造花のうた
第四話 冬の子どもたち(4)

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 美術展が終わった十一月四日、冬子は十六歳の誕生日を迎えました。昔から私たちは互いの誕生日にプレゼントを渡し合うのが習慣になっていて、その年、私は坂吾通りの雑貨屋で見かけたとんぼ玉の根付を贈ることに決めました。多少は私の趣味も入っていましたが、冬子も可愛い物は好きなのです。  冬子は手渡した袋を開封すると、桜模様が施されたそれをしげしげと眺めました。そして、短く礼を言ったあと、決まり悪げにこう尋ねてきたのです。 「でも、どうやって使えばいいかな?」  単純に冬子が喜ぶ顔を想像していた私はその問いかけにすぐには答えられませんでした。 「着物の帯飾りにしたり……でも、冬子は普段着物を着ないよね。あとはカバンに付けたりとか」  冬子は「じゃあそうする」と翌日にはバッグに付けて登校してくれました。事件が起きたのはさらに翌日、冬子の誕生日から二日後のことでした。  薄い雲が空を覆う寂しげな朝だったと記憶しています。普段どおりに登校して下駄箱から上履きを取り出そうとしたときでした。美術部顧問の新里先生が慌てた様子で玄関に現れ、すぐに美術室に来て欲しいと仰ったのです。  新里先生は二十代半ばの男性教師です。まだお若いのに、私たちが居残って作業をしたいと言えば何時間でも付き合ってくださり、それでいて不平一つ仰らないような方でした。生徒の冗談に同じ目線で笑い、からかえば大袈裟に狼狽して見せる。そんな対応ができるところを含めて大人な方だったと思います。私たちは新里先生のことを齢の離れた兄のように親しみを感じていました。  私は新里先生に何があったのか尋ねましたが、とにかく急いでくれ、他の部員も集まっているからと手を引っ張られました。  異変には、特別教室棟に上がってすぐに気が付きました。美術室の前の廊下に窓ガラスの破片が散乱していたからです。割れた窓から室内を覗けば冬子を含む部員全員と教頭先生がいらっしゃいました。私と同じく登校途中に直接呼び出された人もたくさんいたようです。学校指定のバッグが机や足元にいくつか無造作に置かれているのが目に付きました。  皆の顔は一様に青ざめていました。ですが、私もすぐに同じ顔色になっていたはずです。理由は一目瞭然でした。  美術室が、ひどく荒らされていたのです。  棚から落ちた石膏像が割れた頭部を哀れに曝していました。モチーフにしていた愛らしい花瓶が床の上で破片を撒き散らしていました。牛骨は打ち捨てられ、乾燥棚は引き倒されていました。まるで巨大な地震や台風に見舞われたような、そんな有様でした。 「こっちもだ。来てくれ」  先生に連れられ準備室へ入るとそこもまた惨憺たるものでした。先生が使っていた机やロッカーは開け放しにされ空き巣にでも入られたかのようです。棚にある道具類も美術室と同じようにされていましたが、取り分け乱雑に投げ捨てられた幾枚かのキャンバスが目を引きました。準備室に保管していた、仕上がった作品たちです。私はキャンバスの一枚に駆け寄りました。 「……ひどい」  西原先輩の作品だったと思います。先輩のお婆さまを描いた絵画が鋭利なものでズタズタに切り刻まれていたのです。画布が、裂けた皮膚のようにぺらりと垂れ下がっていました。他にも、月見里部長や中山さんの作品、柚木崎さんの作品。状態は一様ではありませんが、いずれのキャンバスも何らかの形で疵を付けられていました。そして、私のものも。  私が学校に残していたのは一枚だけで冬子の立ち姿を描いたものでした。当時の美術部では部員から一人モデルを選んでクロッキー……対象を素早く描くことをそう言いますが、そのクロッキーを行うことがよくありました。モデルは一年生で回していて、私も何度か皆さんの前に立ったことがあります。冬子がモデルになると西原先輩が『柊は表情が動かないから面白くない』と口をとがらせるのですが、私から見れば冬子が照れているだけだということがよく分かりました。私が笑いを堪えていると冬子はポーズを取ったままじろりと睨んできます。でも、その様子がまた可笑しくて笑いそうになるんです。私はクロッキーの中から気に入った一枚を選びタブローに仕上げました。冬子は『私はそんな顔してない』と素っ気なく言うのですが、やはり私には照れているだけだと分かりました。そうやって描いた冬子の姿が、顔が、爪を突き立てられたようにぱっくりと切り裂かれていたのです。唇が震えました。十六年生きてきた中でそれほどまでに露骨な悪意を向けられたことは一度もありませんでした。何より、冬子との思い出が喪われてしまったようで、自分の胸まで切り裂かれるように痛みました。  