柊冬子。霧代西高二年。美術部部長にして唯一のまともな部員。名は体を表すとの言葉どおり周囲との温度が数度は違っていそうな女。無表情。冷血。自分勝手。初対面で抱いた印象は今でもさして変わらない。今もまたそこにしか居場所がないようにキャンバスの前に座っている。でも、それが冬子先輩の全てではないことを俺は知っている。意外とお喋りが好きなことを知っている。ちょっと得意気にうんちくを語ることを知っている。面倒見が良くて優しい一面があることを知っている。先輩もまた悩み苦しむ一人の女の子であることを知っている。そして、誰よりも強い人であることを俺は知っている。 キャンバスには女性の全身像が描かれていた。冬子先輩の幼馴染。親友であり妹のように想っているひと。その微笑み。夕陽に彩られた彼女はとても優しくて、きっと記憶のままの姿をしている。 その記憶が、思い出が、先輩自らの手によって塗り潰されようとしていた。画布を撫でる音がざらざらと耳障りだった。 刑務所のようだと先輩は言った。特別教室棟はまるで牢獄だと。ならばこれは先輩に科せられた罰なのだろうか。一体、何の罪で? 「突っ立ってないで入ってきたらどうだ」 先輩の横顔が話しかけてきた。俺はドアに手を添えたまま質問を返す。 「その絵、どうするんですか」 「やめる。これ以上続けても無駄だ。描きたいものは描けない」 「捨てるんですか」 「油絵は展色材に乾性油を使っている。顔料と練られた乾性油は酸素を吸収しながら樹脂状の硬い皮膜を作って…………なんでもいい。上書きができるんだよ油絵は。描き直すかどうかは、まだ決めていない」 上書きができる。既にあるものを覆い隠すことができる。単なる偶然だろうか。 「去年、先輩はそれと同じことをしたんじゃないですか」 「? 何の話だ」 ずっとキャンバスしか見ていなかったからだろう。先輩は筆を止め、初めてそれに気が付いた。 「お前、それ」 俺は反応の薄さを少し残念に思いながら、それを手に取り美術室へ入った。 「こんなでかいもん抱えて楽しくハイキングさせられる身にもなってくださいよ。持ちにくいんすよ、これ」 座る先輩の足元にキャンバスを置いた。 「これ、先輩の絵でしょ」 昼なのか、夜なのかもわからない暗い牢獄。光を拒絶しうずくまる痩せ枯れた女。腕の傷。滴る赤い血。薔薇の花。観る者に世界の現実を突きつけるかのような、耐えがたく息苦しい描写。冬子先輩は絵画『薔薇を抱く女』に手を添えた。 「これで任務完了ですね。大分遅くなっちまいましたが」 「……遅すぎるくらいだ」 違いない。気付くタイミングはいくらでもあった。それこそ小春さんに絵を預けたとき、彼女の口から持ち主を教わる可能性が最も高かったはずだ。でも、作者が冬子先輩だと分かったのは去年の事件を聞かされたあとだった。 『薔薇を抱く女』は素人が描いた作品ではない。それがゆいちゃんの見立てだった。授業で描かれたのでなければ美術部の誰かの作品ということになるが、部員の作品は去年の事件でいずれも疵を付けられている。また、小春さんも見たことがないのだから『薔薇を抱く女』は彼女が転校したあとに描かれたものということになる。そして、事件後、美術部に残った部員は冬子先輩一人しかいない。 「大体、先輩が小春さんの絵を見間違うはずないでしょ」 先輩は意図して俺を運び屋に仕立て上げたのだ。小春さんと仲違いしている自分では彼女に会うことはできない。だから自らの作品を小春さんのものと偽り、間抜けな後輩に運ばせることにした。 「見て貰いたかったんですか。小春さんに」 先輩は手元に戻ってきた自身の絵を、本当に他人のものであるかのように見下ろしていた。 「お前には関係ない」 「それなら」 と返したのは俺ではない。声は俺の背後、美術室の入口からだった。 「私には関係あるよね」 「のどか……」 今度こそ先輩の目が驚愕に揺れた。無理もない。ここは西高の美術室だ。いくら元生徒言えども部外者が立ち入ることは許されない。禁を犯して連れてきたのは俺だ。西高の制服を着て貰ってはいるが、小春さんの外見はどうしても目立つ。