瞬間、青年は歯を食いしばり、発砲していた。 迷うことなく、狙いを少女の頭部に合わせて。 全身が発する危険信号を細胞がいち早く察し、反射的に動く。 一発が外れる。 アイリスが左右に高速で移動し、弾丸の軌道から身をかわしていた。 二発、三発、四発――どれだけ空気が爆ぜても、まるで無意味だ。 アイリスのあまりにも無秩序な身のこなしが、弾丸をかわし続ける。 目の前で行われる攻防に、ナデシコは呼吸すら忘れてしまう。 弾丸という近代兵器を無効化し、少女はおぞましい笑みを浮かべ、身をひるがえしていた。 もはやそれは格闘技の防御術などではない。 本能のまま足を運び、体を滑らせ、最適な場所へと肉体を送り込む自然体。 誰に教わるでもなく、細胞に備わった天然の闘争術。 獣の足さばきで、アイリスが青年にたどり着く。 もう一撃――青年は引き金に力を込め、乾いた感触に絶句した。 弾切れを察し、手元に視線を走らせる。 瞬間、その顔面をアイリスの拳が打ち上げた。 「ぶぎッ――!!」 あまりにも間抜けで、おぞましい悲鳴が上がる。 初めて芯を捉えたその打撃は、一撃で青年の鼻骨を粉砕し、血を噴き上げた。 激痛と恐怖が、青年の戦闘意志を削ぎ落とす。 たった一発で、青年の肉体は戦いよりも、素直な敗北を望んだ。 がくりと膝が落ちるが、アイリスが男の手を拳銃ごと掴み、引き上げた。 めきりと、指と銃身が一緒に曲がる。 重なる激痛と、すぐ至近距離から放たれる脅威。 青年の喉元から、か細い悲鳴が上がった。 「ひ――許し――」 その情けない訴えを、轟音が遮った。 アイリスの拳が男の鳩尾をえぐり、貫く。 あまりに深々と叩き込まれた“鉄”の感触に、男はついに呼吸を止めてしまう。 「許すとか許さないとか、もう関係ないでしょ? ここまでしといてさぁ」 あまりにも無慈悲な言葉と共にもう一撃、男の顎を拳がかちあげた。 血しぶきの中に、砕けた白い歯が飛び散る。 降り注ぐそれらを避け、なおもアイリスは拳を叩く。 夜の闇の中、街灯のぼんやりとした光に照らし出された空間には、悪夢が広がっていた。 凶器ごと握りつぶした手を掴んだまま、抵抗もできない男の肉体に少女は拳を突き刺していく。 胸に、腹に、首に、腕に――一撃一撃が酷く重い。 小さく握り固めたそれはまさに“鉄塊”だった。 打ち込むたびに鋭く刺さり、皮膚と肉をえぐり、その奥の骨すら歪める。 戦いなどではない。 そこで行われているのは、ただの“拷問”だ。 打ち込まれるたび、打撃の音に男の悲鳴が重なる。 倒れることも許さず、逃げることも許されない。 ただひたすら、鬱憤を晴らすように、アイリスは無慈悲に拳を打ち込んでいく。 なおも少女は笑っていた。 無機質な笑みを張り付けたまま、深く、暗く、どこまでも黒い瞳で獲物を見つめている。 少女のその豹変ぶりに、ナデシコはしばらく動けなかった。 地に伏せたまま、ただ目の前で行われるその凄惨な“ショー”に、息が止まりそうになる。 怒りがあるのは、もちろんだろう。 やられたことに対する、仕返しを考えるのが人間だろう。 だが目の前のそれは、そんな範疇を超えてしまっている。 「アイリス……」 声は届かない。 青年はすでに気を絶していた。 顎が砕け、だらりと開け放たれた口元から、大量の唾液と血が流れ落ちている。 目は焦点が定まらない。 足にも力が入らず、ただアイリスに無理矢理立たされている状態だ。 それでもなお、アイリスはやめない。 ただただ、思うがままに、拳を叩き込み続ける。 抵抗すらせず、青年の顔が上へ、右へ、左へと弾かれ、そのたびに足元に真っ赤なしぶきを走らせた。 意識があるうちに、失禁していたのだろう。 ズボンがぐっしょりと濡れ、鮮血がどんどんとそこに重なっていく。 「ねえ……アイリス……!」 答えはない。 