
少女はついにレンゲと皿を置き、机の上に視線を落としたまま、続ける。
「どうして良いか、分からなくて……何もやってないのに……だけど……そう言い切れないのが怖くって」
ナデシコも瞳に真剣な色を宿す。
皿を持ったまま、しかし彼女を真っすぐ見ながら問いかける。
「記憶がない、って言ってたね。じゃあ、あの時、なんであそこにいたかも覚えてない?」
「うん……私、昔から…『変』なの」
変――その単語をナデシコが呟くと、ようやくアイリスは視線を持ち上げた。
「昔から、時々あるの……自分で自分が分からなくなる時が……自分じゃない『誰か』が、自分になるときが」
「そりゃあ、随分と妙だねえ。自分じゃあない誰か――その時は、自分の記憶がないのに動いちゃってるってことか」
ナデシコの言葉に、またアイリスは目を丸くする。
「信じて……くれるの?」
「あのね、前も言ったけど『嘘』ついてないんだろ? だったら疑うも何も、そうなんだろうさ」
相変わらず、ナデシコのそのあっけらかんとした回答が、アイリスには理解できないらしい。
しかし、この「信じる」という行為が、少女の口をさらに動かしていく。
「それだけじゃあない……私、昔から『変』なことだらけ……記憶がなくなったり、すぐに物を壊したり……普通じゃあないの……だから、もしかしたら――『私がやったんじゃあないか?』って……」
その言葉で、ナデシコは「ふむ」と口元に手を当てた。
あることを思い出し、アイリスを見つめなおす。
「あの時――私が足を掴まれて身動きが取れなくなった、あの瞬間――あんた、助けてくれたよね」
びくり、とアイリスが小さな体を震わせて動揺する。
「驚いたよ。私より細い女の子が、その手――いや、『指先』か――そんなもので、凶器の角材を断ち切るなんて」
「あ……あの時は、その……勝手に体が動いて……あなたが、やられちゃうと思ったから…」
「訓練された動きに見えるけど、そうじゃあない。あれは、格闘技っていう『後付け』の力だけで成せるものじゃあない。きっとあれが――あんたの言う『変』な部分なのかい?」
自分でも、無遠慮な質問だと理解している。
しかし、アイリスが告白してくれた内容が、あの時の「不可解」を解き明かす、鍵だと察した。
とっさに彼女が見せた想定外の「力」――思い返せば、あの時もそうである。
アイリスをこの事務所に連れてきてから、事件のことを思い出していた、あの時。
彼女は渡したマグカップを、己の手の力だけで「砕き割った」。
不安や恐怖で動揺したとして、この少女がそのような力を持っているとは思えない。
このアイリスという少女には、まだまだ未知の部分があるはずだ。
アイリスはしばし、黙っていた。
視線を下ろし、そしてまたナデシコを見て――なにやら、自身の中で反芻しているようである。
「怒った時とか、パニックになった時……自分の力を抑え込めなくなる……そのたびにいっつも、なにかを壊したり、誰かを傷つける……ドアノブを曲げちゃったり……机をちぎっちゃったり…」
ギョッとし、目を丸くするナデシコ。
不安げな眼差しのアイリスに、たまらず身を乗り出す。
「そういうことか。つまり、自分でも意図しない『怪力』が出ちゃうわけだ」
言いながら推理するに、おそらく「怪力」という表現は正しくない。
それは、人間が持ち合わせている反射的な能力――アイリスはそれを、人並外れた桁違いなレベルで行使できるのだろう。
指――つまるところ「握力」が、異常なのである。
そう思えば、納得してしまう。角材を断ち切るのも、陶器のカップを砕き割るのも、すべて「指先」の力があってこそ、できる技だ。
アイリスは頷いた後、さらに続ける。
「それだけでも十分変なのに……私……人が変な形に見えるの」
「変な形、というと?」
「その人の中身っていうか……それが別の形として、見えるの」
実に荒唐無稽な内容だが、ナデシコは「へえ」と頷く。
なおも自分を信じ切ろうとしてくれるナデシコに、アイリスは不安な眼差しを向けていた。
「街に出て、色んな人を見て……すごい怖かった……皆、普通の顔しているのに、とんでもない姿ばかりで……だから、人のいないところに逃げようとして……そしたら記憶がなくなって、気が付いたら――」
あの夜だった、というわけか。
アイリスから伝えられた諸々を、頭の中で高速でつなぎ合わせていく。
どういう理由かは分からないが、大都市・ワンドゥへとやってきた令嬢・アイリス。
あらかじめ聞いていたが、年齢は19。
見た目は随分と大人しく見えるも、ナデシコの一つ下ということでそこまで離れていない。
