ナデシコは粉々になったマグカップをビニール袋にまとめ、ゴミ箱へと放り込む。 だが以前、近隣住民に「分別」についてこっぴどく注意されたことを思い出し、慌てて袋を拾い上げた。 ひとまず床にそれを放置し、振り返る。 事務所のソファーの上に座り、こちらを見つめている少女・アイリスと目が合った。 「これでよし、と。大丈夫だった、火傷してない?」 「うん……ごめんなさい、マグカップ……」 「ああ、いいのいいの! あんなの、百円ショップで買った安物だから。また揃えりゃ良いだけの話だよ」 というのは実は嘘で、旅行先で買ったお気に入りの一品だったのは、少し辛い。 とはいえ、そんなことにこだわっている場合でもない。 ナデシコはソファーに腰を下ろし、再びアイリスと向き合う。 目の前にはナデシコの飲みかけのものと、アイリスのために再び淹れた二杯のコーヒーが並ぶ。 少し冷めてしまったそれらを前に、再び言葉を交わす。 「ごめんね。職業柄、あれこれ踏み込んじゃうもんなんだ。びっくりさせたね」 アイリスはやはり少しうつむきがちに視線を落とし、ちらちらとこちらを見つめてくる。 大きな眼は手元のコーヒーとナデシコの顔を、しきりに行き来していた。 女刑事・ユカリから助力を依頼された、ワンドゥでの殺人事件。 その場にいた犯人と思われる「少女」。 そして「殺人事件」という言葉に過剰な反応を見せる、目の前の少女・アイリス。 それらの「点」は、もはやナデシコの中では確実な「線」となって繋がりつつある。 本来、戸惑うべきなのかもしれない。 もしそれらが真実だとすれば、今、目の前に座っているのは、世間知らずな、ワンドゥに不慣れで気弱な少女などではない。 人を一人殺害し、逃亡している「殺人犯」である。 物証だけ見ればそうなのだろう。 だがしかし、それでもナデシコは笑顔を浮かべている。 ここからだ――軽く息を吐き、前を向く。 可能性だの、確率だので物事を見てはいけない。 その色眼鏡が、いつだって人間の眼を曇らせ、屈折させる。 「私はさ、最近ここらで起きた『殺人事件』を追ってるんだ。まだ捕まってない、犯人の手掛かりを探してたんだよ。だから、あの場所にいたのさ」 びくり、とアイリスの体が震える。 その明らかな動揺に、さらに踏み込む。 慎重に。静かに。 「びっくりだよ。まさか、偶然にもその『関係者』とこうして出会っちゃうなんてね。運が良いか悪いか、分からないけどさ」 「私……私は――!」 「待った待った、分かってる! 大丈夫だから」 再び暴走しそうになるアイリスに、真っすぐ向き合う。 わなわなと震えるその大きな瞳に、ナデシコは自身の意図を告げた。 「いいかい? 誰がやったのか、何が起こったのか、誰が悪くて誰が裁かれるべきなのか――世の中はもちろん、そういうことを大事にするだろうさ。だから警察だって必死に動いてるし、街の人達は怖がってる。『殺人犯』は誰なんだ――って」 アイリスの呼吸が荒くなっていく。 殺人という言葉に、少女の心が締め上げられている。 それを理解した上で、ナデシコはさらに先に進む。 「でもね、私はそういう答え『だけ』が欲しいんじゃあない。そんなことは警察が言わなくても調べてくれるだろうし、それをどうこうするのも、専門家の奴らのやることさ。私はね――」 ずい、と身を乗り出す。 アイリスとナデシコの顔が、急激に近付いた。 少女の内面に、再び語り掛ける。 恐怖や戸惑いで、彼女が自身を――そしてナデシコという女性を見失わないように。 「『真実』が知りたい。だからやってる」 アイリスの震えが止まる。 少女はか細い声で「真実」と繰り返した。 大きく頷き、続ける。 「少女が大人の男を殺した――物証だけ見れば、そういうことなんだろう。だけどね、それだけじゃあ十分じゃない。あの日、あの場所で何があったのか。『少女』はなぜあそこにいたのか。殺された男は何をしていたのか。