拳星 ― Knuckle Stars
23. きっかけは偶然に

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 店内に流れるクラシック音楽を遮るように、グラスの中でカランッと氷が音を立てた。  数分前に注文したアイスコーヒーは、すでに底をついてしまっている。  ナデシコは微かに溶けだした冷水で喉をうるおし、小さなため息を漏らしてしまった。  視線の先――テーブルの対面に座っているミハルは、手元のメモ帳に目を走らせ興奮している。 「いやぁ、本当、ありがとうございます! すっごい、参考になりました!!」 「ああ、いや、そんなそんな」  天真爛漫な笑みを浮かべるミハルに対し、困ったように苦笑を浮かべるナデシコ。 「私みたいなのに取材だなんて、そんなの役に立つのかい?」 「もちろんもちろんっ! 思い切ってお願いしてみて、良かったぁ。創作意欲が、むんむんと沸いてきましたよぉ!」  目をキラキラと輝かせるミハルに「そう」とたじろぐことしかできない。  高級中華料理店での一次会を終え、ナデシコとアイリス、そしてミハルらの三人だけは、ひっそりと“二次会”へと移行していた。  おごそかな雰囲気の高級店から一変、大通りに面したコーヒーショップ――かつてナデシコが聞き込みをした店で一服しながら、ミハルの“取材”に付きあうこととなってしまった。 「創作意欲、か。さすがは小説家ってところかねぇ」 「物語のネタはいくらあっても困りませんからねっ! 本当、お付き合いいただいて、ありがとうございましたぁ。ささやかですけど、ここは私がおごりますんで、ナデシコさんもお好きなものを頼んでくださいねっ!」 「い、いや、私はもう十分……」  言いつつ、ちらりと真横を見る。  おしとやかに座っているアイリスは、嬉しそうにラズベリータルトを食べていた。  器用にフォークを操り、丁寧に、かつ黙々と切り分けたタルトを口に運ぶ。  口の中で弾けるジャムの酸っぱさと、舌の上でなめらかに崩れていくクリームの甘さ。  それらが溶け合っていく数瞬を、実に楽しげに、深々と堪能している。  別段おかしなことではないのだが、既に満腹なナデシコからすると、どうにも胃もたれする光景だ。 「あんた……それ何皿目よ」 「え? ええっと、3かな?」 「だからさ、一体全体、どこに入ってるのよそれ。胃の中にブラックホールでもあるわけ?」  二人のやり取りを見て、くすくすと対面のミハルが笑う。 「いやぁ、本当に面白いコンビですねぇ。一見すると、とても探偵さん一同には見えませんもの」 「まぁ、よく言われるよ。そういう方が、逆にやりやすかったりもするんだけどね」 「へえええ! そんなメリットが!」  嬉しそうに、またもミハルはメモを書き足している。  テーブルに着いた時には白一色だったページが、ものの十数分で文字の群れに埋め尽くされてしまっていた。  一つ書き足す度、ミハルは嬉しそうに思考を巡らしている。  おそらく“取材”の内容を元に、既に頭の中で、新たな物語の構築が始まっているのだろう。  コーヒーで微かに喉を潤し、ナデシコはため息をついた。 「随分と楽しそうだねぇ、あんた。本当に今の仕事が好きなんだね」 「そりゃあ、もちろん! って言っても、まだまだ駆け出しですけどね。ほとんど、マネージャーのチセさんに任せっぱなしだし」 「そう? 握手会でも、随分と堂々としてたじゃあないのさ。あれだけ毅然きぜんと立ち振る舞えるんなら、大したもんだよ」  しかしこの一言で、ミハルの表情に少しだけ憂いが浮かんだ。  彼女の変化にアイリスも気付いたらしい。  タルトを食べ終え、じっと女流小説家を見つめる。 「そう――ですかね。でも、いっつも必死なんです……ステージに立ってる時は、もうそれこそ、勢いに任せて突っ走ってるって感じですよ」  それはなんとなく、ナデシコらにも分かってしまう。  トイレで自身を鼓舞していたあの姿を見ているから、なおさらだ。  ようやく、ミハルも少しだけ冷めたコーヒーに口を付けた。  砂糖やミルクを一切入れない深い苦みが、肉体を心地良く刺激してくれる。  店内のBGMが切り替わるのと、彼女が語り始めるのは同時だった。 「昔から、空想が好きだったんです。自分だけの主人公を作って、自分だけのヒロインや仲間を考えて。知らない世界で、まったく違う力を持った人達が戦っていく――そんな“物語”を作るのが、大好きだったんです。だからいつも、誰に見せるわけでもないのに、色々と頭の中に描いたものを形にしていたんですよ」 「へえ、凄いじゃないのさ。趣味でしっかりと食えていくようになったわけだ」 「もちろん、小説だけじゃあなくって、あくまで“雷帝”のキャラクターがあるから、っていうのもあるんですけどね。