公園を駆け抜けた夜風が、少し水気を含む木々の葉を一斉に揺らし、ざわざわと騒ぎ立てる。 隣接した海からは波飛沫の音色が重なり、暗闇の中で静かに歌っていた。 人気もまばらになった海浜公園の木々の合間を、若者達がせわしなく駆けていく。怒号にも近い無遠慮なやりとりが、夜の空気を乱暴に震わせた。 街灯がほんのりと園内を照らし出すこの時間、本来ならば海沿いのこの公園は、ロマンチックなデートスポットになるはずであった。 湾を挟んだ向こう側には、ネオンで彩られた人口の星々がちかちかと輝き、揺れている。 今日のような晴れた日の夜は、瞬く夜空と人々の灯が果てしない黒の中で混ざり合い、なんとも幻想的な風景を創り上げる。 しかし、今夜はそんなムードが台無しだ。 殺気立った男達が園内の隅々に入り込み、なにかを探している。 その異様な光景に、人々は足早に公園を後にしていく。 理由こそ分からないが、それでも関わればろくな事にならない、ということだけは本能が察するのだろう。 ざわざわと揺れる木々の隙間を、濃厚な闇が埋め、覆い隠す。 その暗幕の奥底――茂みの中から、ナデシコとアイリスは様子をうかがっていた。 「うっへえ、マジか。一体全体、何人いるってんだよ。まったくどいつもこいつも、暇人が過ぎるでしょ」 追っ手を撒くため、逃げる手段が多く、かつ隠れる場所もあるこの公園に駆け込み、二人は身を潜めていた。 夕日が落ち、闇が濃くなったこの時間帯ならば、ネオン街よりもこちらのほうが見つかりにくいと踏んだのだ。 実際、ここまで男達の目を欺けてはいる。 しかし、彼らは一向に立ち去る気配を見せない。 それどころか、新たな増援が続々と駆け付け、園内の捜索に加わっている。 アイリスが呼吸を整えながら、ごくりとつばを飲み込んだ。 吐息の中に、木々や土のむせかえるような匂いが紛れ込んでくる。 「大丈夫なのかな……もしかして、居場所がばれてるんじゃあ」 「さすがにそれはないと思うよ。だけど、なぜかあいつら、この公園が怪しいと踏んでるんだね。誰かに入れ知恵でもされたのか」 「ど、どうしよう……もし見つかったら、また――走るんだよね?」 「まあ、ね。ただ、あいにく『煙玉』はもう使っちゃったからね。目くらましの手段はないんだ。こんなことならもう何個か作ってくるんだったよ」 探偵の一言で、さらにアイリスの表情が曇る。 沈んでいく少女に、ナデシコは困ったように笑った。 「大丈夫だって、その程度でへこまないの」 「でも……もし今度、捕まったら……」 「また何とかして、逃げりゃあ良いだけさ。いざとなったら、ちょちょいとやっちゃえば良い話だよ」 ナデシコは素早く、そして大げさに拳を構えて空を打つ。 あっけらかんと笑うナデシコに対し、アイリスの顔からはやはり不安の色が消えない。 それもまた、仕方のないことなのかもしれない。 そもそも、こんな事態に慣れているナデシコのほうが、世間一般から見れば異常なのだろう。 軽いため息をつき、茂みの外をうかがった。 下っ端と思われる二人の青年が、音色の違う二つの怒号をぶつけ合い、別の方向へ走っていった。 このまま、あとどれだけこうしていればいいのか。 この一向に好転しない状況が、アイリスの不安をさらに煽っているのだろう。 海が間近ということもあり、風が随分と冷たい。 夜通し、茂みの中で野宿するのだけは勘弁である。 ナデシコはまた一つ、軽いため息をついた。 「なあに、心配ないさ。ちょっと前に警察にも連絡したんだ。もうじき、サイレンの音が聞こえるから、そしたら堂々と逃げよう」 「け、警察? いつの間に、連絡なんて……」 「逃げながら、ちょちょいとね。『大勢の怖い男の人達が海浜公園で暴れてるから、早く止めてください~』って。そしたら、『すぐ向かいますので、安心してください!!』だってさ」 探偵の用意周到っぷりに「はあ」と声を上げるアイリス。 少しだけ男達の所業を盛ってはいるものの、この際、応援さえ駆けつけてくれればそれで良い。 ふっと、アイリスの視線が手元に落ちる。 「凄いな、ナデシコは……どんなことがあっても、ちゃんとそれを切り抜けようとしてる」 「別に凄くなんてないさ。