美術室へ戻ると誰もがうつむいて一言も発しませんでしたが、ややあって西原先輩が新里先生に尋ねました。 「いつからこうなってたんですか」  先生はびくりと肩を振るわせました。まるで教師と生徒の立場が入れ替わったように。 「俺が、今朝覗いたときにはもうこうなっていた。恐らくは夜のうちに」 「昨日、最後まで居残ってたのは」 「……私です」  震える手を挙げたのは中山さんです。 「そこにある花の絵を仕上げていて……」  西原先輩の鋭い目が彼女を射抜きました。 「他の教室で残ってた部は?」 「私が最後です。他の教室の灯りは全て消えていました。特別教室棟から本校舎に行くまでの間にも誰かを見たとかそういうことはありません」 「ふうん? ま、隠れられるとこなんていくらでもあるしね」  特別教室棟で施錠されるのは玄関のみで各教室に鍵はかけられていません。教室の灯りさえ消しておけば誰もいないように見せかけることもできる。西原先輩はそういうことを仰りたかったのだと思います。 「だが、新里先生。警報装置はどうなってたんだ?」  尋ねたのは教頭先生です。西高は校舎の警備を全て機械に任せています。人のいない夜間は警報システムが作動していてセンサーに引っかかるものがあれば警備会社に通報される仕組みになっています。特別教室棟で活動している部は、各教室に残った最後の生徒が、顧問ないし他の部の顧問に全員の下校を報告することが義務付けられていました。 「……昨晩は私一人が職員室で残業をしておりました。8時半頃に中山さんから下校の報告を受けたあと特別教室棟の施錠に出向き、本校舎に戻ってからシステムのスイッチを……。ですが」 「何だ」 「……副担任の業務が溜まっていたものですから、その、特別教室棟へ行くまでに三十分、いや、四十分ほど時間が……」 「馬鹿かお前は!」  新里先生が上擦った声を上げました。 「何のための警備システムだ! 生徒の下校を確認したエリアから順次システムを作動させる! マニュアルにもそう書いてあるだろうが!」 「申し訳ありませんっ」 「見回りは!? 中は確認しなかったのか!」 「外から目視で確認するのみで……。まさか、ここでこのようなことが起こるとは思いもしなかったのです」 「お前の認識なんぞどうでもいい! 被害はこれだけなのか? 何か盗られたりはしてないのか!?」 「い、いえ! 実は」  新里先生が、部費がなくなっていたことを切り出すと教頭先生はさらに怒りを爆発させました。部費は準備室のロッカーに保管されていて、鍵は同じく準備室にある先生の机の引き出し、その奥に置いてありました。 「じゃあ、これって泥棒の仕業ってこと?」 「そう、なるのかな……?」 「でもさ、ただお金を盗るためだけにこんなことする……?」 「わかんない。部費を盗るついでに遊び半分でやったのかも」  雀のような囁き声が次第に美術室を満たしていきました。騒がしくなるでもなく、かと言って静かに控えるでもなく。上から布を被せたような喧騒の中、ひときわ通る声を発したのは姫川先輩でした。 「お金が欲しい奴がわざわざこんなとこ入ったりしないでしょ。ここって特別教室棟でも三階の奥の奥だよ? 空き巣やるなら下にいくらでも入りやすい教室があるじゃん」 「じゃあやっぱり犯人は美術室を荒らすのが目的だったってことですか?」 「あたしはそう思うけどね。部屋を荒らしたのも部費を盗んだのも全部ウチらを困らせるため。ったくあたしの彫刻どうしてくれんのよ……。誰か身に覚えないの? 人の恨みを買ったような覚え。サチ、あんたこの前彼氏と別れたって言ってたよね。それとも神坂? あることないこと色々言い触らしてるらしいじゃん」  姫川先輩が口火を切ると皆が次々に憶測を立て始めました。友達の好きな男子と親しく話しているところをその子に見られたとか、女子グループのリーダーに生意気な態度を取ってしまったとか、ほとんどは美術部とは無関係な些細な話ばかりです。でも、皆気持ちが昂ぶっているようでした。一人が心当たりを口にすれば一人が大袈裟に反応し、違う誰かに向けてまた自分の体験を披露する。ときに不安を、ときに怒りを織り交ぜながら語るのですが、私には皆がどこかその状況を楽しんでいるようにも見えました。教頭先生が静かにするよう仰っても誰も聞く耳を持ちません。ですが、それも最初のうちだけでした。あるいは当然の流れだったのかも知れませんが、めいめいに考えを述べるだけでも、自然と結論が収束しつつあることに皆気が付き始めたのです。室内にまとわりつくような空気が漂い始めた頃、西原先輩がはっきりと告げました。 「ねえ、これってさ、私たちの中に犯人がいるんじゃない?」

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません