店の古びた時計を見ると、もう午後一時――すでに昼時を回っていた。 予定では今頃、探偵事務所に戻っているはずだったが、少しジムを出るのが遅すぎたらしい。 腹が減ってきてしまった。 本来ならこの後「軍資金」を元に、あれこれと食材や日用品を買って帰るつもりだったのだ。 だが刻一刻と、脳内に描いたプランが後へ後へとずれていく。 椅子に腰かけたまま、ナデシコは視線をカウンターの奥に向ける。 ナデシコが持ってきた黒いドレス――元々、アイリスが着ていたそれを、角ばった顔の店主がにらみつけている。 「なかなかどうして――うん、なるほど――ううん」 らちが明かないな――ため息をつき、ナデシコは店主に語り掛ける。 「ねえ、どう。綺麗にできそう?」 「ああ。やってやれないことはないさ。ただまぁ、うちにこういう服を持ってくる客はそういないからな。そこらの洋服と同じように扱っちゃあ、こうも繊細な服は簡単にダメになっちまいそうだ」 大柄な男と店舗の名――“ミスズ・クリーニング”と白字で刻まれたエプロンは、どこかアンバランスな取り合わせに見える。 太い眉毛の下の目を細め、彼はアイリスの私服を品定めしている。 「だが、頼まれた仕事についちゃあ、『しわ無し、待たせず、きっちりと』がモットー。どんな服だろうが、しっかりと承らせてもらうさ」 承諾してくれて、ほっと胸をなでおろすナデシコ。 薔薇の刺繡とフリルのついたドレスなど、こんな個人経営のクリーニング屋に取り扱えるのかと、失礼ながら心配していた。 杞憂だったことに一安心し、ようやく立ち上がる。 腰を伸ばし、固まりかけている筋肉をほぐす。 「良かったぁ、さすがおっちゃん。じゃあ、お願いね――」 「ああ、合点。まぁしかし、ナデシコちゃんもついに、か」 「ん?」 なんだか妙な波長に振り向く。 店主はいまだに、ハンガーにかかったアイリスの私服を眺めている。 「やっとこういうので、自分を飾るようになったかい。乙女心ってやつだね」 「え……いやいやいや、違う違う! それ、私んじゃないから!」 服の持ち主の素性は、彼には伝えていない。 下手にアイリスのことを口に出せば、何かのきっかけに居場所がばれるかもしれない、と危惧したからだ。 しかし、それはそれで妙な勘違いを生みつつある。 「しかし意外だね。ナデシコちゃんがこういうタイプので攻めていくとはな。てっきりスポーティな趣味かと思いきや、予想以上におしとやかな――」 「話聞けっての、違うって! 私のじゃなくて、友達からの預かり物だっての!」 あれこれ言い訳は考えたが、もはや店主は聞く耳を持たない。 彼はにやりと不敵に笑っている。 「もし良かったら、トータルコーディネートしてやるからな。おっちゃんに任せなさい。伊達に服と数十年、連れ添ってないもんでね」 にっかり笑うその顔が、なんだか妙に腹立たしい。 ナデシコは何とも妙な敗北感に包まれつつ、少し顔を赤らめて店を出た。 差し込む日差しが肌を刺激する。 雑踏と、車のクラクション。 店への呼び込みの声と、どこかで遠くで行われている街頭演説。 行きかう人々を眺めながら、なんだか妙な疲労感に包まれていた。 変な噂を広められなければいいが――商店街特有の情報網にぞっとしつつ、とにかく今は次の店へと急いだ。 誰もいない探偵事務所は、ただただ静かだ。 隅に置かれたテレビは配線が壊れているらしく、何をいじっても使えそうにない。 他には本棚にいくつか書籍を見つけたが、そのラインナップも実に多彩で一貫性がない。 分厚い法律の本は新品同様なのに、その隣に置かれた娯楽作品は擦り切れるほどに読み込まれている。 特に中でも“忍者”の登場する時代小説、SF活劇や、“探偵”の登場するミステリー物の漫画については、手垢やコーヒーの染みがついており、この事務所の持ち主の趣味がうかがえる。 どれも興味深く読んでいたが、やはり驚くほど時間はつぶせない。 一人、取り残されたアイリスは、しかたなくベッドに戻り、シーツにくるまってじっと待っていた。 あの妙な探偵は帰ってこない。 知り合いとの約束があったということを思い出し、慌てて出ていったのは午前のこと。 出ていく前に「無闇に外に出ないこと」と告げていた。 自身の愛用のドレスも、クリーニングに出すため紙袋に詰め、持っていかれてしまった。 服があろうがなかろうが、律義にそれを守る義理もない。 代わりのシャツとジャージズボンは少し大きいが、この姿でここから脱出することだってできる。 だが、アイリスはその選択肢を拒んだ。 帰れるわけがない――今のこんな状態で、元居た場所に帰れない。 もっと言えば、それが正しい選択なのかも、まるで自信はない。 そんな混乱した意識の中で、それでも一つだけ、妙にはっきりと思うところがある。 あの探偵は不思議な人間だ、と。 自分の言葉をなんの確証もなく信じ、そしてあげくはかくまおうとまでしてくれている。 その行動原理が、少女にはまるで理解できない。 もっと怪しむべきだし、もっと疑うべきだ。 自身の身に起きていることでありながらも、そう思ってしまう。 