悪知恵が働くだけだよ。『探偵』ってのは腕っぷしが良いだけじゃあ食っていけないからね」 「それに比べて、私は全然ダメだね……さっきも、凄い怖くって……体が固まっちゃって、動けなかった……」 弱気な言葉に振り向くと、アイリスは両手を胸の前で握りしめ、目を伏せていた。 手中に生み出される力の心許なさを、噛みしめているようである。 茂みの中に腰を落としたまま、ナデシコは少女を見つめた。 暗闇の中に、その漆黒の小さな影が溶け込んで消えてしまいそうである。 それほどまでに、すぐそばにいるはずの少女の影は儚い。 「そう、自分を卑下しなさんなって。今までだって、十分ちゃんとやれてたじゃないのさ」 「でも……私がもっと速く走れてれば、あの人達から逃げ切れてたかもしれないし……」 「『もし』だの『でも』だのを考え出したら、きりがないよ。それに、言うほどあんたは出来が悪いわけじゃあないさ。一緒にトラブルに巻き込まれた、私が保証する」 少女は微かに顔を上げ、口を開いた。 また「でも」と言いかけて、我慢したのだろう。 「まあ、私も全部分かったわけじゃあないけどさ。あんた、自分で言うほど何もできないわけじゃあないと思うよ」 「えっ?」 「さっき、ゲーセンで両親の話をしてた時もそうだったでしょ? 『自分が悪いんだ』って。だけどさ、私から見てたら、少なくともあんたはしっかりと前に進めてるよ」 ただただ、失意の底に沈みこもうとする少女の手を、半ば無理矢理でも握り、引っ張り上げる。 ナデシコにとって、自分だろうが他人だろうが、ネガティブな空気に呑まれる様は性に合わない。 「そりゃあ世の中、出来の良し悪しだの、運の良い悪いだのはあるだろうさ。だけどね、そんなことよりも“やるか、やらないか”――人生ってのは、こっちのほうが随分と大事だと思うよ」 アイリスは顔を上げ、ナデシコを見つめる。 少女は「やるか、やらないか」と、探偵の言葉を繰り返す。 小さな肉体の中で、その二言を噛みしめているようだ。 「どんだけ運動ができようが、どれだけ秀才だろうが、“いざ”という時に二の足を踏むやつは一杯いる。そのまま、なんもしないまま止まっちゃう奴もね」 茂みの隙間から外をうかがいつつも、ナデシコの脳裏に過去の映像がフラッシュバックする。 振るい続けた“暴”と、その代償。 通じなかった“技”と、肉体に刻まれた報い。 恐怖、失望、そして”あの人”の言葉――――アイリスを励ましていたはずが、いつのまにか自身の過去と向き合っていた。 やるか、やらないか。 それはナデシコ自身が思いついた言葉ではない。 過去のくじけかけた自分が立ち直れた、きっかけの言葉である。 「辛いときや怖いときは、止まりたくなるもんさ。こんなトラブル続きなら、なおさらね。だけど、そこから抜け出すためには、どんなに嫌でも足を出さなきゃあならない。その一歩を踏み出せるかどうか。人の本物の価値ってのは、そういう所で決まるんだよ」 しっかりとアイリスの眼をのぞき込みながら、告げる。 「あんたあの時、走れたろう? あいつらから逃げるため、真っすぐ。もう一度……いや、何度だって言ってやって良い。あんたはしっかり“できた”んだよ。そんな自分を、もうちょっと褒めてやっても良いと思うよ?」 少しだけ、アイリスはその賞賛に驚いていた。 しばし言葉に詰まっていたが、やがてか細く、囁くような声色で絞り出す。 「自分を褒める……今まで、全然……やったことない」 「人間なんてさ、褒めて伸びるにきまってんのよ。がみがみしたって面倒くさがるだけ。親にあれこれ言われ続けてた、私が言うんだから間違いない」 そのあっけらかんとした言葉に、少しだけアイリスが笑う。 「それに、怖かったり迷ってる時は、すぐ先の目標を決めちゃえばいいんだよ」 「すぐ先?」 「そうそう。そりゃあ、私らは“アイリスの無実”だの、“真犯人”だのを探してるわけだけど、そういう大きいことじゃなくってさ。今自分が、何がしたいか――ってね」 探偵の前向きな言葉に「はぁ」と小さく頷く少女。 