そして――『誰』が殺したのか」 アイリスのか細い身体の中で、どくん、と鼓動が高鳴る。 ナデシコの顔から、へらへらとしたうわべだけの笑顔は消えていた。 強く、ただ真っすぐな瞳で対峙する。 殺人犯なのか否か。 そんなことは、今のナデシコにとってはどうでもいい。 不謹慎でも構わない。 ナデシコは今、自身の「矜持」を示している。 「私はね、全部を知りたいんだよ。殺した人間のことも、殺された人間のことも――じゃないと、裁くことなんてできない。そこにある『真実』を知りもしないのに、前になんて進めない。だから探偵をやってる」 一呼吸置き、目の前の少女の顔を見つめなおす。 アイリスの震えは止まっていた。 ソファーに腰かけたまま、背筋を正し、ただ真っすぐこちらを見つめている。 驚きの色が、最も濃いのかもしれない。 ナデシコという「探偵」の気持ちを、彼女もまた自身の心の中で反芻しているのだろう。 その「心」に真っすぐ、ナデシコは問いかけた。 「あんた、あの時、あの場所にいたんだよね。あんたが――殺したのかい?」 その問いかけに、アイリスはすぐには答えなかった。 一度、視線を手元の黒い液体に戻し、表面を見つめる。 微かな震えに歯噛みし、だがそれでも必死に思いを巡らせていた。 考え、噛みしめ――そして再びアイリスが前を向く。 「私、やってない……私――人なんて殺してない」 静かな事務所の中で、二つの小さな鼓動が、それぞれの歩調で進んでいく。 吐き出された言葉が音となり、肉体そのものに染み込む。 数秒なのか、はたまた数分なのか。 ナデシコとアイリスは互いの目を見つめたまま、微動だにしない。 無言のまま、思いを巡らす。 瞳の輝きのみを頼りに、そのさらに奥の奥に潜む、心の中を覗く。 やがてナデシコはコーヒーを少し飲み、ため息をついた。 ソファーに体を預け、天井を仰いだ後に、こう告げる。 「そうか。うん――分かった」 予想外の返答だったのだろう。 アイリスは驚き、目を見開く。 元々大きな目が、より一層、その大きさを増した。 「え……」 「まあ、最初から分かってたけどね。そっかそっか。まぁ、じゃあ手掛かりゼロに戻っちゃった感じだなぁ」 戸惑うアイリスから、ようやく視線を外すナデシコ。 後ろ頭をかきながら、虚空を見つめている。 「じゃあまぁ、やっぱり殺されたあの男の周辺を洗ったほうが良いのかなぁ。殺される理由……それが分かれば、犯人も――」 「あ……あの……」 「製薬会社かぁ、簡単に入り込めそうにないなぁ。もう一回、そのへんも含めて姐さんに相談するかな――」 「あの!!」 ぶつぶつと自問自答するナデシコを、アイリスの大声が遮る。 探偵も我に返り、目を丸くした。 「ん――ああ、ごめんごめん! いつもの癖でさ、つい。どしたの?」 「あ……えっと……」 対峙すると、これはこれで言葉が出てこない。 しばらく視線を泳がせてしまったが、それでもアイリスは自身を奮い立たせ、問いかける。 「あの……信じて、くれるの?」 「え、なにを?」 「だから……私が……やってないってこと…」 しばし、ナデシコは驚いたようにアイリスを見つめていた。 だが、すぐにためらうこともなく頷いて見せる。 「うん、だってやってないんでしょ?」 「そうだけど……」 「え、もしかして本当はやってるの? 嘘ってこと?」 「ち、違うよ! 嘘じゃない!」 「じゃあ良いじゃんか。やってないんだから」 二人の会話は、どこかで決定的に噛み合っていない。 無論、アイリスとしては自身の無実を証明したいのだから、ナデシコが信じてくれていることは安心すべきなのだろう。 だが、それでもなお理解できない。 なぜそこまで、素直――否、愚直なまでに他人を信じるのか、が。 アイリスの動揺を察したのか、ナデシコが付け足す。 「大丈夫、あんた殺してない。あんたは『嘘』ついてないもの。私ね、昔からそういうのは分かるんだ」 「でも、そんなの――」 なにも確証がない。 