壁にかかった大時計をおもむろに見上げると、予定時刻までもう15分を切っていた。 つめかけた多くの群衆に向かって、スタッフの男性がメガホン越しに何度も声をかける。 「もう、まもなく登場となります。くれぐれも列を乱さないよう、その場で待機し、押し合ったりしないようお願いいたします。繰り返します。もう、まもなく――」 浮足立つ面々に、その声はどうにも届いていないようだ。 皆、一様にそわそわしながら、今か今かとその時を待っている。 現場の様子を確認し、少女は素早くバックヤードへと駆けていく。 今日はいつもの黒いドレス姿ではない。 他の従業員同様、白地に“稲妻”模様の入ったスタッフTシャツを身に纏っている。 せわしくなく動くスタッフ達の脇を抜け、進む。 一歩、扉をくぐると、閉鎖感あふれる通路が続き、まるで方角が分からなくなってしまう。 困惑する少女の姿を見つけた“彼女”が、大きく手を振った。 「おーい、アイリス! こっちこっち!」 見覚えのある“探偵”の顔に、アイリスもようやく笑みを取り戻した。 同様のTシャツを身に着けたナデシコの元に、すぐさま駆け寄る。 「ご、ごめん……帰り道が分からなくなっちゃって」 「目印がないから、ややこしいよね、この通路って。で、どうだった?」 「うん、凄い人数だよ。たぶん、百人超えてると思う」 その一言に、ナデシコは「うっへぇ」と驚いて見せた。 「まじか、そんなに? いやぁ、本当に“あの子”、人気者なんだなぁ。んで、怪しそうなやつはいた?」 「う、ううん……見ただけじゃあ分からなかった。皆、普通のお客さんにみたいだったよ」 「まぁ、それだけいりゃあ、どこかに隠れてる可能性もあるしね。ひとまずは、楽屋まで戻ろうか」 ナデシコの提案に、大きく頷くアイリス。 二人は狭い通路を、できる限り急いで戻っていく。 バックヤードの一室に作られた即席の“楽屋”にたどり着き、一応、ノックをして中に入る。 二人が戻るや否や、女性が慌てて声をかけてきた。 「ど、どうでした、外の様子は!?」 アイリスだけでなく、ナデシコまでもその勢いにたじろいでしまった。 扉を閉めつつも、なんとか笑顔で答える。 「あぁ、えっと――だいたい、ざっと百人くらいは集まってるんじゃあないかな、って。ねえ?」 視線を投げかけられ、アイリスが何度も首を縦に振った。 百人くらい、という単語に、女性の顔色がどんどん悪くなる。 「ああああ、そんなに……ど、どうでしょうか。怪しい人はいましたか?」 「うぅん、今のところなんとも、ねえ。なにせ、全員を調べたわけでもないから」 それは、ナデシコがアイリスに投げかけた問いと同様だった。 しかしながら、この女性の慌てっぷりは、ナデシコとはまるで異なる。 長い黒髪を後ろで束ねたスーツ姿の女性は「あぁ」だの「うぅん」だのと唸りながら、なにやら思考を巡らせているようだ。 分かりやすく狼狽する彼女を、ナデシコはひとまずなだめた。 「まぁ、スタッフもしっかり配置してるわけだし、そこまで心配しなくても大丈夫ですよ、チセさん」 「そ、そうだと良いんですけど……ああ、もう、ただでさえ不安だっていうのに、こんな時に……」 「ん? こんな時って、どうかしたんです?」 チセは、視線を泳がせながら、焦っているわけを説明してくれた。 「いえ、まぁ、いつものことではあるんですが……“彼女”がまだ戻ってこないんですよ」 「ええ? だって、あともう少しで出番でしょう?」 「はい。メイクの最終チェックをして、待機しておいてほしいんですが……きっと、集中力を高めるための“仕上げ”に行ったのかなと」 ナデシコとアイリスは、ほぼ同時に「仕上げ」と呟いてしまった。 「精神統一する必要があるから、って。一人になりたいから、大体行先は教えてくれないんですよ」 「そりゃあ、また、困った癖ですね。