先輩が買い物をしている間、俺は文具店の中を気ままに見て回っていた。と言っても俺には目的もなければ知識もない。陳列された商品を風景として眺めるだけだ。リンシードオイル。ポピーオイル。テレビン。ぺトロール。サンシックンド。ワニス。画用液一つを取ってもその種類は豊富にある。絵の具ともなれば倍以上だ。いくら品名を睨んだとこで使い道が分かるはずもなく、途方もなさが頭を重くするだけだった。 「それは一度に全部を理解しようとするからだ。簡単なことから順に積み上げていけばやり方は自然と見えてくる。編み物みたいにな」 目当ての物が買えたらしい。冬子先輩は片手に白いレジ袋を提げていた。 「荷物、少ないですね」 「多いなんて言ったか?」 今日の俺は荷物持ちじゃなかったっけ。いや、日野が勝手に言っていただけか? 昼休みの記憶を辿っていると先輩がスマホを差し出してきた。 「返信があった。間違いないようだ」 メッセージの送信者は中山先輩。内容は成沢伊吹の件について。 成沢の絵が撤去された理由。それは、 「不法侵入だ」 ふくらはぎに靴下を履かせながら冬子先輩が断言した。一瞬何の話題だか解らなかった。 「成沢の絵が撤去された理由だよ。不法侵入だ」 「ここ公園ですよ?」 立ち入りに許可が必要だなんて看板のどこにも書かれていない。書かれているはずもない。絵画の中のどこを切り取っても入ってはいけない場所など描かれてはいなかった。侵入なんて物騒な単語が一体どこから湧いてくる? 「藤宮。お前、絵のタイトルを覚えているか?」 「……『見える景色』?」 「そう。そこでお前への質問はこうだ。成沢はどこからその景色を見た?」 「え?」 ……あ、そうか。 先輩がこくりと頭を動かす。 「俯瞰で描かれている時点で気付くべきだった。絵は高所から見下ろす構図で描かれている。だが、公園内にそんな場所はない。成沢は木の上でこの絵を描いたのか? 違う。なら当てはまる場所は一つしかない」 成沢本人が立っていた場所。南口の正面から公園内が窺え、池全体を見渡せる位置。 「車道を挟んだ向こう側、あのビルの内側から、ですね?」 俺は眼前の建物を指差した。今はもう使われていない廃ビルだ。壁面はくすみ、取り外された看板の跡だけが侘しく過去を主張している。高さは4階建て。感じからすると描かれたのは3階からだろうか。あそこからなら池の周辺が一望できるし、あそこからでなければそれは望めそうにない。 「でも、許可を取って中に入っていたのかも知れないじゃないですか」 「そんなことはあのビルの所有者を確認すれば分かることだ。確か弥栄企画だったな?」 先輩はスカートのポケットからスマホを取り出し検索を始めた。たとえ倒産した会社でも過去の住所くらいはすぐに出てくる。弥栄企画の社長は成沢のことを知らなかったのだから、つまり、 「見てみろ」 株式会社弥栄企画。地図の検索結果は眼前のビルを示していた。 まとめるとこうだ。成沢は弥栄企画の廃ビルに無断で侵入していた。絵を描くために恐らくは複数回。近付いてみると入口のガラス戸にはしっかりと鍵がかけられていたので当時は鍵のかけ忘れでもあったのかも知れない。池を一望できる場所を探していた成沢は偶然それに気付き内部へと立ち入った。入ってしまえば邪魔する者は誰もいない。求めた景色が望める窓辺で成沢は悠々と作業に取り組んでいたはずだ。 成沢はそうして完成させた作品を『好文木の会』に出展する。在校生の出展は希望者だけだと言うから自信があったのだろう。実際、成沢の絵はOGの作品と比べても遜色ない出来栄えだった。しかし、彼女にとって予想外のことが起きる。無断で侵入していた廃ビルの所有者が会の展覧会に客として現れたのだ。弥栄企画の元社長は成沢の絵を見て驚く。描かれていた風景が、所有するビルからの景色と一致したからだ。 「もっとも誰かがビルに入っていると気付いたのはそれよりも前の話だろうな」 「絵を見て気付いたのではなく?」 「絵を見るだけでは在校生とは判断できないって話はしただろ。事前に情報はあったんだよ。たとえば目撃情報とかな」 おたくが持ってるビルの中に制服の女の子が入っていくの見たんですけど鍵とかかけてないんですか? そんな感じだろうか。 「絵の中の季節は秋だから既に卒業している可能性もある。苦情を言うからには確認はしときたかったんだろう」 経緯はどうあれ成沢という女生徒が侵入者だと分かった男は梅女側に抗議を入れる。即刻絵を撤去しろと強く迫ったかどうかは分からない。ひょっとしたら軽く注意を促しただけかも知れない。