そう言いかけたアイリスに、さらにナデシコは続ける。 まっすぐ、強い眼差しのまま。 「いろんな『嘘』を見てきたからね。まぁ、そりゃあ私だってエスパーでもなけりゃあ、神様でもないから、何でもかんでも分かるわけじゃないけど。それでもこうして向き合って、話すりゃ、見えてくるものがあんの。あんたのそれは演技や計算なんかじゃない」 思わず、息をのんでしまうアイリス。 ナデシコの姿に再び、あの「ヴィジョン」が重なっていく。 渦巻き、無秩序に暴れ、そしてやがて収束していく「風」の束。 ボロボロのソファーに座る、シャツとジャージ姿のだらしない「探偵」。 その風体のすぐ後ろで、確かに「竜巻」がうねっている。 「なによりも『目』がそう言ってるよ。弱弱しくて、頼りなくて――でも必死だ。自分だけが知ってる『真実』を知ってほしい、ってね」 その一言で、アイリスの眼が潤む。 目を見開いたまま、突如沸き上がった感情に震えてしまう。 戸惑い、言葉を失うアイリスに、ナデシコは少しだけ身を乗り出して問いかける。 不敵で、実に意地悪な笑みを浮かべながら。 「ねえ、一つ提案があるんだ。さっきも言ったように、あんたを警察に受け渡したり、街に放り出したりなんてしないさ。落ち着くまで、しばらくはここにいればいい。だけどさ――ちょっとばかし、協力してくれないかな?」 「協力……私に?」 「そう。あの日、あの場所で何があったのか、知りたいんだ。何でもいい。あんたが見たことを、教えてほしいんだよ」 素直な善意ではないあたり、ナデシコ自身、自分のことを「調子の良いやつだ」と心の中で罵倒する。 どこまで言ってもナデシコは「探偵」である。 少女を守るだけでは、先に進めない。 彼女の中に隠れている「真実」への鍵を、手にしたいのである。 ナデシコの提案に、アイリスは実に困惑した表情を浮かべた。 両手を握りしめ、しばし目を伏せ、考えている。 急かすことはしない。 ただただ、アイリスが決断するのを待つ。 少女の表情、しぐさ、眼差し、まばたきの回数――そういうものを全て観察しながら、ただじっと耐える。 やがてアイリスは決意し、か細く、弱弱しい声で答えた。 「私……知らないの……何があったか」 「知らない? でも、あの場所にいたんでしょ」 「うん……だけど、分からないの。私、あの時――」 顔を上げるアイリス。 その大きな眼が、潤んでいるのが分かる。 底なしの悲しさが、幼い顔に覗く。 やがて告げられた言葉に、ナデシコの笑みも消えてしまう。 「覚えてない……なんであの場所にいたのか、記憶がないの」 乗り出した身が、自然とソファーに戻ってしまう。 少しだけ口を開いたまま、それでも少女にかける言葉が見つからない。 なんてこった――ナデシコが思っていたそれよりも、遥かに事件の内容は複雑で、そして怪奇らしい。 記憶を失い、殺人現場にいた黒いドレスの少女・アイリス。 彼女は嘘をついていない。 さっきから今まで、一度も。 だからこそ、分からない。 この少女が「何者なのか」が。 殺してはいない。 だけど分からない。 自分が殺したのかどうか、すら。 それが、逃げた理由か――自分が潔白だと証明することすらできない。 彼女はただ「信じたい」のだ。自身が黒ではない、と。 時刻は昼になろうとしていた。 ブラインドが下りたままの窓の隙間から、強い日差しが事務所の中に延びてくる。 光と影がまだら模様を作り、アイリスの体をぼんやりと浮かび上がらせる。 黒く美しい長髪、幼さの残る顔、華奢な体。 どれだけ彼女を見つめようとも、その奥底にある「真実」が見えてこない。 光か、闇か。 あるいはそのどちらもか――ナデシコは目の前に座る対極を宿す少女を見つめ、ただ力ないため息をつくことしかできなかった。
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