周囲の瓦礫をまき散らしながら、巨漢が立ち上がる。 彼の復活だけでなく、その手に握られた角材――明らかな「凶器」の存在に、ナデシコ、そして少女が戦慄した。 「ちょ――ま、待った待った! そりゃあ無しでしょ! てか、離してよ、トサカ先輩!」 慌てて足を引っ張るも、モヒカン男は決して足首を離してくれない。 地面に這いつくばったまま、それでも不敵な笑みを浮かべている。 チンピラである男達に「正々堂々」だの「一対一」だのという概念はない。 ゆっくり、巨漢が近付いてくる。 蹴り飛ばされた顎が赤く擦り切れ、腫れていた。 その痛みと、女にコケにされたという怒りが、表情に色濃く滲み出ている。 ナデシコとの距離を詰めながら、巨漢は角材を振り上げる。 その目線は女探偵の頭部を狙っていた。 焦るナデシコ、必死に足を掴む男、迫る巨漢。 その三者の動きを俯瞰から、少女は見ていた。 巨漢が一歩を踏み出すたび、小さな体の奥底にある心臓が跳ねた。 痛いほどに脈打つそれが、この場から去りかけていた「恐怖」を再び肉体に引き戻してしまう。 あの女の子が、やられてしまう――誰なのかは知らない。 なぜここに現れたのか、なぜ自分を助けてくれるのか。 その全てが分からない、赤の他人。 だがそれでも、一つだけ少女にも分かっていることがある。 彼女は良い人だ。 この数分で、それだけは分かる。 目の前の暴漢にまるでひるまず、毅然と立ち向かうその姿から、言葉を交わさなくても理解できる。 そんな彼女が、このままでは傷付いてしまう。 他ならぬ、自分のせいで。 さらに一歩、踏み込む巨漢。 必死に足を引き戻すナデシコ。 そして掴んだ手にあらん限りの力を込めるモヒカン男。 まずい――ナデシコは足掻くのをやめ、目の前の凶器に狙いを定める。 止めるか、受け流さなければいけない。 一歩も動けないこの状況で、できるだけ直撃を避けなくては。 身構えたナデシコの額に、汗が浮かんだ。 来たる痛みに、必ず訪れるであろう激痛に備え、歯を食いしばる。 真っすぐ、容赦なく、無慈悲に男は武器を振り下ろした。 閉じた空間に「風」が吹き抜ける。 生暖かい空気の流動の中に、「カッ」という乾いた音が走った。 目を見開く男達。 そして、ナデシコ。 三人は動きを止め、ある一点を見つめていた。 巨漢の手にした凶器――角材が真ん中でへし折れ、その先端が宙を舞っている。 いや、正確には真っ二つに「切断」されたそれが、カラン、という音と共にアスファルトの上を跳ねた。 巨漢とナデシコ。 その間に、少女がいる。 大きく踏み出し、か細い腕を振りぬいた体勢で、静止していた。 真っすぐ揃えた五指。 その先端から、まるで「剣」のような鋭い闘気が、微かに立ち昇っている。 その瞬間を、誰も知覚できていない。 だがそれでも、自然と理解できてしまうことがある。 この少女がやったのか――黒く、艶やかな前髪の隙間から覗く、彼女の大きな眼。 その双眸が、巨漢を睨みつける。 少女は震えている。 だが同時に歯を食いしばり、肉体の内側でうごめく感情を繋ぎとめる。 内なるもう一つの声が、頭の中で高らかに吼える。 戦え――聞き覚えのあるその言葉に、わずかに体が動いた。 しかし、巨漢が遅れて我に返り、再び憤怒の表情を浮かべる。 その至近距離の敵意に、少女の闘志が散ってしまう。 巨漢の腕が伸びてくる。 男の猛獣のような、熱くて粗野な息遣いに、身がすくむ。 再始動する巨漢と、涙を浮かべる少女。 その背を、突風が叩く。 「サンキュー、お嬢さぁん!」 ナデシコが少女の脇をすり抜け、男目掛けて跳ぶ。 目を丸くした巨漢の顎が、スニーカーによって強烈に跳ね上げられた。 跳び蹴りは終わらない。 もう一撃、今度は右足が跳ね上がり、男の頭部に真横から叩き込まれた。 肉体そのものを回転させ、まるでコマのように回転しながら蹴りぬく。 巨漢の体が真横に倒れ、今度は水たまりの中にあおむけに倒れた。 ナデシコはというと、着地に失敗し、背中からコンクリートに叩きつけられてしまう。 「い――ったあ! あー、おっしい。もうちょいで完璧だったのになぁ」 苦笑いしながら立ち上がるナデシコ。 ジャンパーやジーンズの汚れをはたきながら、彼女はすぐ横で立ち尽くす少女を見る。 今まで彼女の足首を掴んでいたモヒカン頭の男は、グロッキー状態で白目をむいていた。 頬にスニーカーの足跡が刻印されているところを見ると、ダメ押しに蹴り込まれたらしい。 「ありがとう、助かったよ。さっきのあれ、すっごいねえ。なんだ、そんなナリして戦えるんじゃんか!」 笑う彼女の頬には、泥が付いたままだった。 髪も乱れ、ジーンズの裾が少し破れてしまったらしい。 そんなボロボロの彼女の姿を、それでも少女は呆然と見つめてしまう。 まぶしい――そしてそれ以上に、目の前に映る「ヴィジョン」に驚愕する。 男達とはまるで違う。 もはや生き物でもない、その像が、ナデシコの姿にはっきりと重なる。 荒々しく、稚拙で、しかし決して止まることのないもの。 無秩序に渦を巻く「竜巻」が、はっきりとナデシコと合致する。 静寂が戻ってきた路地裏に、気を失った男が二人。 そして互いを見つめ合う少女が二人。 宵闇に飲まれようとするその狭い空間で、なおもナデシコは気楽に、ひたすらに明るく笑っていた。
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