拳星 ― Knuckle Stars
20. 星空に溶ける真実

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 瞬間、青年は歯を食いしばり、発砲していた。  迷うことなく、狙いを少女の頭部に合わせて。  全身が発する危険信号を細胞がいち早く察し、反射的に動く。  一発が外れる。  アイリスが左右に高速で移動し、弾丸の軌道から身をかわしていた。  二発、三発、四発――どれだけ空気が爆ぜても、まるで無意味だ。  アイリスのあまりにも無秩序な身のこなしが、弾丸をかわし続ける。  目の前で行われる攻防に、ナデシコは呼吸すら忘れてしまう。  弾丸という近代兵器を無効化し、少女はおぞましい笑みを浮かべ、身をひるがえしていた。  もはやそれは格闘技の防御術などではない。  本能のまま足を運び、体を滑らせ、最適な場所へと肉体を送り込む自然体。  誰に教わるでもなく、細胞に備わった天然の闘争術。  獣の足さばきで、アイリスが青年にたどり着く。  もう一撃――青年は引き金に力を込め、乾いた感触に絶句した。  弾切れを察し、手元に視線を走らせる。  瞬間、その顔面をアイリスの拳が打ち上げた。 「ぶぎッ――!!」  あまりにも間抜けで、おぞましい悲鳴が上がる。  初めて芯を捉えたその打撃は、一撃で青年の鼻骨を粉砕し、血を噴き上げた。  激痛と恐怖が、青年の戦闘意志を削ぎ落とす。  たった一発で、青年の肉体は戦いよりも、素直な敗北を望んだ。  がくりと膝が落ちるが、アイリスが男の手を拳銃ごと掴み、引き上げた。  めきりと、指と銃身が一緒に曲がる。  重なる激痛と、すぐ至近距離から放たれる脅威。  青年の喉元から、か細い悲鳴が上がった。 「ひ――許し――」  その情けない訴えを、轟音がさえぎった。  アイリスの拳が男の鳩尾みぞおちをえぐり、貫く。  あまりに深々と叩き込まれた“鉄”の感触に、男はついに呼吸を止めてしまう。 「許すとか許さないとか、もう関係ないでしょ? ここまでしといてさぁ」  あまりにも無慈悲な言葉と共にもう一撃、男の顎を拳がかちあげた。  血しぶきの中に、砕けた白い歯が飛び散る。  降り注ぐそれらを避け、なおもアイリスは拳を叩く。  夜の闇の中、街灯のぼんやりとした光に照らし出された空間には、悪夢が広がっていた。  凶器ごと握りつぶした手を掴んだまま、抵抗もできない男の肉体に少女は拳を突き刺していく。  胸に、腹に、首に、腕に――一撃一撃が酷く重い。  小さく握り固めたそれはまさに“鉄塊”だった。  打ち込むたびに鋭く刺さり、皮膚と肉をえぐり、その奥の骨すら歪める。  戦いなどではない。  そこで行われているのは、ただの“拷問”だ。  打ち込まれるたび、打撃の音に男の悲鳴が重なる。  倒れることも許さず、逃げることも許されない。  ただひたすら、鬱憤うっぷんを晴らすように、アイリスは無慈悲に拳を打ち込んでいく。  なおも少女は笑っていた。  無機質な笑みを張り付けたまま、深く、暗く、どこまでも黒い瞳で獲物を見つめている。  少女のその豹変ぶりに、ナデシコはしばらく動けなかった。  地に伏せたまま、ただ目の前で行われるその凄惨な“ショー”に、息が止まりそうになる。  怒りがあるのは、もちろんだろう。  やられたことに対する、仕返しを考えるのが人間だろう。  だが目の前のそれは、そんな範疇はんちゅうを超えてしまっている。 「アイリス……」  声は届かない。  青年はすでに気を絶していた。  顎が砕け、だらりと開け放たれた口元から、大量の唾液と血が流れ落ちている。  目は焦点が定まらない。  足にも力が入らず、ただアイリスに無理矢理立たされている状態だ。  それでもなお、アイリスはやめない。  ただただ、思うがままに、拳を叩き込み続ける。  抵抗すらせず、青年の顔が上へ、右へ、左へと弾かれ、そのたびに足元に真っ赤なしぶきを走らせた。  意識があるうちに、失禁していたのだろう。  ズボンがぐっしょりと濡れ、鮮血がどんどんとそこに重なっていく。 「ねえ……アイリス……!」  答えはない。  ただただ、少女は笑っている。  白い頬に返り血を浴び、それでもなお拳を止めない。  腹に突き刺さった一撃が、乾いた音を響かせる。  あばら骨の折れた音を、ナデシコまでもはっきりと確認できた。 「アイリス………アイリス……!!」  拳を引き絞り、狙いを定める少女。  そんな彼女目掛けて、ようやくナデシコは駆け出していた。 「――やめろッ!!」  振り上げられた手首を、ナデシコは掴んで止める。  指先に伝わるあまりにも異質な熱に、息を呑んでしまった。  白い肌と、柔い肉。  その奥底に、確かに感じる、異形の固さ。  塗り固められ、圧縮された、鋼のような堅牢さ。  アイリスはコチラを一瞥いちべつし「ふんっ」とつまらなそうにそれを振りほどいた。  少女の怪力に、ナデシコの身体が転びそうになってしまう。  ようやく、彼女は男を手放した。  青年は泡を吹き、白目をむいたまま力なく倒れる。  もはやそれは、人間というより紐の切れた肉人形だ。  もう少し止めるのが遅ければ、致命傷になっていただろう。  あと数発、アイリスの拳が男をえぐれば、絶命していた可能性すらある。  ナデシコは立ち上がり、少女と対峙した。  今までにない覇気と、あまりにも異質な怒気をはらんだ彼女を、拳を握り、見据える。  探偵の険しい表情に、あくまでアイリスは軽く笑って返した。 「そんなに怒るなよ。こういう馬鹿は、痛い目見ないと分からないだろう? トラウマの一つや二つ、植え付けてやらないと、また同じように無礼を働くだろうからね」 「だからってあんた……やりすぎだろう。死んじまったら、どうするんだい!」 「それはまあ、事故ってことさ。だいたい、凶器を持ち出したのは向こうなんだし、自業自得だよ」  その口調はあまりにも軽率で、そこに命の重みなどは考慮されていない。  今までのアイリスのそれとは明らかに異質だ。  弱き者がしいたげられることは当たり前――弱肉強食という概念に、これっぽっちも迷いがなく、疑問すら抱いていない。  心にまるで揺らぎがない。  だからこそ、人間と話しているという感覚が、まるで持てない。  ナデシコはごくりとつばを飲み込み、身構えたまま前を向く。 「あんた――何者だい?」  自分でも、頓狂とんきょうな問いだと理解している。  アイリスはアイリスで、それ以外の何者でもない。  そんなことは、理解している。  理解しているからこそ、問いかけずにはいられない。  この少女の中に今、居座っている、その“存在”に。  くすくすと、アイリスは笑う。  少女は目を細め、こちらを見つめた。 「安心しなよ。“僕”はあんたの敵じゃあない。あんた、“こいつ”に随分と良くしてくれたからね。叩き潰したりはしないからさ」 「あんた……アイリスじゃあないのかい?」 「まぁ、半分そうで、半分違うかな。“こいつ”はいつもどんくさくて、見ているとイライラするんだ。だから面倒事になった時は、いつも“僕”がどうにかしてやってる。おせっかいな友人さ」  つぅ、とナデシコの頬を、汗が伝う。  荒唐無稽なその言葉が、それでもどこか嘘偽りではないと理解できてしまう。 「あの時だってそう――こいつだけじゃあ、きっとあの場で殺されてた。あの時は、ああするしかなかったのさ」  少女の言葉に、少し首をかしげてしまう。  そのわずかな言葉の中から、ナデシコは自身の記憶の奥底に埋もれかけていた、事実を掘り起こす。  あの時――それはアイリスという少女が、ナデシコと出会うきっかけとなった、過去を指している。  路地裏で起こった殺人事件。  記憶のないアイリスが遭遇した、殺人現場。  記憶がなかったのではない。  あの時、彼女の身体を動かしていたのは、アイリス自身ではなかったのだ。  また一つ、ごくりとつばを飲み込む。  