いずれにせよ在校生が犯罪に関わっていると分かった学校側としては誠意を見せなければならなかった。作品は撤去され、今頃、成沢もこってりと絞られていることだろう。 「成沢も自分だけの秘密基地でも見つけたつもりになっていたのかも知れんな」 文具店を後にした俺たちは夜を迎えつつある歩道を、肩を並べて歩いていた。買い足したものを美術室に置きに行くのだ。県道では帰宅する車が遊園地みたいに列を作っていた。 「まったく。馬鹿なやつだ。他人の敷地に踏み入るなら所有者の許可を得るべきだった」 冬子先輩はつくづくまったくと吐き捨てた。 住居侵入罪は立派な犯罪だ。そうでなくとも万が一事故が起きれば所有者は管理責任を問われることになる。社長の苦情も学校側の対応も当然と言えば当然なのだ。それでも俺は先輩の口振りを意外に感じた。 「辛辣ですね。先輩なら芸術のためなら身内を生贄にするぐらいは容認するかと思ってましたが」 「地獄を描いた男のようにか?」 俺が理解できない反応をしても先輩は特に気にする様子はなかった。 「作家の作品、あるいは活動そのものが犯罪に至る例は確かにある。社会問題として広く知られているもので言えばグラフィティ、エアロゾールアートとも呼ばれるストリートアート。前衛芸術においては千円札裁判などが有名だ。それらの中には確かに芸術的価値の高いもの、あるいは行為そのものが評価されているものも存在する。しかし、だからと言って芸術が犯罪の免罪符になるわけじゃない。いくら芸術が観念や感覚のうえに成り立つものであっても社会の中で表現する以上は法や倫理の制約を受けるし、他人の権利を侵害することは許されない。犯した罪はやはり裁かれるべきだ。たとえその芸術が美術史に残る傑作であったとしてもな」 先輩はこう締めくくった。 「社会は芸術とは異なるレギュレーションで動いている」 先輩の瞳の先で無数のヘッドライトが信号待ちをしていた。赤が青に切り替わっても道路の流れは緩慢で、気だるそうに止まったり動いたりしていた。徒歩で車を追い抜くことに子供じみた優越感を覚えたが、やがて大きな交差点を過ぎると、開いた差など初めからなかったかのように白のワンボックスが俺たちを置き去りにしていった。 いつの間にか街灯が灯っていた。紫の空はまだまだ明るく、照明なんか必要ないのにと思ってしまう。でも、あと数分もたてば暖色が馴染む景色になるだろう。 先輩が「ところで」と話を変えた。 「お前、ゆいちゃんに返事はしたのか」 ゆいちゃんへの返事。霧代美術展に応募しないかという話。厳密に言えば、絵を始めないかという誘い。 「いえ、そのままにしています」 バスケ部の指導で手一杯なのだろう。最近ゆいちゃんは美術部に顔を出さない。美術の授業では頻繁に会うが話をする時間はない。俺も機会を作ろうとはしていない。相手からの催促がないのをいいことに俺は受け取ったボールを片隅に放置していた。先輩は雑多な音で掻き消されるような声で「そうか」と呟き、それっきりだった。沈黙に水を流し込むように今度は俺が問い返した。 「先輩は何も言わないんですね」 「お前は何か言って欲しいのか」 訊きたいことが上手く伝わらなかったようだ。質問の形を変える。 「今日はどうして俺を連れてきたんですか」 県道を走る車が波のように近付き離れていく。走行音がとてもクリアに聞こえた。最後まで言わなければならないのならと俺は息を吸い込む。 「先輩に目的があったことは分かります。でも、別に俺を連れ歩く必要はなかったですよね? 買い出しがあるから荷物持ちかと思ったんですけど、それも違うでしょう」 先輩の提げた袋がカサカサと揺れた。中身は知らない。 「本当は、見学させてくれたんじゃないですか? 絵ってどういうものかとか、用意しなきゃいけない道具だとか。そういうものに興味が持てるように、俺に見せてくれたんじゃないですか」 先輩は、さあなと突き放した。 「好きなように受け取ればいい」 「散々解説までしておいて今さらですよ。回りくどい真似なんかしないで一言やれと言えばいいじゃないですか」 「前にも言っただろう。人に言われてするようなことじゃない」 「でも先輩は部長で、俺は部員だ」 「名ばかりの役だ。私も。お前も」 下手な弁解だ。どう考えても先輩は俺が絵を始めるように誘導している。なのにはっきりそれと薦めたりはしない。先輩の性格がそうさせるのか? 俺には別の心理が働いているように思えた。 「躊躇っているんですか? だとしたら、一体何を」 呼吸を止めるような間を置いたあと、先輩は溜息を吐いた。観念をしたように。 「……お前が抱えているものは絵を始めたところで消えたりはしないからだ。それどころか目に見える形でお前を苛むかも知れない。そんな道をお前に薦めることが正しいのか。確信が持てないでいる」 「先輩」 「卑怯だろ? つまりは責任を取りたくないのさ。それに」 冬子先輩はまた口をつぐんだ。今度の沈黙は少しばかり長かった。先輩の靴音がかつかつと時を刻んだ。孤独な響きだと思った。 「……怖いんだろうな」 「怖い?」 「私は、また同じことを繰り返すんじゃないかって……それが」 深い藍色の空に月が浮かんでいる。それももう違和感のない時刻だ。先輩の表情は薄暗がりでよく見えなかったが、多分いつもと同じ冷ややかな貌をしていた。ただバッグの肩紐を握る手だけが震えていた。凍えるように。 「先輩、それってどういう」 意味なんですか、と尋ねようとした矢先だった。先輩がぴたりと歩みを止めた。俺も数歩進んだところで立ち止まる。 「先輩?」 肩越しに振り返り、ぎょっとした。 立ち竦む先輩が、氷彫刻のようなその表情が、割れんばかりに揺らいでいた。先輩は俺を……、いや、俺のさらに向こう側にある一点を凝視していた。自然と俺も先輩の視線を追ってしまう。 月明かりの下にいたのは一人の女性だった。先輩と同じように身体を強張らせ、先輩以上に目を見開いていた。 誰だろうと思った。一瞬それが分からなかった。彼女の生活からすれば、それもまた日常の姿であるはずなのに、いつもの服装とあまりにかけ離れていたから。 先輩の喉から締め上げるような声が漏れた。 「のどか」 梅穂女子の黒い制服を身に纏った小春さんが、道の真ん中で立ち尽くしていた。 「冬子」 小春さんが先輩の名を口にした瞬間だった。放たれた矢のように先輩が足を踏み出した。俺の脇を抜け、小春さんとの距離を縮め、そのまま彼女をすり抜けていった。無言で、目を伏せ、存在自体を無視するように。小春さんは頬を平手で打ち据えられたような顔をした。 先輩はすたすたと早足で去ってしまう。俺が「ちょっと」と声を上げようとしたとき、 「冬子!」 小春さんが叫んだ。いつもの穏やかさからは想像もできないような声量だった。さすがの冬子先輩も動きを止めた。背を向ける先輩に小春さんはまた声を張った。 「冬子、待って」 すがるようだった。 「冬子、ごめんなさい。私ずっと……冬子に謝りたかった。ずっと……。ごめんなさい。私が……私のせいで」 ごめんなさい。 小春さんは謝罪の言葉を吐露する。消え入りそうな言葉を、何度も。何度も。 俺は何も言えなかった。口を挟めなかった。事情も分からなかった。懇願する彼女を只々哀れに想った。胃が捻じ切れるような数秒が過ぎた。背を向けたまま先輩が言った。 「のどか、お前は何を謝っているんだ?」 先輩の声はいつもと変わらないように聴こえた。きっとそのような声だった。でも、なぜだかその問いかけには計り知れないものが込められていると感じた。 小春さんが答えた。 「私は、あなたを傷付けた」 先輩は振り返ろうとしない。いつもの鉄面皮以上に感情の読めない背中で沈黙を続け、そして、 「もう一度訊く。お前は何に対して謝っているんだ?」 同じ質問を繰り返した。今度こそ小春さんは何も言えなかった。ただ途方に暮れていた。 「お前は何も分かっちゃいない。それが証左だ」 冬子先輩は吐き捨て、最後まで小春さんを見ることなく、また歩み出した。 「先輩!」 俺も遅れて駆け出した。小春さんの脇を通り抜けていくとき、くしゃくしゃの折り紙みたいな貌が目に映った。小春さんの傍にいるべきだろうか。逡巡したが、その一瞬にも先輩はどんどん先へと進んでしまう。 「小春さん、すみません!」 今は1メートルでも先輩と小春さんを離すべきではないと思った。俺は冬子先輩を追いかける。 俺が背後から迫っていると分かると先輩はさらに足を速め、やがて駆けるほどの速度になった。たつたつとコンクリートを蹴りつける音が響く。俺もまた歩幅を大にして追走する。 俺はあまり運動神経が良くない。トラックでの全速力なら先輩のほうが上かも知れない。しかし、今この場においては服装と荷物の差で俺のほうが速かった。 俺は先輩の右肩を掴む。すると先輩はくるりと時計回りに反転し、勢いに任せて俺を左手で突き放した。 「お前には関係ないだろう!」 先輩の手から袋が落ち、歩道に中身が散乱した。 冬子先輩とはまだ長い付き合いとは言えない。でも、この人がここまで感情を露わにするとは思わなかった。虎のような眼光でふうふうとこちらを威嚇してくる。 結局、小春さんとは姿が見えなくなるほど離れてしまった。息が乱れていた。俺も、先輩も。それを整える時間が必要だった。呼吸が深くなるにつれて思考も整理されていく。 「……かも知れません。事情も分からない。何が何だか……。でも、先輩だって小春さんとこれっきりでいいだなんて思っちゃいないでしょう」 「何様のつもりだ。お前が私の心を決めるな」 「だったら!」 今度は、俺が吼える。 「だったら、どうして小春さんのことを絵に描いてるんですか!?」 何様も糞もあるか。毎日毎日小春さんの写真を見ながら、あんな、幸せそうなあの人の姿を描いておいて。 「誤魔化すならもっとマシなこと言えよ! 今日の展覧会に来たのだって小春さんの絵を見たかったからじゃないんですか。俺が、あの人が絵を仕上げてるって言ったから。『好文木の会』は梅女の生徒も出展できるから!」 会場で目録を確認した途端、先輩の緊張感が緩んだ。あれは目当ての作品がなかったことに対する落胆の反応だ。確証はない。だが、俺の言葉を沈黙で受け入れる先輩の態度こそが推測の正しさを証明していた。 「妹みたいな人っていうのも小春さんのことなんでしょう? なのにどうして向き合ってあげないんです。どうして気持ちに逆らうような態度を取るんです。先輩も本心じゃあ小春さんと一緒にいたいと思ってるんじゃないんですか!?」 そこまで言って、ふと、我に返った。 俺はどこまで馬鹿なのだろう。拒絶する先輩を捕え、心を暴き、正論をねじ込む。それで先輩がお前の言うとおりだと、そう認めてくれると、本気で信じているのだろうか。 目の前の現実はどうだ。傷付き、苦痛に耐える女の子が身体を抱いて立ち尽くしているだけだ。頼りなく、とても小さかった。 先輩は溢れ出るものを堪えるようにぎゅっと目をつぶった。そして、再び瞼を上げる頃には、もう普段の先輩に戻っていた。感情を圧し殺した、普段の先輩に。 「まったく、知った風なことをべらべらと」 もう怒ってはいない。呆れてもいない。ただ乾いていた。先輩は散らばった道具を淡々と拾い上げたあと、凍て付く瞳を俺に向けた。 「お前はもう帰れ。買ったものは私が美術室に運んでおく。これ以上私たちに関わるな」 「先輩」 「これ以上」 先輩は踵を返した。 「惨めな気持ちにさせないでくれ」 「それでこのカツ丼大盛りってわけ?」 翌日の昼休み。俺が差し出したカツ丼を前に神坂が腕組みをした。 「まあ、私も当事者だから訊かれりゃ答えんでもないけどねえ」 「お願いできませんか。釘を刺されたばかりで中山先輩には悪いと思ってます。けど……。偏った見方でも構わないんです。あとは自分で判断しますから」 「だってさ。どーする?」 神坂は隣の中山先輩に話を振る。 中山先輩は困ったような……いや、事実困っているのだろう。力のない笑みを見せた。 「藤宮くんがそこまで知りたいって言うのなら……。私に止める権利なんてないよ。隠すようなことでもないし」 「私は別に隠す気なんてないけどね」 話の流れに俺は胸を撫で下ろす。忠告を無視する形になってしまうのは心苦しいが一刻も早く先輩と小春さんの関係が知りたかった。 「ったく、冬子は会いたくないって言ってんでしょ? 好きにさせときゃいいじゃない。あんたのそれを余計なお世話って言うの。ご存じ?」 神坂は不快そうに俺の目を覗いてから、「まあいいわ」とどんぶりを手元に引き寄せた。 「去年の十一月よ。あの女……小春のどかは美術部であるトラブルを起こしたの。それで部の雰囲気がサイアクになって冬子以外全員が退部。私もこの子もあの女の被害者よ」 中山先輩は気まずそうに俯いている。 「大体想像は付いてたでしょ? だからここまでは前置き」 「ええ、俺が知りたいのはその先です。小春さんが起こした事件って一体何なんですか?」 そもそも、俺はその事件の存在自体に疑念を持っていた。俺の知る小春さんはトラブルを起こすような人ではない。絶対に誤解や間違いがあるはずだ。 そんな俺の考えを見透かしたのだろうか。神坂が口の端を歪めた。表れているのは侮蔑と嘲り。そして加虐心。ぎらつく眼が雄弁に語っていた。『バカなガキ。あの女の外面にすっかり騙されているのね』 神坂は鼻で笑い、そして宣告した。 「窃盗と器物損壊」 「は?」 ……なんて? 「泥棒よ泥棒。あの女はね。準備室に置いてあったみんなの部費を盗んだ。それがバレそうになるや自棄を起こしてメチャメチャに暴れたのよ。この私たちの目の前でね」
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