見る人が見れば一目で彼女と分かるだろう。特別教室棟に入るまでも相当に神経を使った。 冬子先輩が俺たちを、取り分け俺を睨みつける。でも、前回のように走って逃げようとはしなかった。出入り口付近を俺と小春さんが塞いでいるのだから当然だが。見方によれば俺たち二人で先輩を追い詰める形になってしまっている。先輩は憮然として言った。 「ご苦労なことだな。それで、どうする。お前たちで私の絵を論評してくれるのか?」 「まさか。話を聞いて欲しいだけです」 「今さら何を話すことがある。嫉妬に狂ってこいつの絵を切り刻んだことを謝罪しろとでも」 「冬子」 言葉こそ刺々しかったが態度は淡泊だった。今の俺にはその棘すらどこまで本物なのか分からない。 「先輩、去年のことは小春さんから聞きました」 「だろうな」 先輩は『薔薇を抱く女』を持ち上げ、机に寝かせた。 「その絵が先輩のものだということもそれで気が付きました。でも……全く同じ理由で、先輩の嘘にも気が付いたんです」 「……嘘?」 問い返す調子が含まれていた。先輩には嘘を吐いたという認識はないのかも知れない。俺もその言葉が適切かどうかは分からなかった。でもニュアンスは伝わるはずだ。事実、伝わったのだと思う。少しして先輩は動きを止めた。俺は言葉を重ねる。 「この前返した根付はありますか?」 「……あれがどうしたと言うんだ」 「なければないで構いません。確認したいのは時系列です。先輩は準備室を荒らした際に二つあるとんぼ玉のうち、一つを机の角に引っかけて床に落としてしまった。その後、根元の部分も嵐山さんとぶつかったときに失くしてしまった。間違いないですね?」 冬子先輩は肯定も否定もしない。 「なら、それはいつだったんでしょう? 素直に考えれば、少なくとも事件が発覚した十一月六日以降ということになる。時刻は夜の8時半頃。でも、発覚した日はもちろん、その日以降も美術部は一か月間の活動停止を命じられている。活動が許可されていないのにどうして先輩は夜の8時なんて遅い時間まで学校に居残っていたんです?」 「そんな日もあるだろう。別に部活がなければ居残っちゃいけない決まりなんてあるまい」 「……あるよ。用のない生徒は速やかに下校するよう校則に定められてた、と思う」 小春さんが控えめに言った。あるのか。俺も知らなかった。 「まあ、そこは問題じゃない。仰るとおりです。部活以外で居残ることだってあるかも知れない。だから確かめたんです。先輩があの根付をいつ落としたのか。……先輩、嵐山さんはこう言っていました。根付を拾ったのは十一月の上旬、祝日の翌日か、その次ぐらい。小春さん、十一月上旬の祝日って何の日か覚えてますか」 「待て」 先輩は答えを遮った。 「それは全て嵐山とかいう男の証言だろう。半年も経てば記憶も薄れる。信憑性がない」 「霧代美術展もその日に合わせて開催されるんでしょう? 趣旨からしても当然だ。嵐山さんは去年も美術展に出展していた。だからある程度日付を覚えていた」 「証拠がないと言っているんだ」 「いえ、先輩。証拠はあるんです。誰の目にも明らかな、客観的な証拠が」 「……どうして。あの男の証言以外に記録なんて」 怪訝な目で言いかけて、はっと気付く。 「画像データか」 俺はこくりと頷いた。 「先輩とぶつかったあの日、嵐山さんはただ散歩をしていたわけじゃない。歩きながら写真を撮影していたんです。当然デジカメだ。写真を撮ればデータが残る。データには撮影日が記録されている。それがいつの日だったか、先輩には言わなくても分かりますね?」 振り返って小春さんに問いかける。 「事件が発覚した朝、冬子先輩は美術室にカバンを持ち込んでいたと言いましたね」 「……ええ」 「でも、カバンに根付は付いていたんでしょうか?」 「え?」 「ちゃんと確認しましたか? カバンに根付が付いていたのか」 小春さんは口元に手を当て「そこまでは、いや、でも」と考え込んだ。意地の悪い質問だったかも知れない。記憶を探らずとも俺は答えを知っている。 