教室で祈りを
ニワトリさん日記①

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 白原和志しらはらかずしはコンロに火をつけた。冷凍ご飯が電子レンジの中でぐるぐる回っているのを横目に、お玉で鍋を軽く混ぜる。一つ、深いため息をついた。中学生になった娘が作った夕飯を温めて一人で食べるのに慣れたつもりでもふとした瞬間に虚しさを感じる。  「父さん、今時間ある?」 「どうした? ご飯食べながらでいいなら空いてるけど」 とうに夕飯をすましたであろう娘の千夏ちなつが、一枚の紙とペンを持って和志の隣で立ち止まった。湯気を立て始めた鍋の中身をじっと見る。 「別にいいよ。大した話じゃないし。親の職業についてインタビューしてしてくるって宿題が出ただけだから」 「職業体験の事前学習か? 随分早いな」 この地域の中学二年生は、五日間、地域の小売店や農家、病院で職業体験をすることになっている。体験は夏休み明けに行われるが、事前学習に相当力を入れるらしい。まだ六月の頭で、梅雨にも入っていない季節だ。 「なんでわかったの?」 「春人はるともやってたから」 上の息子の名前を出すと千夏は納得した。和志は火を止め、スープを器によそう。タイミングよく電子レンジが音をたてた。  和志が食卓に着くと千夏は和志の正面の椅子に座った。 「じゃあはじめていい?」 「いいよ」 「まず職業から。今学校で教えてるのって地理だよね。じゃあ地理の先生」 「いや、先生じゃなくて教員」和志の訂正に千夏の手が止まる。 「違いがあるの?」 「父さんの個人的なこだわり」 千夏は納得していないような様子で、消しゴムで文字を消して「地理の教員」と書き直した。 「質問一個目。この職業にはどうやってなるんですか?」 「大学で教員免許を取って採用試験に合格すればなれるよ」 千夏は中学生の女子らしい丸みを帯びた字で書いた。筆圧の薄さが気になるが指摘はしないでおく。 「次、どんな人がこの職業に向いていますか」 書き終えた千夏は、プリントに書いてある質問をそのまま読み上げた。 「勉強熱心な人だな。地理は特に。世界はだんだん変化していくから、その変化を追っていけるような人じゃないと厳しいな」 「じゃあ私はだめだな。勉強嫌いだし」 「大学に入ったら勉強が楽しくなるかもしれないぞ?」 「私は父さんや春人みたいに勉強を楽しめる人種じゃないの」 紙とペンが擦れる音がする。千夏はプリントを書きやすいように上にずらした。 「次、この仕事のやりがいは?」 「やりがいねえ……」和志は手のひらを首にあてて苦笑いをする。教員はやりがいの搾取なんて称される職業だ。過労死を余裕で超える長時間労働。その証拠に家族団欒すらままならず、娘に夕食を作るどころか娘が作った夕食を食べるというちぐはぐな食卓が生まれてしまう。 「生徒たちの笑顔を見れるのは特権だと思うなあ。授業がわかりやすいって言われるのは純粋に嬉しいし」 「へえ」千夏はプリントから視線を離さずにペンを走らせる。娘の笑顔を最後に見たのはいつだろう、と思って、一呼吸おいてからぞっとする。 「最後の質問。逆にこの仕事の大変なところは?」 「授業以外にもやることが多いんだ。保護者の対応とか、部活とか。あと、教壇に立ったら誰も助けてくれないことかな。教員一年目は授業のたびに緊張してた」 「学校の先生も大変なんだね」千夏は箇条書きで和志の発言をメモした。 「それに──」 和志は少し間を開けてから口を開いた。 「教育は祈りだよ」 「祈り?」千夏は初めて顔を上げて和志の顔を見た。怪訝な視線を感じる。 「難しい話になるかもしれないけど、教育って、祈りなんだよ。どれだけ教員が生徒に語りかけても、その言葉が本当に通じるかわからない。賭けみたいなもんだよ。それでも教壇に立たなきゃいけないのは大変だなって思うよ。まあ、『祈り』って言葉は受け売りなんだけどね」 千夏は和志の言葉に首をかしげた。ペンは動かない。この言葉を書いて、他の生徒に質問されたら上手に説明できないと思ったのだろう。 「それ、誰が言ったの?」 「|百華《ももか─千夏の母さんだよ」 千夏は驚いたように瞬きを繰り返した。それから、再び「へえ……」と呟く。 「母さんが中学校の先生だったのは覚えてる?」 千夏は頷く。千夏は視線を彷徨わせた後、「ずっと聞こうか迷ってたけど」と切り出した。 「父さんが嫌だったら無理にとは言わないんだけどさ、母さんに何があったのか教えてほしい。