ただただ、少女は笑っている。 白い頬に返り血を浴び、それでもなお拳を止めない。 腹に突き刺さった一撃が、乾いた音を響かせる。 あばら骨の折れた音を、ナデシコまでもはっきりと確認できた。 「アイリス………アイリス……!!」 拳を引き絞り、狙いを定める少女。 そんな彼女目掛けて、ようやくナデシコは駆け出していた。 「――やめろッ!!」 振り上げられた手首を、ナデシコは掴んで止める。 指先に伝わるあまりにも異質な熱に、息を呑んでしまった。 白い肌と、柔い肉。 その奥底に、確かに感じる、異形の固さ。 塗り固められ、圧縮された、鋼のような堅牢さ。 アイリスはコチラを一瞥し「ふんっ」とつまらなそうにそれを振りほどいた。 少女の怪力に、ナデシコの身体が転びそうになってしまう。 ようやく、彼女は男を手放した。 青年は泡を吹き、白目をむいたまま力なく倒れる。 もはやそれは、人間というより紐の切れた肉人形だ。 もう少し止めるのが遅ければ、致命傷になっていただろう。 あと数発、アイリスの拳が男をえぐれば、絶命していた可能性すらある。 ナデシコは立ち上がり、少女と対峙した。 今までにない覇気と、あまりにも異質な怒気を孕んだ彼女を、拳を握り、見据える。 探偵の険しい表情に、あくまでアイリスは軽く笑って返した。 「そんなに怒るなよ。こういう馬鹿は、痛い目見ないと分からないだろう? トラウマの一つや二つ、植え付けてやらないと、また同じように無礼を働くだろうからね」 「だからってあんた……やりすぎだろう。死んじまったら、どうするんだい!」 「それはまあ、事故ってことさ。だいたい、凶器を持ち出したのは向こうなんだし、自業自得だよ」 その口調はあまりにも軽率で、そこに命の重みなどは考慮されていない。 今までのアイリスのそれとは明らかに異質だ。 弱き者が虐げられることは当たり前――弱肉強食という概念に、これっぽっちも迷いがなく、疑問すら抱いていない。 心にまるで揺らぎがない。 だからこそ、人間と話しているという感覚が、まるで持てない。 ナデシコはごくりとつばを飲み込み、身構えたまま前を向く。 「あんた――何者だい?」 自分でも、素っ頓狂な問いだと理解している。 アイリスはアイリスで、それ以外の何者でもない。 そんなことは、理解している。 理解しているからこそ、問いかけずにはいられない。 この少女の中に今、居座っている、その“存在”に。 くすくすと、アイリスは笑う。 少女は目を細め、こちらを見つめた。 「安心しなよ。“僕”はあんたの敵じゃあない。あんた、“こいつ”に随分と良くしてくれたからね。叩き潰したりはしないからさ」 「あんた……アイリスじゃあないのかい?」 「まぁ、半分そうで、半分違うかな。“こいつ”はいつもどんくさくて、見ているとイライラするんだ。だから面倒事になった時は、いつも“僕”がどうにかしてやってる。おせっかいな友人さ」 つぅ、とナデシコの頬を、汗が伝う。 荒唐無稽なその言葉が、それでもどこか嘘偽りではないと理解できてしまう。 「あの時だってそう――こいつだけじゃあ、きっとあの場で殺されてた。あの時は、ああするしかなかったのさ」 少女の言葉に、少し首をかしげてしまう。 そのわずかな言葉の中から、ナデシコは自身の記憶の奥底に埋もれかけていた、事実を掘り起こす。 あの時――それはアイリスという少女が、ナデシコと出会うきっかけとなった、過去を指している。 路地裏で起こった殺人事件。 記憶のないアイリスが遭遇した、殺人現場。 記憶がなかったのではない。 あの時、彼女の身体を動かしていたのは、アイリス自身ではなかったのだ。 また一つ、ごくりとつばを飲み込む。 慎重に、真剣に問いかけた。 「あんたなんだね……あの時、あの事件現場にいたのは」 「ああ、そうさ。