「少なくとも、私はこんなさっむい公園で徹夜なんて勘弁だよ。とっとと事務所に帰って、暖かいベッド――まぁ、ぺらぺらのシーツだけどここよりはマシさ――そいつで眠りたい」 「私……私も、こんなところにいたくない……一緒に帰りたい」 「なら、やることは決まりだ。とにかく今はこいつらまいて、とっとと帰る! これだけを成し遂げりゃあ良いのさ」 人生において、大局を見ることは重要だ。 だが時として、その大きすぎる視野、視点が、むやみやたらと不安をあおることがある。 どちらに向かえば良いか分からないならば、まずは一歩でも良い――少しだけ先に歩くための“理由”を無理矢理に作ってやれば良い。 それがナデシコが探偵をやっていくうえで大事にしていることの、一つでもある。 二人の目的が定まったところで、ナデシコが眉をひそめた。 そのわずかな変化に気付いたアイリスも、茂みの外をうかがう。 「どうしたの。警察の人達?」 「いやぁ、むしろ真逆だな。ちょっとこれは、旗色が悪くなってきたよ」 えぇと驚き、アイリスも注意深く外を警戒した。 見れば、少し離れた広場に、大勢の男達が集まっている。 明らかに先程よりも、数が多い。 「あいつら、何が何でも徹底的に探し当てる気らしいね。こりゃあ、ちょっとプラン変更だ」 「ど、どうするの? また走るの?」 「まぁ、見つかったらダッシュしかないね。ただ、あんな人数と夜中の追いかけっこなんて勘弁。とにかく、見つからないように反対側から公園を出よう」 本来ならば、警察が駆け付けた隙に脱出する予定だったが、どうやらそう悠長に待ってもいられないらしい。 あまり動き回りたくはないが、しぶしぶナデシコは行動に出る。 「ったく、これだから警察ってのは役に立たないんだよなぁ。今度、姐さんに告げ口しとこう。ほら、アイリス、こっちだ」 身をかがめたまま、茂みの奥へと進んでいくナデシコ。 先程まであれほど警察を持ち上げていたくせに、とんだ掌返しにアイリスも眉をひそめる。 とはいえ、今は迷っている暇もないらしい。 二人は息を殺し、できるだけ音を立てないように茂みの中を移動する。 行き交う悪漢達の隙を伺い、時には茂みから茂みに素早く駆け、公園の出口を目指す。 木々の葉や波の音が、うまい具合に二人の足音をかき消し、味方をしてくれていた。 芝生のエリアが終わり、道路へと続く煉瓦道までたどり着く。 注意深く周囲の人影を探りつつ、二人はようやく茂みから飛び出した。 「おっし、あとちょっとだ。うまいことまけたみたいだね。このまま、とりあえずはまた路地を通りながら、事務所まで――」 駆け出しながら、次のプランを練る二人。 公園の外に見える車や街灯の明かりが、なぜかひどく心強い。 あそこまでたどり着けば、この暗闇からひとまずは抜け出すことができる。 だが、二人の足は不意に止まってしまった。 「やっぱりなぁ、ビンゴ――だな」 息を呑むナデシコとアイリス。 煉瓦道の左右の茂みから、次々と男達が姿を現した。 彼らはすぐさま前後を取り囲み、退路を断ってしまう。 ちぃ、と舌打ちをしつつ前を向くナデシコ。 不安げな眼差しを後方に向けるアイリス。 期せずして、互いの背中を預ける形となってしまった。 「くっそ、待ち伏せか。なんだ、頭もしっかり使えるんじゃないのさ」 考えてみれば、安易であった。 この公園を脱出する出入り口など、限られている。 ならば無闇に広大な公園内を探し回るより、その少ない退路で待ち構えておけば、いずれは獲物がかかるというわけである。 ナデシコ自身、判断が安直すぎたと反省していた。 男達が集まってくる焦りから、次の手を急いてしまったようである。 暗闇の煉瓦道で、再び四方から殺意が向けられた。 前方に三、後方に二。 計五名の悪漢達が、じりじりとこちらに近付いてくる。 「ちょこまかと逃げやがって。お前ら、もうただじゃあすまねえぜ。なにせ、うちのお偉いさんを二人もコケにしたんだからよ」 くちゃくちゃとガムを噛みながら、ニット帽をかぶった男が言い放った。 パーカーから伸びてむき出しになった腕には、痛々しい傷跡がいくつも残っている。