「それで、どうなったんです?」 隣に腰かけた小春さんが口元の笑みを隠した。 嵐山さんたちと会った翌週の水曜日、学校帰りに小春さんの家に立ち寄って事の顛末を報告した。 冬子先輩ほどではないにしろ、小春さんもまた感情を大きく表す人ではない。なので可笑しくて堪らないといった彼女の反応はとても新鮮に見えた。 一方の俺は苦々しく頭を掻く。 「どうもこうも。嵐山さんとは噛み合わないし、冬子先輩は機嫌悪いし、風花さんは腹抱えて爆笑するし……正直参りました」 嵐山さんは写真のモデルを頼むために根付の持ち主を探していた。その持ち主とは冬子先輩のことで、ゆえに嵐山さんと先輩を引き合わせれば彼の目的は達成されるはずだった。が、嵐山さんが探していた少女は冬子先輩ではなかった。 「つまり、嵐山さんが一目惚れしたのは、そのときいたもう一人の女生徒だったんですね」 「ええ、先輩の顔なんか綺麗さっぱり忘れてましたよ」 嵐山さんが自分で話していたとおりだ。彼が根付を拾ったとき、その場には冬子先輩と、もう一人別の女生徒がいた。 根付を落としたのは間違いなく冬子先輩だが、嵐山さんは落とした瞬間を見たわけではない。にも関わらず目当ての少女を探すための手がかりとして根付にすがった彼は、対象と手段を短絡的に結びつけてしまった。そこにとても簡単な誤解が生まれた。 もちろん、同じ勘違いで冬子先輩を引っ張ってきてしまった俺や小春さんも彼をどうこう言える立場ではない。俺たちは俺たちで根付の所有者を隠すという目的に囚われ、当然あり得る可能性を排除してしまっていた。 そういう間の抜けた話なのだ、これは。 「それで、その方が誰か分かったんですか?」 「ええ、当事者の冬子先輩がいてくれて助かりました」 先輩の口からから告げられた名前は意外な人物のものだった。 「元美術部員の中山先輩だそうです」 ああ、と小春さんが手を打った。 中山先輩がまだ美術部に所属していた頃、部活帰りに二人で下校することが稀にあったらしい。冬子先輩は、はっきりとは覚えていないと前置きしたうえで、その日も確か中山先輩と一緒だったと教えてくれた。 「中山さんは熱心でしたからね。遅くまで残るときは大抵中山さんと一緒になると冬子から聞いたことがあります。私も何度か三人で下校したことがありますよ」 小春さんは懐かしむように目を細めた。 「でも、はじめは先輩の記憶違いじゃないかって思ったんです。中山先輩は眼鏡をかけてますし、髪だって短いとは言えませんから」 嵐山さんが挙げた少女の特徴とはまるで一致していなかった。でも、 「中山さんは伊達眼鏡ですから。眼鏡をかけていないときがあっても別段不思議ではありません」 「やっぱり、知ってるんですね」 小春さんは笑顔で肯定した。 「眼鏡を外したときの中山さんは普段とは別人のようですよ」 冬子先輩曰く、中山先輩は視力が弱くて眼鏡を使っているのではなく、飽くまでファッションとしてかけているだけなのだそうだ。 思い返せば食堂で彼女を紹介した神坂が「地味な見た目に騙されるな」と先輩の眼鏡をいじっていた。きっとあれも中山先輩が伊達眼鏡であることを念頭に置いた発言なのだろう。 「でも、髪の短い女性というのはどういうことなんでしょう? 半年前だって中山さんはそんなに短くカットした時期はなかったはずです」 「ついでに言うと背が低いわけでもありません。むしろ女子にしては高いくらいだと思います」 では、なぜ嵐山さんは先輩のことを髪が短くて背の低い女子だと認識したのか。 「それはですね。小春さんと中山先輩を並べて見たとき、人はどういう印象を抱くのかって話なんですよ」 小春さんの髪は背中の半ばを過ぎるほどに長い。対する中山先輩は長いと言ってもせいぜい肩を少し超える程度だ。 小春さんは成程と納得した。 「普段から髪の長い女性を見慣れていたら、中山さんくらいの長さでも短いように感じてしまう?」 俺はこくりと頷いた。 「例の嵐山さんの彼女さんがまさにそういう人らしいです」 風花さんは言っていた。真莉姐さんとは正反対のタイプだと。つまり真莉さんは髪が長くて背が高い女性ということになる。