人間の本質を「ヴィジョン」として視ることができる彼女にとって、街行く人々は「異形」として捉えられていたのだろう。
それらを避けるように逃げまどい、やがて記憶が消える。
そして気が付いた時には「殺人現場」にいた。
自身がなにをやったかも、どうしてあの場所にいたかも分からないが故に、自身を信じたくとも信じられず、警察に出頭することもできない。
真実が分からないが故、自分を「白」とも「黒」とも決めきれないのだ。
それらのどこまでが「真」なのかは、正直なところナデシコにも分からない。
令嬢、他者の本質を見抜く眼、超人的な握力、消えてしまう記憶。
目の前の黒髪の少女には、あまりにも規格外の要素が詰め込まれすぎている。
だからこそ、ナデシコの脳みそは高速で回転し始めた。
いつしか、咀嚼していた炒飯の味は意識の外に消え去ってしまう。
ありえない、ばかばかしい、嘘くさい――そんな「つまんない」ことで逃げるなよ。
否定するのは簡単だ。
世の中の「常識」という便利な物差しを持ち出し、当てはめ、笑えばいいだけだ。
そんなことではこの事件の「本質」は見えない。
ナデシコは深く呼吸をしながら、まとわりついてくる邪念を制し、己を律していく。
「私……昔から人に迷惑ばかりかけてた……だから、今もそう……私、家から出るべきじゃあなかったんだ……」
かすかに涙が浮かぶ。
指先が震え、小さな体の中で後悔が渦巻く。
そんな「負」に飲み込まれようとする少女に、ナデシコは問いかけた。
「家に帰るつもりは、ないか。どこに行けば良いか分からない――そんなところ?」
こくり、と頷くアイリス。
涙がキラキラと光っている。
「家出した上に……事件に巻き込まれたなんて……でも、このまま何もしなかったら……もっと皆に迷惑がかかる……私……私……」
本来なら、迷わず警察に向かうべきなのだろう。
無実だ――その一念を伝え、しっかりと捜査をしてもらうべきなのだろう。
ナデシコは考える。
この少女がもし、本当に殺していなかった場合のことを。
となれば、ある一つの事実が浮き彫りになってくる。
彼女がやっていないならば、その代わりに人を殺した人間がいる。
そしてそいつは、今現在、逃げおおせている。
警察がアイリスに的を絞っている以上、真犯人には捜査の目は向けられない。
なにより、今回の件の厄介な点は、アイリスに「記憶」がないということ。
そして自分がやっていないと言える強い物証と、意思がないことだ。
この気弱な少女が警察に出頭したとして、理路整然と立ち振る舞えるだろうか。
自身の潔白を証明できるものもない現状で、そんなことができるイメージが湧かない。
必要なものはたった一つ――明白な「真実」だ。
アイリスの目からぽつりと涙がこぼれ、盆の上で跳ねる。
すすり泣く彼女に、ナデシコは真っすぐ問いかけた。
「家に、帰りたいかい?」
返事はなかった。
だが、しばらくして、少女はこくりと力なく頷く。
ため息をつくナデシコ。
「そっか」と一呼吸置いた後、続ける。
「なら、あんたの欠けてる『記憶』を探せばいいわけだ。そうすりゃ、はっきりする」
「え――?」
アイリスが顔を上げると、たまっていた涙がきらりと散った。
目を丸くする彼女に、ナデシコは変わらない笑みを浮かべている。
不敵で、無遠慮で、意地悪な笑顔を。
「ん、違うかい?」
「え……いや……それは、そう……だけど……」
「曖昧な記憶さえ埋まってしまえば、胸を張って『無実だ』って言えるでしょ。なら、犯人を追うとかより、まずはあんたの欠けてる数時間を探せばいい。アリバイってやつさ」
アイリスはまさに寝耳に水といった様子で、涙をふくのも忘れ、ただただ大きな目でこちらを見ている。
もはや今となっては、ナデシコにもこの少女の心のうちは読み取れる。
だからこそ、先手を打って笑った。
「私にとっても、あんたのその欠けた記憶が重要なのさ。そこが分かれば、こんな事件はすべて解決する。真犯人がいるのか、あるいはあんたが犯人なのか」
アイリスが戸惑っているのが分かる。
彼女は両手を握りしめ、微かな震えを抑え込みながら口を開いた。
「もし……もし私が……犯人だったら……?」
「理由を聞くよ。なんでそんなことしたのかって。そしてきっちり捕まえる。それが私の『正義』だから」
甘っちょろい、うわべだけの言葉など使わない。
まっすぐ前を向くナデシコ、そしてアイリス。
食卓のそのうえで、なおも二人の視線がぶつかる。
「分からないなら、探しに行けばいいんだよ。待ってたって、答えなんざ向こうから来てはくれない。どんなに辛く怖い内容だったとしても、こっちから掴みに行くしかないんだよ」