慎重に、真剣に問いかけた。 「あんたなんだね……あの時、あの事件現場にいたのは」 「ああ、そうさ。だけど、はっきり言っておくよ。“僕”はやってない。もちろん“こいつ”もね」 「じゃあ、誰が――あんた、犯人を見たのかい?」 「ああ。だけど、残念ながらはっきりと顔は分からない。それでも確かに、あの場所には“あいつ”がいたんだ。その後ろ姿だけは、覚えてる」  あの時、アイリスはいわば、眠っていたのだ。  たまたま殺人現場に遭遇したのは、今、アイリスの体の中にいる“彼”。  どこまで、信じればいい――ナデシコは慎重に思考を巡らす。  アイリスの肉体に宿った、その異質な存在の言葉に、どこまで耳を傾けるべきか。  確証は何一つない。  “彼”の語った言葉にも、あくまで証拠たるものは何一つない。  しかし、もし“彼”の言葉が真実なら、やはりナデシコ達が追い求めていた“無罪”という真実が見えてくる。  少女ではなく、別の真犯人がいる。  その事実を掘り起こすことができれば、アイリスの潔白を証明できるのだ。  掴みかけた手掛かりに、思考を巡らすナデシコ。  しかし、アイリスはため息をつき、あくまでどこか気だるそうに夜空を見上げた。 「さて、と。僕の役目はここまでだ。あとはまた、よしなにやってくれ」 「ッ!? ちょ、ちょっと待って――」 「もう、良い子はおねむの時間だ。またその時が来たら、出てきてやるよ」  あまりにも勝手な言い分に、ナデシコは思わず駆け寄ろうとした。  しかし、少女の言葉に足を止めてしまう。 「頼んだよ。こいつ、あんたのことは信頼してるみたいだからさ」 「えっ――」 「“こいつ”が誰かを慕うなんて、滅多にないんだからさ。あんたのことは好いてるんだ。頼もしい“探偵”さんだってね」  少しだけ、少女の視線がこちらに向けられる。  やはりその瞳に、邪念は感じられない。  ゆえに無垢な危うさと、鋭さ、そして潔白さが瞳の中に渦巻いている。  不思議な感覚だった。  恐ろしさが消え去り、今はただただ、純粋無垢な輝きがその瞳に宿っている。  身動きできず、ただただ驚くことしかできないナデシコを見て、アイリスは笑う。  どこか意地悪に、そして無邪気に。 「あんたなら、できるかもな。“こいつ”を――救ってやってよ」  アイリスはその言葉を最後に、少しだけ頭上に目を走らせ、夜空を眺めた。  たまらずナデシコも、首を持ち上げてしまう。  いつの間にか、夜空には無数の星々が瞬いていた。  戦いの中に身を置き、危機と緊張にまみれていた心が、ふっと軽くなる。  星空を見つめ、確かにアイリスは笑った。  そのまま彼女は目を閉じ、すぅっと意識を失う。  倒れる少女を、すんでのところでナデシコは抱きかかえる。  腕に伝わってきたあまりにもつたない重さに、思わず少女の顔を覗き込んだ。  気絶したアイリスは、静かに眠っているかのようだった。  まるで恐れや痛みを知らない子供のように、すぅすぅと寝息を立てている。  遥か彼方から、サイレンの音が聞こえてきた。  喧噪が遠のき、再び公園には夜風と、隣接した海岸の潮の音だけが響き渡る。  男達のむくろの中央で、アイリスを抱きかかえたまま、ナデシコはしばし立ち尽くしてしまう。  なにからなにまで、分からないことだらけだ。  自分が踏み込もうとしている“真実”の浮世離れした複雑さに、歯噛みしてしまう。  いったい、何者なんだい―—心の中で問いかけても、少女には届かない。  再び見上げた空では、変わらず星々が輝いていた。  見慣れたはずのその夜空が、今はひどく広大で、果てしなく、恐ろしくなってしまう。    気がついた時には、少女を抱きかかえた拳に、微かな力が込められていた。  己の中に渦巻く、恐怖を押し殺すように。  ナデシコはただただ星の光を見つめたまま、自身の無力さを嘆き、歯噛みしていた。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません