拳星 ― Knuckle Stars
7. 黒衣一閃

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 周囲の瓦礫をまき散らしながら、巨漢が立ち上がる。  彼の復活だけでなく、その手に握られた角材――明らかな「凶器」の存在に、ナデシコ、そして少女が戦慄した。 「ちょ――ま、待った待った! そりゃあ無しでしょ! てか、離してよ、トサカ先輩!」  慌てて足を引っ張るも、モヒカン男は決して足首を離してくれない。  地面に這いつくばったまま、それでも不敵な笑みを浮かべている。  チンピラである男達に「正々堂々」だの「一対一」だのという概念はない。  ゆっくり、巨漢が近付いてくる。  蹴り飛ばされた顎が赤く擦り切れ、腫れていた。  その痛みと、女にコケにされたという怒りが、表情に色濃く滲み出ている。  ナデシコとの距離を詰めながら、巨漢は角材を振り上げる。  その目線は女探偵の頭部を狙っていた。  焦るナデシコ、必死に足を掴む男、迫る巨漢。  その三者の動きを俯瞰から、少女は見ていた。  巨漢が一歩を踏み出すたび、小さな体の奥底にある心臓が跳ねた。  痛いほどに脈打つそれが、この場から去りかけていた「恐怖」を再び肉体に引き戻してしまう。  あの女の子が、やられてしまう――誰なのかは知らない。  なぜここに現れたのか、なぜ自分を助けてくれるのか。  その全てが分からない、赤の他人。  だがそれでも、一つだけ少女にも分かっていることがある。  彼女は良い人だ。  この数分で、それだけは分かる。  目の前の暴漢にまるでひるまず、毅然と立ち向かうその姿から、言葉を交わさなくても理解できる。  そんな彼女が、このままでは傷付いてしまう。  他ならぬ、自分のせいで。  さらに一歩、踏み込む巨漢。  必死に足を引き戻すナデシコ。  そして掴んだ手にあらん限りの力を込めるモヒカン男。  まずい――ナデシコは足掻くのをやめ、目の前の凶器に狙いを定める。  止めるか、受け流さなければいけない。  一歩も動けないこの状況で、できるだけ直撃を避けなくては。  身構えたナデシコの額に、汗が浮かんだ。  来たる痛みに、必ず訪れるであろう激痛に備え、歯を食いしばる。  真っすぐ、容赦なく、無慈悲に男は武器を振り下ろした。  閉じた空間に「風」が吹き抜ける。  生暖かい空気の流動の中に、「カッ」という乾いた音が走った。  目を見開く男達。  そして、ナデシコ。  三人は動きを止め、ある一点を見つめていた。  巨漢の手にした凶器――角材が真ん中でへし折れ、その先端が宙を舞っている。  いや、正確には真っ二つに「切断」されたそれが、カラン、という音と共にアスファルトの上を跳ねた。  巨漢とナデシコ。  その間に、少女がいる。  大きく踏み出し、か細い腕を振りぬいた体勢で、静止していた。  真っすぐ揃えた五指。  その先端から、まるで「剣」のような鋭い闘気が、微かに立ち昇っている。  その瞬間を、誰も知覚できていない。  だがそれでも、自然と理解できてしまうことがある。  この少女がやったのか――黒く、艶やかな前髪の隙間から覗く、彼女の大きな眼。  その双眸が、巨漢を睨みつける。  少女は震えている。  だが同時に歯を食いしばり、肉体の内側でうごめく感情を繋ぎとめる。  内なるもう一つの声が、頭の中で高らかに吼える。  戦え――聞き覚えのあるその言葉に、わずかに体が動いた。  しかし、巨漢が遅れて我に返り、再び憤怒の表情を浮かべる。  その至近距離の敵意に、少女の闘志が散ってしまう。  巨漢の腕が伸びてくる。  男の猛獣のような、熱くて粗野な息遣いに、身がすくむ。  再始動する巨漢と、涙を浮かべる少女。  その背を、突風が叩く。 「サンキュー、お嬢さぁん!」  ナデシコが少女の脇をすり抜け、男目掛けて跳ぶ。  目を丸くした巨漢の顎が、スニーカーによって強烈に跳ね上げられた。  跳び蹴りは終わらない。  もう一撃、今度は右足が跳ね上がり、男の頭部に真横から叩き込まれた。  肉体そのものを回転させ、まるでコマのように回転しながら蹴りぬく。  巨漢の体が真横に倒れ、今度は水たまりの中にあおむけに倒れた。  ナデシコはというと、着地に失敗し、背中からコンクリートに叩きつけられてしまう。 「い――ったあ! あー、おっしい。もうちょいで完璧だったのになぁ」  苦笑いしながら立ち上がるナデシコ。  ジャンパーやジーンズの汚れをはたきながら、彼女はすぐ横で立ち尽くす少女を見る。  今まで彼女の足首を掴んでいたモヒカン頭の男は、グロッキー状態で白目をむいていた。  頬にスニーカーの足跡が刻印されているところを見ると、ダメ押しに蹴り込まれたらしい。 「ありがとう、助かったよ。さっきのあれ、すっごいねえ。なんだ、そんなナリして戦えるんじゃんか!」  笑う彼女の頬には、泥が付いたままだった。  髪も乱れ、ジーンズの裾が少し破れてしまったらしい。  そんなボロボロの彼女の姿を、それでも少女は呆然と見つめてしまう。  まぶしい――そしてそれ以上に、目の前に映る「ヴィジョン」に驚愕する。  男達とはまるで違う。  もはや生き物でもない、その像が、ナデシコの姿にはっきりと重なる。  荒々しく、稚拙で、しかし決して止まることのないもの。  無秩序に渦を巻く「竜巻」が、はっきりとナデシコと合致する。  静寂が戻ってきた路地裏に、気を失った男が二人。  そして互いを見つめ合う少女が二人。  宵闇に飲まれようとするその狭い空間で、なおもナデシコは気楽に、ひたすらに明るく笑っていた。

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