だけど、はっきり言っておくよ。“僕”はやってない。もちろん“こいつ”もね」 「じゃあ、誰が――あんた、犯人を見たのかい?」 「ああ。だけど、残念ながらはっきりと顔は分からない。それでも確かに、あの場所には“あいつ”がいたんだ。その後ろ姿だけは、覚えてる」 あの時、アイリスはいわば、眠っていたのだ。 たまたま殺人現場に遭遇したのは、今、アイリスの体の中にいる“彼”。 どこまで、信じればいい――ナデシコは慎重に思考を巡らす。 アイリスの肉体に宿った、その異質な存在の言葉に、どこまで耳を傾けるべきか。 確証は何一つない。 “彼”の語った言葉にも、あくまで証拠たるものは何一つない。 しかし、もし“彼”の言葉が真実なら、やはりナデシコ達が追い求めていた“無罪”という真実が見えてくる。 少女ではなく、別の真犯人がいる。 その事実を掘り起こすことができれば、アイリスの潔白を証明できるのだ。 掴みかけた手掛かりに、思考を巡らすナデシコ。 しかし、アイリスはため息をつき、あくまでどこか気だるそうに夜空を見上げた。 「さて、と。僕の役目はここまでだ。あとはまた、よしなにやってくれ」 「ッ!? ちょ、ちょっと待って――」 「もう、良い子はおねむの時間だ。またその時が来たら、出てきてやるよ」 あまりにも勝手な言い分に、ナデシコは思わず駆け寄ろうとした。 しかし、少女の言葉に足を止めてしまう。 「頼んだよ。こいつ、あんたのことは信頼してるみたいだからさ」 「えっ――」 「“こいつ”が誰かを慕うなんて、滅多にないんだからさ。あんたのことは好いてるんだ。頼もしい“探偵”さんだってね」 少しだけ、少女の視線がこちらに向けられる。 やはりその瞳に、邪念は感じられない。 ゆえに無垢な危うさと、鋭さ、そして潔白さが瞳の中に渦巻いている。 不思議な感覚だった。 恐ろしさが消え去り、今はただただ、純粋無垢な輝きがその瞳に宿っている。 身動きできず、ただただ驚くことしかできないナデシコを見て、アイリスは笑う。 どこか意地悪に、そして無邪気に。 「あんたなら、できるかもな。“こいつ”を――救ってやってよ」 アイリスはその言葉を最後に、少しだけ頭上に目を走らせ、夜空を眺めた。 たまらずナデシコも、首を持ち上げてしまう。 いつの間にか、夜空には無数の星々が瞬いていた。 戦いの中に身を置き、危機と緊張にまみれていた心が、ふっと軽くなる。 星空を見つめ、確かにアイリスは笑った。 そのまま彼女は目を閉じ、すぅっと意識を失う。 倒れる少女を、すんでのところでナデシコは抱きかかえる。 腕に伝わってきたあまりにも拙い重さに、思わず少女の顔を覗き込んだ。 気絶したアイリスは、静かに眠っているかのようだった。 まるで恐れや痛みを知らない子供のように、すぅすぅと寝息を立てている。 遥か彼方から、サイレンの音が聞こえてきた。 喧噪が遠のき、再び公園には夜風と、隣接した海岸の潮の音だけが響き渡る。 男達の骸の中央で、アイリスを抱きかかえたまま、ナデシコはしばし立ち尽くしてしまう。 なにからなにまで、分からないことだらけだ。 自分が踏み込もうとしている“真実”の浮世離れした複雑さに、歯噛みしてしまう。 いったい、何者なんだい―—心の中で問いかけても、少女には届かない。 再び見上げた空では、変わらず星々が輝いていた。 見慣れたはずのその夜空が、今はひどく広大で、果てしなく、恐ろしくなってしまう。 気がついた時には、少女を抱きかかえた拳に、微かな力が込められていた。 己の中に渦巻く、恐怖を押し殺すように。 ナデシコはただただ星の光を見つめたまま、自身の無力さを嘆き、歯噛みしていた。
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