「付いてなかったんですよ。あるはずがない。なぜなら冬子先輩が根付を落としたのは文化の日の二日後、先輩が美術部に侵入したとされる五日の夜なんです。翌日事件が発覚したとき既に根付は失われていた。でも、それだっておかしい。先輩が侵入したと推定される時刻は美術部に人がいなくなった8時半過ぎから顧問の新里が警報システムを作動させた9時過ぎまでの小一時間ほど。でも嵐山さんは8時半頃に先輩にぶつかったと言っていたし、複数の写真の撮影時刻からそれはおおよそ裏付けられている。そうなると先輩は8時半には美術室を荒らし終えて学校を後にしたことになってしまう。中山先輩と一緒に」 薄暗い美術室に沈黙が落ちる。教室から見える景色が俺は好きだった。でも、ふと考える。俺は窓の外が好きなのだろうか。外光が生み出す部屋の陰影が好きなのだろうか。かぶりを振る。今はどうでもいいことだ。 先輩は押し黙っていた。先輩は俺が事実を知っていることを知っている。本来解説などセレモニーに過ぎない。それでも沈黙を貫くところに先輩の義理堅さを感じる。 「ここまで言えば十分でしょう。これが先輩の吐いた嘘だ。上書きされた事実だ。美術室を荒らしたのは冬子先輩一人じゃない。その場には中山先輩もいたんだ。……いや、違う。事件の原因は中山先輩にあると俺は思っている。あなたは中山先輩を庇っているんだ」 背後で小春さんが息を呑んだ。小春さんには何も話していない。困惑していることは気配でも分かった。小春さんはおずおずと尋ねてきた。 「ですが、藤宮さん。なぜです? 中山さんが行ったことだとしたら、なぜ冬子は」 中山先輩を庇わなければならなかったのか。問題はそこだ。冬子先輩にとって、小春さんにとって中山先輩は高校からの知り合いだ。同じ美術部の友人ではあったろうが、特別親しかったわけではないことは伝聞からも伝わってくる。そんな彼女の罪をたとえ芸術のためでも犯罪は許されないとまで言い切った冬子先輩が庇うだろうか? 汲むべき事情があったとしても、せいぜい黙認がいいところという気がする。 仮に中山先輩と冬子先輩が単なる共犯関係だとするなら先輩が小春さんと決別した夜に彼女の名前が出てきても良かったはずだ。小春さんを憎んでいるのは自分だけではない。その事実は小春さんを傷付ける有効な攻撃手段になり得るし、また自分一人が悪いわけではないという罪悪感の軽減にも利用できる。功績を独り占めにする人間はいるだろうが、悪事を独占しようとする人間はいない。 冬子先輩は明らかに中山先輩の存在を秘匿しようとしている。一方が一方を庇うとき、そこにはどんな関係が考えられるだろう。たとえば上下関係。弱みを握られている場合が当てはまるかも知れない。 「しかし、無理に従わせられるほどの弱みが冬子にあるとは思えません」 小春さんは否定する。それはどうだろう。他人が何を隠しているかなんて他人に分かるようなことではない。たとえ親友同士でも知り得ないことは今の状況が証明している。ただ、弱みを握られていたわけではないという意見には俺も賛成だった。弱者と強者の関係は必ず態度に現れる。二人の接し方を見てもそこに上下が在るようには見えなかった。 なら、他にどんな理由があり得るだろうと考え、俺はこう結論付けた。 「中山先輩は被害者なんでしょう? しかも、その被害を公にできない類の。だから先輩は彼女を庇わなければならなかった。たとえ自分が悪者になり親友を傷付けることになったとしても、守らなければならない弱者だったから」 冬子先輩は無反応だった。 言葉を溜め、心臓の鼓動に耳を傾ける。先を続けるには勇気が必要だった。 「先輩、もし俺の推測が間違っていれば違うと言ってください。殴って軽蔑してくれても構いません。俺だってそうじゃないと願いたい。こんなおぞましいこと……。でも」 崖下に飛び降りる気持ちで自らの考えを形にする。 「中山先輩は、ここで誰かに襲われたんじゃないですか?」
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