真実が、優しいものとは限らない。
安堵か、はたまた狂気か。
ふたを開けてみるまで、その奥に潜む本質は見えない。
だから時に、人はそれから目を背ける。
ふたを開ける手を放してしまいそうになるのだ。
だが、それでは一生見えてはこない。
その奥に見える正しい道も。
そこに示される向かうべき先も。
言葉が出ないアイリスの前で、ナデシコは烏龍茶を飲み干し、無理矢理にスイッチを切り替えた。
まじめな面になるのは、どうにも堅苦しくて良くない。
「まぁ、もちろんタダで、とはいかないかなぁ。だから提案なんだけどさ。しばらくは『共闘』といかない? 事件を追うのを、手伝ってほしいんだよ」
「手伝うって……わ、私が?」
「そっ! 私もそろそろ『相棒』が欲しいって思ってたんだよぉ。ほら、あれこれ一人で抱え込むと、大変でさぁ」
ぎょっとし、目を丸くするアイリス。
彼女の涙は、完全に止まってしまう。
「む、無理だよ、私! そんな……なんにもできない私みたいなのに――」
「なにも難しいことはないさ。ちょっとした人手が欲しいって時があるのよ。聞き込み一緒にいったり、手掛かり探してくれたり。それこそ、こうやって話し相手になってくれるだけでも、私は大歓迎なのさ」
そこまで聞いたとしても、アイリスは「はぁ」とか細い声を上げるしかなかった。
アイリスにとって、実に突拍子もない提案だったのだろう。
改めて、このナデシコという「探偵」の掴みどころのなさを、実感していた。
簡単に返答することができない少女に、ナデシコは笑みを浮かべたまま問いかける。
「もちろん、自由さ。このままここに隠れてても良いし、家に帰ったって良い。だけど――知りたいんでしょ、真実が?」
真実という言葉に、アイリスは息をのむ。
そして、一度視線を落として、考えた。
カップの中に注がれたコーヒーの、その真っ黒な液面に、自身の顔が写り込んでいる。
行くべき先を見失い、ただただ、困惑することしかできない「弱い」自分が。
どうすべきか分からない。
なにが正解かなど、どれだけ考えても見えてこない。
だから怖いのだ、ただひたすら。
真っ暗闇のその中で、何が待ち構えているかも分からないその中で――だがそれでも、たった一人だけ、はっきりと見える存在がいる。
顔を上げた。
すぐ目の前で「探偵」は笑っている。
素性も分からない、つい数日前に出会ったばかりの、掴みどころのない女性。
「探偵」と「忍者」を愛し、「竜巻」を背負った若き女性。
彼女のその眼差しを、今度はアイリスがじっと見つめた。
透き通り、実直さを形にしたようなその輝きに、少女は「一歩」を踏み出す。
「私……知りたい。私があの時、何をしてたのか。このまま、何も分からないままじゃあ……どこへも行けないから」
その回答にナデシコは一層、嬉しそうに笑った。
「なら、決まり、だね! それじゃあ、ひとまず『契約成立』ってことかな。じゃあ、もっといろいろと準備しないとなぁ。服とかも、私の着てられないでしょ?」
ナデシコはアイリスにとって、足りないものをあれこれ考え始めてしまう。
ナデシコ一人ならばどうにでもなったが、二人で暮らすにはこの探偵事務所はあまりにも狭いし、生活感がなさすぎる。
笑ったかと思えば真剣になり、しかし今度は悩み、ぶつぶつと独り言を続ける。
その自由奔放な姿に、アイリスの緊張が解きほぐされていく。
不思議な人だ――少女の中に、そんな一言が沸き上がると共に、もう一つの感情が芽生える。
買い物のプランを考えているナデシコに、アイリスは告げた。
「あ……あの……」
「ん? なあに、欲しいものとかある?」
「あ、いや……そういうんじゃあないんだけど…」
目を丸くし、こちらを見つめるナデシコ。
相変わらず、その視線にはまだまだ慣れることはできない。
それでもなお、アイリスはしっかりと顔を上げ、彼女を見た。
伝えなければいけない。
たったそれだけでも、前を向けるようになったからだ。
「ありがとう……助けてくれて……それに――信じてくれて」
少女から礼を告げられても、しばしナデシコは呆けていた。
だがすぐに我に返り、嬉しそうに笑う。
「いえいえ、どういたしまして。改めてよろしくね。アイリス」
なぜこの女性はこんなにも、嬉しそうに自身の名を呼んでくれるのか。
その理由が、改めて考えても分からない。
だが分からないなりに、本能に伝えられることがある。
アイリスも必死に、慣れない笑顔を作り、そして頷く。
彼女は小さな声で、それでもしっかりと「よろしく」と返した。
応援コメント
コメントはまだありません