そのときの美術部は私たち二人を含め全部で十三名の部員がいました。全員が女生徒でおおよそ二つのグループに分かれていました。一つは二年の月見里先輩、西原先輩という部長・副部長を中心としたグループ5名。もう一つは二年の姫川先輩を中心としたグループ5名です。月見里部長は温厚な方で、新しく部長を決めるときも自然に役が回ってきたとお聞きしています。ひとに話しかけるとき必ずぺこりと頭を下げられる癖が印象的でした。西原先輩は月見里部長とは親しいご友人でしたが、性格は正反対でとても活動的な方でした。ひとが集まればいつの間にかその中心で話題を牽引し、最後に手を叩いて行動を促す。そんな方です。お二人とも真面目に活動をなさっていて、高校から美術を始めるという一年生にも熱心に指導をなされていました。 一方の姫川先輩は少し不良っぽい雰囲気のある方でした。雰囲気があるというだけで実際に何か悪いことをなさっていたわけではないでしょう。生活態度に問題はなく、成績も良かったそうです。ただ、美術部の活動に対しては決して積極的とは言えませんでした。神坂さんも姫川先輩のグループに属していましたが、彼女たちは美術室に集まってもお喋りをしたり、粘土で適当なものを作って遊んだりするだけでした。姫川先輩は西原先輩とそりが合わなかったようで、そういうところが振る舞いに表れていたのかも知れません。 とは言え、別に表立って何か衝突があったわけではありません。大別すれば何となくそういうふうに分かれているだけで普段はお互いに会話もありましたし、両グループの生徒と仲の良い方もいらっしゃいました。中山さんなどは冬子と同じくらい油彩歴が長くお上手でしたが、やはり親友の神坂さんと一緒に姫川先輩のグループと一緒にいることが多かったようです。 私自身あまり派閥のようなものを意識したことはありませんでした。冬子と、もう一人柚木崎さんという一年生も同じだったと思います。月見里部長とも姫川先輩とも交流がありましたし、用がなければ美術室の隅や屋外で黙々と課題をこなしていました。でも、特段それで問題はなかったんです。 一緒に美術部に入ってから、冬子とは絵について話す時間が多くなりました。いざ自分が描く立場になってみるとそれまで漠然と眺めていた冬子の絵がどれだけの技術に支えられているのかを知れて新鮮でしたし、勉強にもなりました。反対に冬子が私の絵を批評してくれることもありました。中学のときは描くだけで褒めてくれたのですが、この頃になると、良いところと悪いところ、修正すべきところと伸ばすべきところを子細に挙げて評価してくれるようになっていました。ときに厳しい言葉もありましたが、それでも成程と納得できるものばかりで、私は冬子の指摘を大変ありがたく思っていました。 冬子と二人で同じ時間を過ごし、同じものに向き合える。朝に見る夢のように充実した日々を過ごせたと思っています。 そんなふうに何事もなく春が終わり、梅雨が明け、熱い日を過ごしていた頃でした。夏休みのある日、市内で花火大会を観た帰りに冬子がこんなことを言ってきたのです。 『一緒に霧代美術展に出展してみないか』 霧代美術展のことはもちろん知っていました。冬子が通う画塾の先生が運営委員をなされているということで毎年一緒に観に行っていたからです。でも、まさか自分がそれに応募するなんて考えもしませんでした。自信もありません。初めは断ろうとしたのですが、冬子が、お前の絵でも十分通用する、ステップアップが必要だ、と熱心に薦めてくるものですから、冬子がそう言うのならと半信半疑で承諾しました。冬子はさらに「どうせならどちらがより高い評価を得られるか勝負をしよう」と持ちかけてきました。私はその提案についても冗談や軽口を聞くつもりで受け入れました。冬子は小学生の頃からちゃんとした指導者の下で学び続けていて、西高の美術部でも肩を並べられるのは西原先輩くらいのものでした。ですので、冬子との勝負に関しては展覧会に応募することよりもずっと気楽に承諾することができたのです。だって勝敗は分かり切っているんですから。私が冬子に勝てるはずないんですから。勝てるはずないと……そう考えていました。 でも、そうはなりませんでした。 霧代美術展の開催数日前、私の応募した絵が大賞を受賞したと主催者の方から連絡が入ったのです。庭の葉桜を描いた絵でした。一方、冬子が応募した自画像は……本選には残ったものの賞が与えられることはなかったのです。 私にはその受賞に一体どれほどの価値があるのかよく分かりませんでした。今もよく分かっていません。聞くところによると随分と分不相応な評価を頂いたようです。ただ、受賞をしたこと、私の絵を好きだと仰ってくださる方がいたことは素直に嬉しく思いました。本当に……嫌になるほど、馬鹿素直に嬉しかったのです。だから、ついつい舞い上がってしまって、冬子に、冬子の気持ちを考えもせずに、つい、こう口走ってしまったのです。 「私の勝ちね」 ……と。 他意はなかった、と言うのはあまりに卑劣でしょうか。嬉しさを口にしただけとするのは弁解に過ぎるでしょうか。私の中に、冬子に対して勝ち誇る気持ちが本当になかったと言えるのでしょうか。私は、あの冬子が私に及ばなかった事実に確かな優越感を抱いていたのではないでしょうか。勝ったのだから多少敗者を痛めつけたって構わないと! 私の卑しい一言に冬子は大袈裟な反応を見せませんでした。それどころか「良い絵なのだから評価されて当然だ」と共に喜んでくれたのです。ですから、私は冬子の気持ちを慮ろうという発想にすら至りませんでした。受賞を喜び、勝利を宣言し、何事もなかったように元の二人に戻ろうとしたのです。実際、表向きは何の変化もありませんでした。冬子の態度も以前と一つも変わりありません。ですから、気付かなくても仕方がなかったと、そんなふうに考えてしまう自分が嫌になります。 霧代美術展はその年も盛況に終わったとお聞きしています。
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