どこに行ったか、見当もつかない、と?」 「そうなんです……いつもはだいたい、ぎりぎりで戻っては来るんですけど……」 このチセという女性は元々神経質なのだろうから“マネージャー”という役職は適しているのだろう。 しかし、肝心の“彼女”のほうが、どうにもアクが強すぎるらしい。 難儀な組み合わせだな――ナデシコがため息をつくと、背後の扉が開いた。 件の“彼女”か、と期待したものの、そこには見覚えのある女刑事の姿があった。 「あれ、姐さん! なんでここに?」 「ちょうど、隙間時間ができたものだから、気になって見に来てみたのよ。まぁでも、この様子だと、どうやらあまりうまくはいってなさそうね」 意地悪な笑みを浮かべながら、女刑事・ユカリは眼鏡を直す。 ナデシコは簡潔に、事態を説明した。 「なるほど。でも“彼女”なら、さっきすれ違ったわよ。まぁ、それこそ精神統一してたのか、物凄い形相だったんで、声もかけられなかったんだけどね」 「えっ、本当かい!? どこにいたの?」 「確か、搬入口近くよ。そのまま、すぐ傍のトイレに入っていったけど」 「おぉ、きっとそこだよ! 姐さん、サンキュー!」 うろたえているマネージャー・チセに構わず、ナデシコはアイリスに合図する。 二人は再び、楽屋から出て行ってしまった。 「ちょっくら呼び戻してきますよ。安心して、待っててください!」 勢いよく駆け出した二人に、チセは何も言えない。 唖然とする彼女の横で、ふぅとため息をつくユカリ。 翻弄されっぱなしのマネージャーを気遣い、言葉をかけた。 「ごめんなさいね。あの子、思いついたらまず体が動くタイプなんです」 「い、いえ、そんな……でも、正直なところ、やっぱり驚いてしまいます。本当にあの方が“探偵”なんですか?」 眼鏡を直しながら、ユカリは頷く。 「ええ。まぁ、型破りこの上ないですけどね。それでも、個人的には腕は確かだと思っていますよ」 この仕事にナデシコらを斡旋したのは、他ならぬユカリであった。 こうして様子を見に来たのも、紹介した手前、多少なりとも責任を感じているからでもある。 「ひとまず、今は目の前のイベントをこなすことを考えましょう。私も観客に紛れて、様子をうかがっておきますので」 チセは深々と頭を下げ、手元の時計を何度も見直していた。 焦ったところで、なにかが変わるわけではない。 ユカリはため息をつき、飛び出していった二人の帰りを待った。 *** ずんずんと進むナデシコの後ろを、はぐれないようにアイリスが必死についていく。 すれ違うスタッフの面々に、ナデシコは「ども」と軽快に、そしてアイリスは慌てて頭を下げ、それぞれ挨拶を交わしていた。 二人とも、バックヤードに足を踏み入れたのは、今日が初めてのことだった。 にもかかわらず、ナデシコは行先に迷うことなく、軽快に進んでいく。 目的地である搬入口近くのトイレまでどう行けばよいのか、明確に理解できているのだ。 「ナデシコ、すごいね……あれだけの説明で、よく道が分かるね」 「楽屋にいた時、暇だったから、建物の地図をずっと眺めてたのさ。こういうの、一度見たらなかなか忘れないんだよ」 また一つ、迷うことなく角を曲がる。 もう何度目になるか分からないが、資料を握りしめて慌ただしく駆けていくスタッフとすれ違った。 「それにしても、スタッフも凄い数だね。正直なところ、たかだか“握手会”って馬鹿にしてたんだけど、想像以上だよ。まるでアイドルの一大イベントみたいだね」 「うん。だって、あの“雷帝”だよ?」 思いがけない一言に、ナデシコは少女に振り向く。 「そうか、そう呼ばれてるんだったね。こういう世界のことについては、私、さっぱりだからなぁ」 「本当、今でも信じられない。あの“雷帝”の握手会の、裏側にお邪魔できるなんて」 この一件をユカリから持ち掛けられた際、意外にも真っ先に食いついたのはこのアイリスだった。 ユカリにとっても“雷帝”なる人物は初耳だったし、そもそもナデシコが得意としない分野の案件だ。 正直なところ乗り気ではなかったものの、アイリスが興味津々だったこともあり、今回の仕事を受けたのである。 件の“雷帝”と称される人物の握手会。 そのスタッフに成りすましつつ“あること”を防ぐため、潜入捜査をしているというわけだ。 静かな通路を歩きながら、すぐ後ろの少女に問いかけた。 「そういや、体の方はもう大丈夫かい?」 「えっ……う、うん。もう、手の傷も、かさぶたになったから」 「へえ、そりゃあ良かったよ。なら、そろそろ全快って感じかな」 嬉しそうに笑うナデシコに対し、どこかアイリスの表情が曇る。 「ん、どしたの?」 「私よりも……ナデシコの方が重症でしょう?」 彼女の視線に気づき「ああ」と笑う。 「まぁ、まだ肩の傷は突っ張るけどね。でも、これくらいなんてことないさ。食うもん食って寝てりゃ、もうじき治るよ」 それはあの晩、改造銃で撃たれた傷のことだった。 大げさに肩を回して見せるが、やはりまだどこか傷跡に違和感は残る。 平気な顔を見せても、なおもアイリスの表情は曇ったままだ。 「ごめんなさい……私のせいで――」 「だぁ、もぉ、また! 大丈夫だってのに。あの時のこと、そんなひきずらなくても良いっての」 思い返してみれば、もうあれからちょうど、一週間になる。 悪漢達の激闘を終え、しばらく二人は傷を癒すことに専念していた。 アイリスはあれからすぐ意識を取り戻したが、やはり戦いの後半――悪漢達を圧倒していた時の記憶は、抜け落ちていたらしい。 しばらくは探偵事務所に引きこもり、療養を続け、こうしてようやく職場復帰できた、というわけである。 「なにはともあれ、こうして再び“お仕事”ができてんだから、問題ないさ。それに、あの時のことで、色々分かったこともあるわけだからね」 あの時のこと、という単語で、先程までとは違う陰りが少女の顔に浮かび上がる。 「やっぱり、色々と思い出せそうにない?」 「うん……覚えてるのは、男の人に捕まったところまでだよ。その後は、気が付いたらあの事務所にいた……」 「そうかぁ。ならやっぱり、あの“僕”ってのが出てる時だけ、覚えてないってことだなぁ」 うん、とうなずく少女のその顔は、いつも通りだ。 戦いのさなか、極限状態を迎えたアイリスの中に現れた“僕”と名乗る存在。 あれからアイリス自身に問いかけてみたが、彼女はその“僕”を直接は知らないらしい。 つまるところ、あの“僕”が前に出ているときは、アイリスの精神は完全に眠りについている状態なのだろう。 今までのことと総合して、ナデシコはある一つの仮説を立てていた。 一つの肉体に、二つの精神。 単一の器を行き来する、二つの“人格”。 多重人格――正式には「解離性同一性障害」などと呼称される、精神疾患だ。 どういった理由かは定かではない。 ただ、この小さな少女の肉体の中に、今も確実に“僕”はいる。 普段のアイリスとはかけ離れた、純粋で率直な殺意を振りかざす“僕”が。 歩きながらうつむき加減で、アイリスは呟く。 「やっぱり私、“変”だよね……自分も知らないもう一人が、頭の中にいるって…」 もう何度、その言葉を聞いただろうか。 今更、抑制したところで、やはりこの少女の後ろ向きな思考は、止まらないのだろう。 ナデシコもそれを理解した上で、続ける。 あくまで自分らしい言葉で。 「まぁ、確かに変わってはいるよねえ。私も初めて見るよ。二つの人格、か」 肯定されてしまったことに、よりいっそう、アイリスが沈み込む。 だが、探偵はあくまで笑いながら続けた。 「面白いねえ。きっと何かの理由やタイミングで、意識が切り替わるってことなんだろうけどさ。一体全体、どういう仕組みでそんなことになるんだろう」 腕を組みながら楽しげに悩むナデシコを、アイリスは目を見開いて見つめていた。 「ナデシコは……怖くないの?」 「怖い? なんで」 「だって……私の中に、もう一人、誰かがいるって……普通じゃないんだよ」 その一言を聞いてもなお、探偵の笑顔が崩れることはない。 「ああ、確かに、普通じゃないと思うよ。でも、それって特別――人より“オリジナル”ってことだからね。そんな子と出会うことなんて、それこそ普通はなかなかあり得ないさ」 自分を拒絶しない、目の前を行く彼女に、ただアイリスは驚くしかない。 今までそんな言葉を投げかけられたことなど、一度たりともなかった。 「もちろん、あの“僕”ってのは、ちょっと小難しそうなやつだったけどね。だけど、あいつは間違いなく、この事件の真相に一番近い存在だ。なにせ、あの時の記憶をしっかり持ってたんだからね」 「私が、無実だって……こと?」 「そうそう。それが本当かどうかは、もちろん気になるところだけど、少なくとも初めて出会えたんだよ。はっきりとした事件の“目撃者”にね」 とはいえ、まさか既に出会った少女の中に、その目撃者が潜んでいたとは、予測できなかった。 「あんたの中の“僕”ってのを解き明かせば、あの事件の真相も一緒に分かってくる。そう考えたら、あの日は大変だったけど、随分と大きな手掛かりが手に入った。でしょ?」 「ナデシコは……前向きだね、いつも」 「後ろ向いても、しょうがないでしょ。むさくるしい男に乱暴された思い出なんて、はやく忘れたいもの」 おどけて見せるナデシコに、ようやくアイリスの顔から険が取れる。 「そもそも、前に進むためにこの仕事だって受けたわけだからね。何事にも軍資金は必要だからさ」 「そう、だね……お金……返せてないしね」 「ああ、まぁ――大丈夫、きちんと覚えてるからさ」 ユカリから前借した資金は、結局、返す当てがない。 そのためにも、まずは目の前の仕事をしっかりとやり遂げ、清算しなくてはならない。 痛いところを突かれ、思わず苦笑いしてしまうナデシコ。 それを見て、また笑うアイリス。 そうこうしているうちに、お目当てであるトイレの前までやってきた。 女子トイレの中に入ると、さっそく異変に気付く。 三つある個室の内、奥の一室だけが扉が閉まり、中から何やら女性の呟く声が聞こえた。 「大丈夫、やれる、やれるったらやれる。怖くない怖くない怖くない、私は誰よりも頑張ってきた、だから頑張れる、できるったらできるの。誰が何と言おうと私は“雷帝”――」 まるで呪文のように続くそれに、一瞬たじろいでしまう。 しかし、聞き覚えのある声色であることに気付き、二人は互いの目を見合わせた。 「あの声……間違いない……よね?」 「うん……でも、何してるんだろう……」 臆することなく、ナデシコが声をかける。 「あの、すいませーん。ミハルさんですよねー?」 「ッ!!? は、はい!!」 慌てて立ち上がったのか、個室の中から“ガコン”だの“ズドン”だのという鈍い音と「うひゃあ!」という悲鳴が聞こえた。 振動に、再び顔を見合わせるナデシコ、アイリス。 しばらくして個室の扉が開き、ふらふらと女性が一人、姿を現した。 目も覚めるような白くて少し跳ねた長髪と、同様に鋭くとがった白いまつげが印象的だった。 肌の色も透き通るようだが、一方で瞳は赤く、色濃い鮮血の色を灯している。 紅蓮のドレスのような衣装を身に着けた彼女は、ナデシコらを見るや否や、目を見開いて驚く。 「あ――あああ、スタッフの方ですか!?」 「え、ええ。そうですけど……」 スタッフ用のTシャツから二人の素性を読み取り、赤い瞳の女性・ミハルは大声を上げた。 「すいません! すいませんすいませんすいません、本当、こんなせっぱつまった時に、ご迷惑かけちゃって、あれですよね、時間ですよね!!?」 