ただ人が良い馬鹿――には思えない。 飄々とし、柔らかく、明るく。 だがそれでいて、ナデシコの中には何か強固な「軸」のようなものを感じた。 あの探偵には、決して表に出さない、譲れない一本の芯があるのだろう。 その力強さがあったからこそ、アイリスはナデシコを少しだけ信用し始めている。 少なくとも、今まで出会ってきた人間の中には、なかなかいなかったタイプだからだ。 ベッドからまた体を起こし、洗面所の鏡の前に立つ。 ひどい顔だ。 幼い表情の中に、明らかな疲労の色が見える。 昨日よりは随分マシだが、蓄積した疲れは如実に表れていた。 ふと洗面台を見ると、あの“探偵”が置いていった、即席の顔パックが置かれている。 確か、試供品としてもらって余ったものだから、遠慮なく使え、と言っていた。 ぼぉっとしたまま、それをおもむろに開け、顔に装着してみる。 鏡の中の真っ白な仮面を見つめ、思わず苦笑いした。 なにやってるんだろう、私は――まるで緊張感がない。 あの探偵と出会ってから、どうにも自身の中の不安や恐怖が、空回りしていくのが分かる。 改めて思う。 不思議な人だ、と。 再び本でも読むか――そう思い立ち、パックを付けたままソファーへと戻る。 その小さな体に、透き通った女性の声が響いた。 「ちょっといいかしら、そこの人」 びくりと反応し、恐る恐る振り向く。 入り口のドアのガラス越しに、眼鏡を付けた金髪の美しい女性が見えた。 もし、来訪者が来たら居留守か、適当に追い返せばいい――そう探偵は言っていたが、見事に目線がぶつかってしまい、隠れることすらかなわない。 互いの視線が交わったことで、アイリスは身動きが取れなくなってしまった。 緩み切っていた脳みその回路が、一気に再稼働し始める。 何とかしないと――完全に混乱した少女は、とにかく言い訳を探しながら、暴走してしまう。 来訪者を追い返すため、適当な嘘をつくために、入り口のドアへと走った。 顔パックを外すことすら忘れ。 「は……はい……」 幸いにもドアロックはついていたから、鍵だけを開けて隙間から女性を見上げた。 スーツ姿の女性は、驚いたように目を丸くしている。 その意味が、混乱した少女には分からない。 「あ、あの……なんでしょう……」 「ああ、いえ。驚いたわね、お友達かしら? 誰か人がいると思わなかったんで」 「あ……は、はあ……ちょ、ちょっと……泊まらせてもらってて……」 なんとも力弱く、たどたどしい返事である。 アイリスのその言葉に、女刑事・ユカリは「ふうん」と頷く。 「そう。あの子に、こんなかわいい友達がいたなんてね。あ、ごめんなさい。私はあの子――ナデシコの知り合いよ。ちょっと今日、あの子とジムに行ってたんだけど、忘れ物を届けに来てね」 ユカリはバッグの中から、水筒を取り出す。 コップの部分に手裏剣のマークが施された一品だ。 ださい――そんな感情はとりあえず置いておいて、アイリスの目はユカリの顔に釘付けになっていた。 同じ女性でありながら、ユカリのその整った美しさに目を奪われてしまう。 とてもこの女性が、あの奇妙な探偵と知り合いだということが、信じられない。 こちらを見つめる少女に、ユカリは首をかしげる。 「どうかした?」 「あ……あ、いや……」 「これ、あの子に渡しておいてくれる? あとついでに『借りたお金、しっかり覚えてるから』って伝えておいて」 「は……はぁ……」 まるで会話にならないが、それでもユカリはにっこりと笑い、去ってしまう。 彼女が立ち去ったことに一安心しつつ、まだ脳裏にその美貌が焼き付いて離れない。 色んな人がいるんだな――この街にきてまだ数日。 それでも、アイリスは自分が飛び込んだ世界の広大さを、そこに住む人の種類で痛感する。 むしろどれだけ、自分が世界を知らなかったのか、ということが身に染みてわかってしまう。 いまいちセンスのない水筒を持ったまま、再び裏へと戻る。 とりあえずそれを、台所の洗い場の横に置いた。 事件に巻き込まれ、何が何だか分からない。 これからどうすべきか。どこへ行くべきかも分からない。 だから今は少しだけ、この狭くてほこりっぽい探偵事務所が、心強く感じてしまう。 早く帰ってこないかな――静かで、孤独な時間は、もうしばらく続きそうだ。 もう一度、改めて本を取りに行こうと立ち上がり、ふっと洗面台を見る。 そしてようやく、アイリスは自身の過ちに気付いた。 「あ――あああああああ!」 思わず、声を上げた。顔につけた真っ白なパックが“そのまま”だったことに、その下の頬が一気に紅潮する。 ユカリの美しい顔が、なぜあんなにも驚き、そしてほころんでいたのか、ようやく分かった。 たまらず、それを引っぺがして捨てる。 恥ずかしさにたまらず、ベッドに飛び込み、硬い枕に顔を押し付け悶絶した。 もうやだ――湧き上がってくる羞恥心とは裏腹に、試供品の効果は絶大だったのか、透き通った肌のみずみずしさだけは取り戻されていた。
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