実はあれ、最初の一冊を発売したときの、講演会で出ちゃったキャラクターなんですよ」  椅子にだらしなくもたれかかり「ほお」と素直な感嘆の声を上げるナデシコ。  今度はアイリスが嬉しそうに声を上げる。 「知ってるよ。『ヴォルト・エンド・サーガ』が出た時の、あの“大演説”でしょう?」 「なんだい、その“大演説”って?」 「“雷帝”がデビューを飾った、伝説のイベントだよ! 小説の授賞式だったんだけど、“雷帝”の勢いに司会者が押されちゃったんだ。それがネットとかに広まって、一気に注目されるようになったの」  思わぬ補足に、またも「ほお」と唸る。  ナデシコよりもアイリスのほうが、読書という領域においては知見があるのだろう。  少女の言葉に、ミハルはどこか困ったように笑っていた。 「思い返しても、恥ずかしいですねぇ……あの時、本当はきっちり喋る内容を覚えてきたはずなのに、いざマイクを渡されたら、緊張で全部飛んじゃったんですよ。頭が真っ白になって『どうにかしなきゃ』って思ったら、あとは勢いに任せて……って感じです」  その奇妙な偶然こそ“雷帝”たるキャラクターが産まれるきっかけとなったのだろう。  思いがけない経緯を聞き、ナデシコは笑う。 「人生、何が役に立つか分かんないもんだね。追い詰められたときの突破力ってやつかな」 「自分でもあの時、何を喋ったか覚えてないくらいなんですよ。情けないですけどねぇ」  ミハルは手帳を閉じ、再びコーヒーを口にした。  うっすらと浮かんだ笑みの裏側に、なぜだか微かに物悲しい色が見える。  その理由は、彼女の次の言葉ですぐに分かった。 「なかには『邪道だ』って意見もあるんです。小説家はあくまで小説――文章で勝負するものだから、って。キャラクターで自分を売ってる“ペテン師”だって言葉も、ちらほらとあったりで。だからきっと、私のことを良く思わない人もいると思って」  唐突な告白に、ナデシコは口元に手を当てる。 「なるほど、ね。だから今回の件が気になってるってことか。例の“ストーカー”が、自分を恨む誰かなんじゃあないか、って」 「はい。もちろん私は小説を書くのが大好きだし、一つ一つの物語を全力で描いているつもりです。だけど、そんな気持ちが伝わらない人もきっといる。一時期、“雷帝”なんてキャラクターを、辞めようかとも考えました。でもチセさんにすごい説得されて」 「あの、マネージャーの?」 「ええ。『小説家としてのミハル、雷帝としてのミハル。どちらもそれは、あなた自身なんだから、隠す必要なんてない』って。そんなこと言われたの初めてだったから、嬉しかったんです」 「へえ。あのマネージャーさん、意外と熱血漢じゃあないのさ。几帳面な“いかにも”な印象だったけど、人は見かけによらないね」  笑うナデシコに、苦笑するミハル。  二人の隣で、今度はアイリスが声を上げる。 「“邪道”なんかじゃあないよ。私、“雷帝”を見たとき、凄い格好良いって思ったもの。私もあの“大演説”を見て、ミハルさんの本を読んで、色んな感動を貰えたんだから」  いつものアイリスに比べると、実に熱のこもった言葉だった。  彼女は毅然きぜんと前を見つめ、思いをミハルに伝えている。 「ありがとうございます。そう言っていただけると、作者としては感無量ですよ」 「ミハルさんの姿も、物語も、たくさんの人に“夢”を与えてる。形がどうとか、そんなの関係ない……皆にとって“雷帝”は憧れで、それってすごい立派なことだと思います!」  いつに増して熱い少女の姿にたじろぐも、ナデシコはあくまで笑みを浮かべていた。 「良いこと言うじゃんか、私もその通りだと思うよ。どんな形だろうが姿だろうが、誰かの“希望”になれてるんなら、大したもんさ」 「そ、そこまで言われると、なんだか恥ずかしくなっちゃいますね……あははは……」  顔を赤らめ、困ったように頭をかくミハル。  アイリスは真剣な眼差しを少し落とし、手元のコーヒーカップを見つめ、続ける。 「きっと“雷帝”は――その“物語”は皆が楽しめるべきものなんです。それを“管理”するなんて、誰であろうとやっていいはずがないよ……」  少女が抱いた静かな怒りに、ナデシコ、そしてミハルも息を呑む。  それはきっと、今回の事件――“雷帝”に迫るストーカーの件について、怒っているのだ。  “雷帝”の管理者。  どこかの誰かが送り付けてきた言葉が、一同の心を妙にざわつかせる。  アイリスの眼差しに宿った、熱く、硬い決意を受け、ナデシコは残ったコーヒーを飲み干した。  ぬるくなってしまった苦みが、舌の上に微かな重みを残し、肉体へと染みこんだ。

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