何があったか当時はよくわからなかったしあんまり覚えてないんだ」 百華が亡くしてから七年経った。和志がしばらく黙っていると、 「いや、無理にとは言わないから。思い付きだから、ほんとに」 千夏がペンの握る手に力を込めた。娘の大人びた表情を素直に喜べないのはなぜだろう。 「母さんが亡くなってからちゃんと何があったか説明してなかったんだなって、ちょっと反省した。聞きにくい話だもんな」 千夏はぎこちなく頷いた。 「いいよ。父さんは全部知ってるわけじゃないんだけど、説明できることはちゃんとするから」 和志は佇まいを直した。それにつられて、千夏の背筋が伸びる。 「母さんのクラスの生徒が自殺しちゃって、それが結構大きな問題になってしまってね。自殺した生徒の写真とか、逆にいじめた側の個人情報がネットに流出して、学校が結構荒れてしまったんだ。母さんは自殺した生徒の話を一番知っていたから、対応に追われちゃって。過労とストレスで亡くなった」 「それはなんとなく覚えてる。しばらく一人で寝られなかった」 「それは覚えてるんだな」 「うん。私が知りたいのはその前の話。そのいじめってなに?」 「そうだなあ」と和志は頭をがしがしと書いた。当時を思い出すと胸に重石を乗せられたような気分になる。 「まずネットで起こった話をもう少し詳しくしなきゃいけないな。その……自殺した生徒の写真がばらまかれたんだ。集合写真とかじゃなくて、いじめられてた写真。かなりひどいいじめを受けてたみたいで、その写真が自殺した後ネットに流されたんだ。その写真を投稿した人はいじめとは無関係で、何があったかを世間に伝えるためにって、その理由だけで写真を投稿したんだ。その投稿は見れないようになったけど、そんな日がずっと続いて母さんの体が耐えられなかったんだろうな。あの日のこと覚えてるだろ」 「そうだったんだ」 千夏は少し落ち込んだ声で言った。 「理科室の幽霊の話、本当に母さんと関係あったんだ」 「理科室の幽霊? どういうことだ?」 「三津橋中学校の四大不思議があるんだ。そのうちの一つが、自殺した生徒と、その担任の霊が理科室に出るって話。それって絶対母さんのクラスの生徒の人でしょ? 母さんと関係あるんだろうなって思ってたけど確証はなかったからさ」 三津橋中学校は千夏が通っている学校で、百華の勤務先でもあった。いじめによる自殺が起こった学校と言い換えることもできる。 「多分そうだろうな。その生徒がモチーフになったと思う。母さんは理科の教員だったからそこも関係あるんだろうな」 学校の怪談話は小学校で卒業するものだと思っていたが、中学校でもあるのかと和志は意外に思った。しかし、実際に自分が通う中学校でいじめ自殺があったなら話に背ひれ尾ひれがついても不思議でない。七年という時間は中学生にとって近くはないが、生まれる前の話ではない。好奇心をくすぐるのだろう。 「なんか嫌なこと言われたらすぐに父さんに相談するんだぞ」 和志は真面目なトーンで千夏に言ったが和志の心配は上手く伝わらなかったらしい。 「父さんは心配性だよ。大丈夫。美術部のみんなで四大不思議をモチーフに作品を作ろうって話になっただけだよ。クラスのみんなが噂してるわけじゃない。内輪ネタだよ」 千夏は立ちあがってプリントとペンを持った。 「母さんの話聞かせてくれてありがとう。それじゃあ私は部屋に戻るから」 「なあ」自分の部屋に戻ろうとする千夏を引きとめた。千夏は振り向いく。 「嫌なら別に言わなくていいんだけどさ、千夏は母さんのことどれくらい覚えてるんだ?」 千夏は斜め上を見て考えた。千夏のそのしぐさを見て和志はすぐに後悔した。雰囲気があまりにも百華に似ていたからだった。 「卵スープ」 千夏は今日の夕食に出てきた料理を口にした。 「スープをおたまで時計回りに混ぜてから、溶いた卵を反時計回りに入れると卵がふわふわになるんだよね」 千夏が困ったように笑う。 「でも母さんがどんな声で教えてくれたのか、ごめん、もう覚えてないんだ」 千夏はリビングを後にした。和志はその背名を見送ってから、立ちあがった。空になった器をシンクにおいて水を流す。蛇口から流れた水が手の甲を流れ、指先からシンクへ滑り落ちていく。ゆっくり目を伏せると聴覚と触覚が無意識に研ぎ澄まされる。 「千夏の声のそっくりだよ」と言わなかったのが娘にとって正しかったのか、和志にはわからなかった。 

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