拳星 ― Knuckle Stars
2. 昼下がりの探偵

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 カウンターに座る老婆は、手元に戻ってきた愛用のバッグを大事に抱え、また優しく笑った。 「本当にありがとうねぇ、ナデシコちゃん。もう戻ってこないかと思って、心配だったのよぉ」  向かい側に座り、湯呑の緑茶を冷ましながらナデシコも笑顔で返す。  毎度のことだが、老婆の出すお茶はナデシコにとってはちょっと熱すぎる。  とはいえ文句は言わず、必死に息を吹きかけて冷ましていた。 「良かった良かった。本当はもっと綺麗な状態で取り戻したかったんだけどね。あいつら、乱暴に扱いやがってさ」 「そんな、いいんだよぉ。こうして元に戻ってきてくれただけでも、ありがたいことさぁ」  その嬉しそうな姿に、ナデシコも「そっかぁ」と自然と歯を見せて笑った。  なんでも、亡き夫が買ってくれた思い出の品らしい。  決して高価な品ではないが、老婆にとっては思い出の詰まった特別な物なのである。 「それに、ナデシコちゃんが心配だったんだよ。悪い人達に、怖い目にあわされてるんじゃないかって。だから慌てちゃってね」  警察に通報してくれたのは、バッグをひったくられたこの老婆だった。  おかげさまで悪漢達を逃がすことなく捕縛できたのは、ナデシコにとっても好都合だったのである。  緑茶を少し口にするが、やはりまだまだ熱い。  諦めて横に出された茶菓子を一つ、口に放り込む。  この和菓子店の名物・かりんとう饅頭は、何度食べても絶妙な歯ごたえと甘さだ。 「平気平気。あの程度、100人来たって大丈夫だよ。口ばっか悪いだけで、本当、素人も良いところ。汗もかかなかったよ」  あっけらかんとしてるナデシコに、老婆は「まあまあ」と驚く。 「本当に、びっくりしちゃうよぉ。女の子なのに、そこらの男よりも腕っぷしが強いなんてねぇ」 「ああいう脳味噌まで筋肉でできてるような奴らは、ぶっ叩くに限るよ。言葉通じないからね」  けらけらと笑うナデシコに、老婆も苦笑で返した。  ようやく飲める温度になった緑茶を、一気に飲み干す。  熱い吐息と共に、ナデシコは立ち上がった。 「何か困ったことあったら、また言ってね。おばあちゃん、体には気を付けるんだよ」  緑茶と和菓子の礼を告げ、店を出ていくナデシコ。  その快活な笑みに、老婆も「はいよぉ」と優しく笑い返した。  照り付ける昼過ぎの太陽を浴びながら、ポケットに手を入れて歩き出す。  商店街を行く人々が、ナデシコを見るたびに笑顔を浮かべて一言投げかけてくる。 「よお、大捕り物だったな。怪我してないかい、嬢ちゃん」 「ナデシコちゃん、ありがとうね。あのひったくりには私達もびくびくしてたから、これで安心して過ごせるわよ」 「困ったらいつでも来なよ。俺らでも力になれるなら、協力するぜぇ」  それらに一つ一つ、笑顔で返すナデシコ。  陽気に笑う彼女の姿に、商店街の人々が沸き立つ。  ここに生きる「弱き民」にとって、ジャンパーを着たこの不敵な少女の姿は、一つの希望なのだ。  さて、どうするかなと――自身の携帯端末を見て、この後の予定がまるでないことに気付く。  画面上に映る真っ白なカレンダーを見ていると、力が抜けてしまった。  元々、何に縛られるでもない自由気ままな身だ。  だからこそ、こういう時は素直に自分自身の肉体に問いかけてみる。  そして、まずは「腹が減った」という事実が、まず浮かび上がってきた。  思い返せば、朝から何も食べていない。  そのうえで、延々とひったくりとの追跡劇を繰り広げていたのだから、しかたもないだろう。  意識した途端、胃がきゅうきゅうと締め付けられるような、耐えがたい感覚に襲われる。  しかしながら、気軽にどこかで腹ごしらえ、ともいかない。  ポケットから愛用の財布を取り出し、中を確認してみる。  ボロボロの貧相な革財布にはまるで厚みなどなく、安い紙幣数枚にわずかばかりの硬貨がはさまっているだけだ。  半ば分かってはいてもため息が漏れてしまう。  仕事がないことには慣れていても、極貧生活はどうにも堪える。  安いパンかなにかで飢えを凌ごうか――力なく肩を落とすナデシコの背を、聞き覚えのある声が叩いた。 「いけてない顔を見ると、相変わらず稼げてなさそうね。名探偵さん」  慌てて振り返ると、すぐ背後にスーツ姿の女性が立っていた。  ブロンドの髪を束ねあげ、銀縁眼鏡をかけた知的そうな女性である。  ナデシコの顔を見て、薄いリップをまとった唇が微かに笑っていた。  ともすれば、声をかけることをためらってしまうほどの、研ぎ澄まされた美貌。  しかしながら、ナデシコは顔なじみの彼女に向かって、満面の笑みを浮かべた。  年齢も、背丈も、身に着けている衣服の質も、何もかもナデシコとは違う。  それでもナデシコは目の前の女刑事・ユカリに向けて笑った。 「姐さんじゃんか、お勤めご苦労さん! なに、お昼休み?」 「そんなところよ。ひったくり常習犯達を検挙した帰り。あなたが叩き伏せた、ね?」  その一言に、目を丸くして驚くナデシコ。 「おお、さすが天下の警察。情報が早いねえ」 「ここらであんな芸当ができるのは、あなたくらいしかいないでしょ。それに、商店街の人達が口々に教えてくれたわよ。あなたの武勇伝を」 「なんだぁ、そういうことなのね」  納得したナデシコの顔は、どこか嬉しそうに綻んでいる。  だが、対する女刑事は彼女を見てため息をつく。 「そんな商店街の英雄が、金欠で節約生活だなんて、情けないわね」 「た、たまたまだよ、こんなの。偶然、出費が重なっちゃってさぁ」  これまた、相変わらずの使い古された言い訳に、別段、女刑事は言及しない。  ただ、率直に本題に移った。 「私もこれから、遅れて昼休憩なのよ。どう、一緒に?」 「え、それはその、つまるところ――」 「はいはい。奢ってあげるわよ、それくらい」  歓喜の声をあげるナデシコを、道ゆく人々が驚いて振り向く。  感情豊かなその子供のような姿に、また一つ女刑事はため息をついた。 「だからって、高いもの頼むんじゃないわよ。私だって節約してるんだから」 「分かってるってぇ、そんなの。ほら、行こう行こう!」  先程までの淀んだ表情から一変、キラキラした眼差しで歩き出すナデシコ。  その背中を見て、女刑事は眼鏡を掛け直す。  本当、変わった探偵がいたものだ。  意気揚々と歩き出したスニーカーに、ハイヒールの鋭い音が続いていく。

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