聞けばその髪は腰まで届くほどで、背丈も180センチを超えているらしい。そんな恋人と毎日顔を突き合わせていたら感覚がずれてしまっても不思議ではない。俺でさえ、神坂と中山先輩を並んで見たとき、先輩の髪を短いと感じたのだから。 そんな中山先輩をどうしてモデルにしたいと考えたのか。そこまでは訊いていないので分からない。 「冬子先輩の仲介で中山先輩本人にも会って貰いました。間違いないそうです。中山先輩のほうは嵐山さんのことなんて覚えてもなかったみたいですけどね」 と、あることに気付いた俺は口早に次の言葉を繋げた。 「根付の件なら大丈夫ですよ。嵐山さんも話題にしないと言ってくれましたし、そもそも興味がない様子でしたから。中山先輩に何かを喋るようなことはしないと思います。万が一中山先輩に話が伝わっても疑問に思われないよう冬子先輩が上手く誤魔化してくれると言ってくれました。それに、もっと単純な理由で知る機会がないんです」 「と言いますと?」 「モデルの件、中山先輩に断られちゃいましたから」 「あら」 理由は「恥ずかしいから」だそうだ。 そこまで聞いてようやく安心したのか、小春さんの表情が見るからに柔らかくなった。一方で、人の失敗を喜ぶべきでないと考えたのかも知れない。露骨に顔を綻ばせることもしなかった。自分のことなのだからもっと素直になってもいいと思うのだが。 「では、嵐山さんの仰っていたお礼の件はどうなるんです?」 「元々の依頼は根付の持ち主を見つけることですからね。謝礼については約束どおり支払っていただけるそうです。額はなんとこのくらい」 指で示した金額に小春さんは目を丸くした。これもはじめて見る反応で少し可笑しかった。 「賞取る気満々だったみたいですよ。でも」 手を開き、指で作った数字を散らした。庭の中を風が吹き抜けていった。 「お礼は断りました」 「あら、どうしてですか?」 「何だか受け取っちゃ悪いような気がして」 小春さんの頭に疑問符が浮かぶ。 別に説明しても構わない。でも多分この人には理解できないだろうと思った。 何かにひたむきに打ち込める人。目標のために汗を惜しまない人。自分だけの特別な何かを持っている人。才能のある人。豊かな人。そんな人たちに対して持たざる人間が抱く引け目を、この人はきっと理解できない。 だから、俺は曖昧な笑みだけを返した。 「藤宮さん」 帰り際、門扉に手をかけたところで小春さんに呼び止められた。振り返ると小春さんが丁寧にお辞儀をしてくれた。 「お世話になりました。話を聞いてくれたのが藤宮さんのような方で本当に良かった」 お世話になったのは小春さんではなく冬子先輩のほうだろうと思いつつ頬を掻いた。 「冬子、何か言っていましたか」 訊かれた瞬間、ある言葉がすぐさま脳裏に浮かんだ。 『あいつの立場ならそう主張し続けるしかないのも確かだろうな』 かつての美術部における小春さんの立場。他人の所有物を自分のものだと偽らなければならない理由。 先輩の言葉をそのまま伝え、何があったのか教えて貰おうか。そんな考えが頭をもたげたが、彼女の答えは変わらないだろう。 「いえ、特に変わったことは」 「……そうですか」 そのときの彼女は群れからはぐれた小鳥のようで、何か声をかけてあげなければと自然に口が動いた。 「何だったら今度先輩を連れてきますよ。しばらく会ってないんでしょう?」 俺の思い付きに小春さんの瞳がほのかに輝いた。それは屈託のない喜びの反応で、切り出した俺も明るい気持ちになった。 だが、ただの反射に過ぎなかったのだろう。表れた色はすぐに消えた。 「お気遣いありがとうございます。本当に嬉しいです。でも」 微笑する彼女の姿。それは在る筈のない幻のようで、あまりに景色と調和していた。 空に滲む赤い色。影絵に変わろうとしている桜の枝葉。 (……今日が、終わっていく) 黄昏が辺りを包む中、彼女は、夕闇の奥からはっきりと告げた。 「冬子も私には会いたくないのだと思います」
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