とてつもない勢いで謝られ、さすがのナデシコも声が出ない。 ただカクカクと、縦に頷くしかなかった。 「うっわ、まじか、こんな時間!! 急ぎます、急ぎますんで!! 大丈夫、あとメイクだけしてもらったらすぐ出られますから!!」 時計を見るや否や、ミハルは頭を数回下げた後、トイレから駆け出て行ってしまう。 薄暗いトイレの中を、静寂が包む。 その中で、まるで嵐に遭遇したかのように、二人はしばし動けずにいた。 「一応……呼び戻せはした――かな?」 「うん……だぶん……」 トイレの外、どこか遠くから、またあの騒がしい声が聞こえてきた。 おそらく通路で誰かにぶつかったか、何かしらのトラブルがあったのだろう。 改めて、互いの顔を見合わせるナデシコとアイリス。 何はともあれ、当初の目的を果たしたことで、二人もトイレを後にした。 *** 二人は他のスタッフ同様、再びバックヤードから店舗のほうに出ていく。 見れば、先程アイリスが確認した時より、さらに人の群れは勢いを増したように見える。 全体が見渡せるよう、少し離れた位置からスタッフに混じり、群衆を眺めた。 「うっへ、凄い人。本当に有名人なんだね、あのミハルって子は」 「そりゃあそうだよ。ここ最近の小説のランキングを、いつもトップにかけているベストセラー作家さんだよ?」 なぜか、ミハルの素性を語る時のアイリスは、いつになく饒舌だ。 新進気鋭の若手女流小説家・ミハル。 突如現れ、並みいる文豪達を押しのけてベストセラーを次々と世に送り出し、瞬く間に注目の的となった、怪人物である。 無力で無名な主人公の少女が、運命に翻弄されながらも力を身に着け、強大な敵に立ち向かっていく物語――「ヴォルト・エンド・サーガ」と呼ばれる活劇小説が、大ヒットセラーとなっているのだ。 「“雷帝”――本当、随分と大げさな二つ名だよね。でも、さっきみたいなおどおどした態度で、大丈夫なのかな。この後」 「どうだろう……テレビとかで見るときは、あんな感じじゃあなかったんだけど。こう、もっと堂々としてるというか」 アイリスを横目に見つつ、ふぅんと頷く。 舞台に上がることでスイッチが入るというパターンもあるのかもしれない。 いずれにせよ、これだけの群衆を集める大人物なのだから、どうにかして切り抜けるのだろう。 それよりも、ナデシコは群衆の動きを慎重に観察していた。 一見すれば、誰も彼も熱心なファンのそれだ。 その中にあるはずの、しかしどこにあるか分からない違和感を、ナデシコは探す。 ざわめきと熱気が渦巻く密な空間の中で過ごす数分は、どこか息苦しく、独特の緊張が張り詰めていた。 探偵の“審美眼”はやがて、ある一人を捉える。 列の後方、少し離れた位置からステージ上を見つめる“彼”の姿を。 だが、瞬間、歓声に意識が弾かれ、視線を再び走らせる。 アイリスが横で、同様に興奮していた。 「来た――“雷帝”だ!」 いつに増して、少女の声が大きい。 目を見開き、スタッフということも忘れて魅入っている。 その場の皆が一様に、登場した“彼女”に声を上げ、目を輝かせていた。 特設ステージの上に、その姿がある。 跳ねのある長い白髪、鋭くとがった長いまつ毛。 肩を露出した、裾の長い深紅のドレス。 膝上までを覆う革のブーツが、かつかつと、小気味よい音を立てる。 格好自体は先程トイレで見たそれと、大して変わってはいない。 ステージ中央に歩み出た“彼女”は少しだけ目を閉じ、うつむく。 群衆達が声を潜め、息を呑んで見守る。 “彼女”は微かに息を吐き、前を向いた。 あまりにも鋭い眼差しを抱き、“雷帝”が――笑う。 「やあやあ、皆の衆。ようこそ――私の宴へ!!」 腕を開き、見せつけるように言い放ったその姿は、まるで別人だった。 