荒事はどうやら慣れっこということらしい。 「もう、おとなしくついてこい、なんて言わねえよ。女だろうが関係ねえ。こっちも、無傷で連れてこい、とは言われてないんでな」 男達の肉の内に、重く、じんわりとした確かな“力”がたわむ。 もはや、まどろっこしいやりとりをするつもりはないらしい。 その明確な敵意を感じ取り、アイリスの目が震える。 必死にナデシコに体を寄せ、迫ってくる男達を順に見渡してた。 少女の耳に、すぐ傍に立つ探偵のため息が届く。 振り向くと、探偵は少しうつむき加減に、前を見ていた。 「アイリス、ごめん。私の判断ミスだね。結局、こうなっちゃった」 「ど……どうしよう……どうすれば……」 「簡単には逃げ切れそうにない。今回ばかりはどうやら、やらないわけにはいかないらしい」 ハッと息を呑むアイリス。 ナデシコの言葉から伝わるその明らかな“覇気”に、再び彼女の横顔を見つめた。 先程までの、おどけていた姿はどこにもない。 それどころか、不敵に青年達と舌戦を繰り広げていた、あの顔でもない。 それは初めて見る、ナデシコの真っすぐで、硬く、明白な“敵意”の顔だった。 呼吸を深く繰り返す。 そして視線を走らせ、男達の姿をじっくりと観察する。 夜風が酷く冷たい。 それは、細い線のその体の奥底に、今までにない熱が燃え上がりつつあったせいかもしれない。 しっかりと前を見据えたまま、ナデシコはアイリスに告げる。 「アイリス、良いかい。私の側にいな。ただ、もし本当にやばいとなれば、あんただけでも走って逃げな」 「ッ――!? そ、そんな――」 「やるからには、しっかり守る。だけど情けない話、私も無敵ってわけじゃあないからね。なにかあれば、まずは自分の身をしっかり守りな。いいね?」 力強く、しかしどこか後ろ向きな言葉に、アイリスは息を呑む。 それほどまでに、今のこの状況は二人にとって“まずい”ということでもあった。 普通の女性に比べて、ナデシコは強い――アイリスも、それは十分理解しているつもりだ。 だがそれでも、周囲に群がるこの屈強で、常識外れの男達を前に、どこまで戦えるのだろう。 周囲から伝わる圧に、アイリスの心が震えてしまう。 また一歩、男達は前に出る。 彼らが慎重に間合いを詰める中、ナデシコはゆっくりと両手を持ち上げた。 男達だけでなく、アイリスもその姿に目を見開いた。 腰を少し落とし、微かに開いた手を下腹部の辺りまで持ち上げている。 その掌は前――こちらに向かって来ようとしている男達に向けられていた。 明らかに、今まで見たことのないナデシコの構え。 それは彼女が、迫りくる外敵と“戦う”という意思の表れだ。 目の前の男が駆け出す。 雄叫びと共に、握りしめた拳を真っすぐナデシコに放った。 たまらず、背後のアイリスが叫ぶ。 「ナデシコ――!!」 少女の叫びを背に受けても、ナデシコは動かない。 迫ってくる巨大な岩のような拳を、ただ静かに見つめる。 いつもこうだ――“これ”を使うときは、いつもこんな状況ばかり。 使う機会がないならば、こんなものは封印しておきたいのである。 かつての自分を。 かつての“汚点”を思い出す、一番の要因。 苦く、辛い思い出が詰まった“これ”を、普段は使わないように心掛けている。 だがそれでも、最後の最後に頼るのはいつも“これ”だ。 付け焼刃ではなく、その肉体に本能のレベルまで染み付かせた“技術”。 大切な人から教えられた、本来ならば誇りたくなるはずの“武”。 向かってくる拳を、ナデシコの左手が捉える。 一撃を止めるのではなく、払いのけるように後ろに流した。 反対に、ナデシコ自身は大きく前に出る。 男の一撃と同時に、残った右掌を彼の胴体に叩き込んだ。 拳すら握らないその一撃は、男の肉体に“波”のような衝撃を伝搬させた。 音こそささやかだったが、一撃を見舞われた男は二の手を出せない。 呼吸ができない。 それどころか、肉体が言うことを聞かない。 かっと見開いた目は血走り、大きく開け放たれた口からは怒号ではなく、声にならない悲鳴が、かすれるような呼吸音となって漏れ出していた。 ナデシコは更に動く。 男の腕を掴み、自身が腰を切る動作と共に、一気に引く。 探偵よりも頭二つ大きな男が、あっという間に投げ飛ばされ、受け身も取れずに煉瓦に叩きつけられた。 ずんっ、と仄暗い大地が揺れる。 その突然の事態に、アイリス、そして残った四名が息を呑む。 ほんの数秒、男達は混乱していたようだが、一人やられた程度では止まるわけもない。 後方の一人が狙いをナデシコではなくアイリスに絞り、そのか細い身体目掛けて襲い掛かった。 アイリスの悲鳴を、すぐ脇から飛び出した“突風”がかき消す。 いち早く駆けだしたナデシコが、男の放つ蹴りを迎え撃つ。 大振りの一撃もまた、ナデシコの手によって受け流され、虚しく空を切る。 勢い余って転びそうになる男に、さらにナデシコは接近した。 男の顔を掴みながら、素早く足を払う。 と同時に頭を押し込むことで、男の体がくるりと宙で回転した。 またも息を呑むアイリス、そして悪漢達。 ナデシコは躊躇することなく、浮かび上がった男の胴体を真下――すなわち煉瓦目掛けて叩き落した。 鈍い音と共に大地が揺らぐ。 その中に、男の嗚咽が痛々しく混じった。 瞬く間に二人目を沈め、それでもナデシコは素早く立ち上がり、またも構える。 決して力を込めないリラックスした体勢。 だがそれでいて、全身に一切の隙を見せない、洗練された迎撃の備え。 アイリスはかつて、ナデシコと話した彼女の“生い立ち”を思い出していた。 何人投げ飛ばしたか、分からない――今使っているそれこそが、ナデシコがかつて振るっていた“力”そのものだ。 彼女が、両親から教わった技。 そしてかつて、むやみに振るい、彼女の過去に影を落とした、あの技術。 柔術――いままでのような破天荒な格闘技ではない。 彼女が幼少期から肉体に身に着けた“本身”の技を炸裂させている。 アイリスが呆気に取られている間に、三人目が襲い掛かり、そしてまたナデシコに迎撃されていた。 流れるように胸に掌底を叩き込み、間髪入れず投げ飛ばす。 攻撃を受け、流して無効化し、そして投げる。 そのあまりに洗練された一連の“システム”に、男達は手も足も出ない。 残りは二人――そう安堵しかけたのも束の間、騒動に感付いた悪漢達がまた数人、駆けつけてしまう。 息を呑むアイリス。 しかし、男達から彼女を守るように遮り、ナデシコが立つ。 そのあまりにも鋭い視線に、男達はたじろいでしまった。 「私らがただじゃあすまない。そう言ったね?」 ぞくり、と空気が震えた。 アイリスはたまらず、かすれるような声ですぐそばの探偵の名を呼ぶ。 しかし、闘争の覚悟を決めた彼女に、その言葉は届かない。 「私も、同じ事考えてたんだ。来る限りは相手をする。手を出せば、思いきり、下が石畳だろうがなんだろうが、投げ飛ばす」 構えたまま深く呼吸する。 その体の周囲の景色が、まるで陽炎の様に揺らいで見えた。 彼女から立ち上る確かな“闘志”が、錯覚させる。 「女だろうが関係ない? ああ、そうさ。関係ないわな。これから喧嘩するのに――男も女もない」 探偵のその姿に、かつての彼女が被る。 かつて、身に着けた力を制御する気すらなく、己が四肢にて振るい続けた“災害”のようなそれが、顔を覗かせる。 ナデシコは冷たい空気をありったけ吸い込み、湧き上がる敵意を乗せて叩きつけた。 「もたもたしてないで、とっとと来なよ。とびっきり痛い目みたいやつだけ、前に出な!!」 大気が震える。 夜の冷たさに、次元の異なる別の悪寒が加わる。 駆け抜けた風が、ざわざわと木々を揺らした。 先程までよりも明らかに強いそれが、夜の公園を駆け巡る。 草木と潮の香り。 それらが思い出せなくなるほどの、濃厚な闘争の匂いが、夜の闇に重々しく溶けていく。 動揺し、狼狽する男達の中に混じり、アイリスもまた、肉体の震えを押し殺していた。 自身の盾となってくれているはずの“彼女”が、なぜだかひどく怖い。 “彼女”にうっすら被る“像”の中に、なにか得体のしれない狂気が覗いていた。
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