「ああ、確か。その人ならよく来てたよ。毎週末、必ず仕事上がりにね。まあでも、『女の子』と一緒だったのは見たことねえな」 空になった酒樽をまた一つ勝手口へと下ろしながら、男は残念そうに答える。 スキンヘッドにサングラス、タンクトップに筋骨隆々とした肉体――そんな巨漢にもひるまず、ナデシコは更に問いかけてみた。 「そうかぁ、残念。なんか変なところとかなかった? こう、イライラしてたりとか、焦ったりしてたとかさ」 「いんや、特にいつも通りだったよ。そりゃあまあ、仕事に関する愚痴はいくつか吐き出してたけどな」 期待外れの回答に「そうかぁ」と肩を落としてしまう。 ユカリから受け取った情報を元に、事件の被害者達と関係のありそうなスポットをいくつか回ってきたが、あいにく、有益な情報は何も得られていない。 ここ、バー「荒くれ者」は、ナデシコも馴染みの深い場所だっただけに、なにか手に入れば――と期待していた。 だが、マスターも被害者の男性こそ覚えていたものの、返ったきた答えはどうにも役に立ちそうにないものだった。 「しかし、しばらく見ねえと思ったが、そうかい。まさか、死んでたとはなぁ」 サングラスの奥の男の目が、どこか潤んでいるように見える。 恐ろしい見た目はしているが、人情深い人物なのだろう。 「嬢ちゃん、なにかあったら、必ず連絡するからよ。人殺しなんざする大馬鹿野郎、捕まえてやってくれ」 それは警察の仕事だ、とか。 裁くのは裁判官の役目だ、とか。 そんな野暮は言わない。 ただ力強く頷き、礼を言って店を出る。 世間の華やかな光を遠ざけるように、狭い路地裏に飲み屋がひしめき合っていた。 どの店舗も夕日を受け、やがて来るであろう夜に向けて準備を続けている。 湿った重々しい香りが支配する路地の中を、トボトボと歩いていくナデシコ。 事件解決への手掛かりは「足」で見つけろ――そんな信条を胸に、今の今まで町中を駆けずり回っていた。 最後にたどり着いたこの飲み屋街も、目に付く店舗で片っ端から聞き込みを行ったところである。 ここまで、めぼしい手掛かりは何一つない。 さすがに重々しい疲労感が全身を包んでいる。 犯人を目の前にした時、そしてその「悪」と対峙しなくてはいけない時。 奇妙なもので、そういう時の疲労感は随分と「緊張」や「興奮」で紛らわされているものだ。 むしろ、こうしてひたすら、あちらこちらへと赴いたにもかかわらず、事態が一向に好転しない事実を突きつけられると、どうにもやるせない。 飲み屋街の入り口まで戻り、大通りを見つめる。 高速で行き交う自動車の残像を見つめ、少しだけ呆けてしまった。 ワンドゥという街はとにもかくにも広い。 バスや電車といった交通網を利用したとしても、二・三日で全域を回れそうにもないほど、急速に発展し、今もなお領土を広げている。 フゥ、とため息をつき、女刑事・ユカリから受け取った資料の内容を思い出す。 殺された男性に、とりわけ特別な要素はないように思えた。 大手製薬会社に勤める、30歳。勤続9年目にして製薬チーム3課を任せられる。恋人はなし。 酒はたしなむ程度。 女遊びも、ギャンブルも、ましてや黒い噂もない。 まっとうに努力し、昇進し、日々を生きている会社員。 プロフィールからは、そんな当たり前の内容しか伝わってこない。 他人が知らない怨恨か、決して人に見せなかった裏の顔があるのか。 予測してみるも、それはどこまでいっても予測。 ただの机上の空論でしかない。 点と点を無理矢理に繋げ合わせようとしても、どうしても歪になってしまい、しっくりこない。 ましてや、警察が追っている犯人と思われる「少女」の影は、この被害者の周りにはちらついてもいないのである。 この街で何が起こっている――どれだけ頭をひねっても、堂々巡りだ。 良くない流れに辟易し、たまらずため息が漏れる。 このまま日が暮れるまで捜査を続けても、おそらく実りは少ないだろう。 一旦、気持ちを切り替えるという意味で、ナデシコは帰宅を決めた。 焦る気持ちはあるものの、無闇にあがいても空転するだけである。 ポケットに手を入れたまま、歩き出す。 路地裏という閉鎖空間から、風吹きすさぶ大通りへと脱出するために。 大都市の喧騒まであと数歩。 そこで不意に、スニーカーが止まった。 微かに耳に響いた「声」。 人の声など、何ら珍しくもないが、ナデシコは注意深く聞き耳を立てた。 路地裏の中に反響するその、か細く、甲高い「悲鳴」に。
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