「さきほどは失礼しました」 家も和風、服も和風なのだからてっきり日本茶でも出てくるのかと思ったが、注がれた中身はコーヒーだった。軽く会釈して皿を引き寄せた。 「俺のほうこそすみませんでした。その、声をかけても起きなかったので」 「お日さまが気持ちよくて、ついうとうとと……」 恥ずかしいです、と前髪を垂らす。 俺は、クリーㇺと砂糖をカップに注いだ。 「ドミニカ産のブルーアンバーという銘柄です。父が現地から送ってきまして」 「お父さんはドミニカで働いてるんですか?」 「今の勤め先はベルギーです。でもその前はドミニカにいたのだとか」 なんだそりゃ。 「じゃあお母さんと二人暮らしで?」 「母は二年前に他界しています。今この家に住んでいるのは私一人です」 ほう、こんな立派な家にたった一人で。 カップを口に運びながら、縁側からの景色へ目を向ける。 庭も、庭木も手入れが行き届いている。これを一人でこなしているのだとしたら大したものだ。俺なんか自分の部屋すら片付けられていないのに。 「それで、あの」 「あ、藤宮っていいます。藤宮真一」 「藤宮さんは今日はどのようなご用件でいらっしゃったのですか。西高の美術部の方が私に何か」 「ああ、そうでした」 足元に立てかけていたキャンバスに手を伸ばした。 「去年梅女に転校するまで西高の美術部にいたんですよね?」 「ええ」 「顧問に頼まれた、と言うか押し付けられたんですけど。小春さん……、えと、失礼、苗字はなんていうんです?」 小春さんは、ふふと笑った。 「よく間違われますが小春が苗字です。小春のどかと言います」 小春が下の名前ではなかったのか。小春のどか。穏やかな彼女にぴったりだった。 「ああ、それでですね。今年からうちの顧問をやってる天羽って教師が準備室の整理をしてましてね。小春さんの絵が見つかったから返してこいと言われて俺が使いに出されたんです」 「私が描いた絵、ですか? 西高に?」 「これ小春さんので間違いないですよね」 袋から取り出した絵を小春さんに示してみせた。『薔薇を抱く女』 改めて見ても圧迫感のある作品だ。目の前にいるおっとりとした女性が描いたなんてとても信じられない。 (……そうだ、この人が描いたんだよな、これ) 信じられないが事実はそうなのだ。小春さんのような人がどうしてこんな痛々しい絵を描いたのか、訊けば教えてくれるものだろうか。 当の小春さんは床に膝を立て難しそうに目を細めていた。 「小春さん?」 彼女は、しばらく黙って絵と睨めっこをしていたが、やがてぽつりと漏らした。 「これ、私のじゃありません」 「は?」 「初めて見る絵です」 「初めて?」 「ええ、初めてです」 「小春さんの絵じゃないんですか?」 「違います」 沈黙。 脱力。 むかっ腹。 あのアマ、誰が描いたかも覚えてないのに俺をこんなところまで寄越したのか……。散々苦労して坂道を登り、危うく変質者扱いまでされそうになったというのに全部無駄足だったと? つまり、俺はまたこの絵を美術室まで戻さなきゃならんのか? もと来た道を下って? 今までの面倒と、これからの面倒を考えると首と肩が重く垂れ下がった。小春さんも迷惑だったろうと様子を窺ったが、予想に反し彼女は小さく微笑んだ。 「でも、描いたのは私の友達で間違いないと思います。そのうち渡す機会もあるでしょうから私のほうで預かっておきましょうか?」 「いいんですか?」 「持って帰るのも大変でしょう。私はこのとおり一人暮らしですから絵の置き場に困ることもありませんし」 なんて優しい人なんだろう。冬子先輩とは大違いだ。 俺は小春さんの厚意に遠慮なく甘えることにした。作者本人の手に渡りはしなかったが、元からしていい加減な頼みごとに付き合ってやる義理はない。よって任務はこれで終了ということになる。 だからと言ってさっさと帰るのも礼に欠ける。せめてカップを空にするまで留まるべきだろう。世間話の種も丁度ある。 「随分と迫力のある絵を描かれるんですね、その友達の方は」 「……ええ、さすがです」 小春さんは懐かしむようにキャンバスを見つめた。しかし、注がれる視線とは裏腹に『薔薇を抱く女』はあまりにも重厚だ。骨に抱かれた薔薇の花だけが鮮やかに赤い。 「花言葉って言うんですか? 何か意味があるんですかね」 小春さんは「そうですね」と思案した。 「薔薇の花言葉は品種や色によって全く違います。たとえば桃色だと幸福、気品、満足。白だと純潔、素朴、尊敬。赤は情熱や愛ですね。ただ、花の意味するものが花言葉だけとも限りません。地域の伝承や風習によっても様々な意味付けがなされますし、誕生花というものもあります。キリスト教において薔薇の花弁は神の愛、赦し、殉教などを意味するそうです。棘は罪、ですね」 「罪……」 「取り分け赤い五弁の薔薇はキリストの血や聖母マリアを象徴していて、宗教画にもたびたび描かれています。絵の中の薔薇と言えば、花言葉よりそちらを連想してしまいますが、この絵に関しては……」 小春さんは口元に拳を当てた。しばし黙考したあと、困ったような笑みを浮かべた。 「申し訳ありません。本人に訊いてみないことには」 そりゃそうだ。 コーヒーを口に含み、話題を変える。 「小春さんも絵は描かれるんですよね」 「ええ、ですが、あまり上手くはありません」 「見せて貰うことはできますか?」 社交辞令ではない。純粋に興味が湧いたのだ。 「スケッチで良ければ」 小春さんは家の奥から黄色い表紙のスケッチブックを持ち出してきた。「なんだか照れますね」とはにかむので、俺も小さく笑顔で応じた。 スケッチブックに描かれているのは鉛筆の素描で、ラフではなく、細部に渡って緻密に描写された写実画だった。題材としてよく見かけるリンゴのスケッチをはじめ、花や風景など身近なものばかりを選んでいるようだった。が、 (上手い……) なんてもんじゃない。絵の知識がなくても解る。香り立つように伝わってくる。下手だなんて謙遜の極みだ。小春さんの絵は疑いようもなく一つの芸術として成立していた。 たとえばある一枚は花に身を埋めたクマバチが描かれていた。身体に生えるふかふかの毛並みや、胴体に塗された花の粉に至るまで極めて緻密に描写されていた。ハチは餌をかき集めようと花弁の舞台でせわしくステップを踏んでいるようだった。 またある一枚に描かれた花の絵は、葉に刻み込まれた葉脈の陰影まで一筋一筋、絹糸ように柔らかなタッチで紡がれていた。目を疑うほど繊細な仕事で、どこを切り取っても一つの作品として鑑賞に堪え得る、さながら絵画の集合体だった。 しかし、圧倒されるのは決してその写実性の高さにではない。描かれた存在を軸に世界が広がっていくように感じたのだ。 一輪の花の絵。そこには寄り添う虫の姿が在るように感じた。虫を雛に与える鳥の姿が在るように感じた。森の音が在り、水のかたちが在った。風が色づいているようだった。小さな木の下で眠りについた骸は土に還り、そこからまた新しい春が芽吹いた。 一つの点が一つの点と結びつき、結びついた点がまた一つの点と結びついていく。やがて連鎖は大きな環を成し、全てがその中で循環されていく。それは小春さんの目が映し出す世界の姿。不可逆の中で彼女が捉えた一瞬を絵画として永遠化したものだった。終わりと始まりの再演はどこまでも観る者を魅了する。儚くも、鮮やかに。 「すげ……」 『薔薇を抱く女』の鬱々しさとはまるで違う、どこか懐かしさすら覚える作品群。本人は恥ずかしいなどと髪をいじっているがとんでもない。どれほどのものか測ることもできない。ただ、少なくとも、この人が1%を持つ人間であることは俺にすら理解できた。 俺にはない、1%。 ページをめくる手がおぼつかない。 花。町並み。猫。鳥。花。一つ一つの世界をじっくりと観てみたい。もっとたくさんの世界を観てみたい。両方できないことがもどかしい。何だかとても、幸せだ。 画面に釘付けになっていると、小春さんが問いかけてきた。 「藤宮さんはどんな絵を描かれるんですか」 「俺、ですか? 俺は……」 返答に詰まった。窮する理由はどこにもなかった。ありのままを伝えれば良かった。俺の現状をありのままに。でも、返答に詰まった。 スケッチブックには桜の花が描かれていた。触れてみたくなるような桜の花。小春さんの花。 「……俺は美術部の活動をしていません。ただ何となく入っただけで、絵とか、そういうのは……」 文化部なら幽霊部員の一人や二人は別に珍しくもない。小春さんも承知しているのだろう。特に気にするでもなく「そうなんですね」とだけ反応した。俺はなぜか肌が熱くなるのを感じていた。身体の異常はついつい心にもないことを口走らせる。 「あ、この絵は面白いですね」 そう早口で言ったあとで、何の変哲もない花の絵だということに気が付いて焦った。やはり巧みだったが他と比べて特別変わった要素が認められたわけではない。「どこがですか?」 そう突っ込まれたら何て答えようと緊張していると、小春さんは意外な反応を見せた。 「実はその絵に描かれている花については少し、不思議な話があるんですよ」 「不思議、ですか?」 小春さんは「なんと言えばいいのか」と生煮えの調子で庭のほうに目を向けた。視線の先には木柵がある。向こう側は、見えない。 「花が置き去りにされていたんです」
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