突然の事態に唖然とするナデシコ。 しかし、群衆は一気に沸き立ち、歓声を上げた。 どっと溢れ出た声の波に、思わず周囲を見渡してしまう。 真っ先に目についたのは、すぐ真横でにいるアイリスの羨望の眼差しだった。 「えっ、えぇ? な、なにこれ……」 「本物だ……すごい、本物の“雷帝”だっ!」 果てしない憧憬が、少女の瞳の中に渦巻いているのが分かる。 その輝きはアイリスだけでなく、この場にいる全員の目に宿っていた。 壇上のミハルは、大きな身振り手振りと共に、笑みを浮かべたまま言い放つ。 「このような場に集ってくれたこと、大いに感謝するぞ、皆の衆! 私の描く“物語”と共に歩んでくれること、ただただ嬉しく思う。皆がいるからこそ、また新たな言の葉が刻まれるのだ。この場に集ってくれた皆自身に、まずは大きな拍手、喝采を!!」 言いながら大きく天を仰ぐミハル。 それに合わせるように、拍手喝采が巻き起こる。 場の一体感と、壇上で繰り広げられる唐突なパフォーマンスに、唖然としてしまうナデシコ。 盛り上がりもそうだが、なにより群衆を一手に引き受けるミハルの姿に、開いた口が塞がらない。 先程のあの姿とは、何もかもが違う――トイレでびくびくと怯えていた姿は、もはやどこにもない。 今、壇上にいる彼女は、大胆なステップと大きな身振りで、目の前に群がるファン達に鋭く突き刺さる言葉を投げかけ続ける。 ぎらついた瞳と、常に消えない狂笑とも呼べる笑みを浮かべたまま。はきはきと、最後尾まで通る声で。 言い回しも時に狂暴で、しかしどこか魅力的な言葉選びでぐいぐいと迫ってくる。 「ハッハァッ! 良いぞ、良いぞ。粗野だが実直、無垢ゆえに鋼の如き堅牢さを持った、良い眼差しだ! “雷帝”と共に歩む者は、そのような砕けぬ熱意がないとなッ!!」 彼女の高笑いに、また一つ、わぁと群衆が湧いた。 なにからなにまで、ミハルの思うように場が盛り上がり、熱を帯びていく。 とんでもない場所に来てしまった――予想だにしなかった事態に唖然としたまま、ナデシコはすぐ横の少女に目をやった。 今までの物静かな雰囲気は完全に消え去り、アイリスは両手を精一杯握りしめ、周囲の観衆同様、舞台の上で笑う“雷帝”にうっとりしている。 「かっこいい……」 「あ、アイリス? ねえ、ちょっと、アイリスってば」 完全に虜になってしまった少女に、探偵の声がまるで通じない。 アイリス以外のスタッフまでもが、目の前に広がる光景に、心を奪われてしまっている。 これでは人流の整理だの、警備だのはとてもできそうにない。 男女問わず、年齢も関係なく、ただ羨望の色濃い光が、瞳の中で渦巻いていた。 ステージ上に降り注ぐ無数の視線をものともせず、熱気をさらにかき回すように“雷帝”は吠える。 「私と皆がこうして出会えたのも、尊き宿命のなせる業。魂と魂が惹かれ合い、呼応する。震え、躍動し、叫び、謳う。同じ地、同じ時を共に歩めるこの縁、大いに結構!! “雷帝”と共に歩む者達よ、存分に楽しもうぞ!!」 どぉっ、と大気が揺れる。 普段は物静かな本屋の一画を中心に、熱波が伝搬し、店の外まで駆け抜けていく。 狂信的なまでの人気を誇る女流作家は、降り注ぐ歓声の雨を、ただ両手を広げ存分に受け止めていた。 あまりにも大げさで、大胆で、型破りなその姿に、改めてナデシコは肩の力が抜けてしまう。 周囲からびりびりと伝わる、ここに立つ人々の強すぎる生命力。 それを奮い起こす、独特すぎるミハルのキャラクター。 その強烈さにただただ、舌を巻いてしまう。 視線の先のミハルは、なおも光を受け、群衆に目を向ける。 まるで揺らがない、あまりにも強烈な笑みに、なぜだかナデシコの心までが震え始めていた。
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