「ちょっと、絵理っ」 月見里部長が慌てて西原先輩を諫めました。先輩は平然と応じました。 「だってそうでしょう? 美術室を荒らすだけならまだしも、施錠したロッカーから部費が盗まれてたんだよ? 犯人はロッカーに部費があること、そして鍵の在処を知っている人間ということになるわ」 「それは……別に鍵だって本当に隠してあるわけじゃないもの。見えにくい場所に置いてはいるけど、これだけ中を荒らされていれば偶然見つけられたって不思議じゃないわ」 「そうね、不思議じゃない。でもね広美、考えてみて? 犯人は美術室を荒らす目的で侵入した可能性が高いのよ。いつ誰に見つかるかも分からないのに何が入っているかも知らないロッカーの鍵を探そうとするかしら。他に手に取りやすいものはいくらでもあるわ。それよりは最初から部費の在処を知っている人間、つまり私たちの誰かの犯行と考えるほうが話は簡単なのよ」 「でも、だからって……」 「それとも、部費は準備室のロッカーに保管してありますなんてつまんない話題を部外の人間に話した人とかいる? いたら遠慮せずに名乗り出てくれていいのよ。別に怒ったりなんかしないから」 「西原くん、やめなさい!」 教頭先生が西原先輩を制しました。ですが、全員助けを求めるように互いの顔を見合わせるばかりです。私も自然と冬子に目を向けていました。冬子は私の真正面、廊下側の窓辺に立ってじっとしていました。私は少し違和感を覚えました。冬子の態度は、落ち着いていると言うより、憔悴しているように見えたからです。 西原先輩はほらねと話を続けます。 「誰もいないでしょ? 私たち以外に部費の保管場所を知ってる人間なんていないの」 「強引よ。話したことを忘れてるだけかも知れない。それに、偶然見つけられた可能性だってなくなったわけじゃないわ。すぐに決めつけるのは絵理の悪い癖よ」 「ごめんなさい。広美の言うとおりね。でも、可能性のあるところから潰していかなきゃいけない。それは分かってくれるでしょう? ねえ、姫川さん?」 唐突に話を振られ、姫川先輩がぴくりと眉を上げました。 「昨晩あなたはどこで何をしていたの?」 「……あ?」 「聞こえなかった? 昨晩あなたがどこで何をしていたのかと尋ねたの」 「……あんた、あたしが犯人だって言いたいの……?」 姫川先輩が唸るように言いました。自分に向けられたものではないと理解していても思わず身を竦めてしまうような、そんな声です。でも西原先輩は涼しげなものでした。 「やっぱり聞こえてないんじゃない。可能性を潰すだけだと言っているでしょう。あなたが犯人だなんて一言も言ってないわ」 「言ったも同然だろうが。なんであたしなんだよ」 「そうよ、絵理、もうやめなよ……」 西原先輩は嘆息しました。いかにも辛抱強そうに。 「私たちが手間暇かけて描き上げた作品が疵付けられているのは厳然たる事実。困るのは私たちであってあなたたちじゃない。被害者として被害者じゃないひとの行動を確認しておきたかったの。みんなの不安を拭うためにもね」 一瞬、姫川先輩の髪が逆立つように見えました。瞳の奥で煮え滾っているものが今にも爆発しそうでした。全員に緊張が走りましたが、姫川先輩は一旦堪えたようでした。 「……昨日は市内のショップをぶらついたあと6時に家に帰った。ご飯食べてお風呂入ってあとは部屋でずっとスマホ見てた。どこにも出かけてないし何も知らない。これで満足かよ」 「それを証明するものは?」 「あたしが作ったもんも壊されてんだよ!」 姫川先輩が指差したのは柚木崎さんの足元でした。落ちていたのは小指の折れた左手の彫刻です。そんな彫刻がロッカー棚にあったことは知っていましたが、姫川先輩が作ったものだとは私も知りませんでした。 「そ、そうよ。いくら絵理でもあんまりじゃない!?」 二年生の佐治先輩が姫川先輩に加勢しました。ですが西原先輩は一笑しました。 「作品って……。あれのこと? あんな不細工なの素材を無駄にしただけのゴミじゃない。あれを壊されたから私も被害者ですなんて臆面もなくよく言えたわね。そこのそれを私たちの作品と同列に扱うなんて侮辱以外の何物でもないわ。芸術に対する冒涜よ」 「西原、お前なァ!」 掴みかかろうとする姫川先輩を新里先生と他の部員が必死に抑えて、あとは……酷い罵り合いでした。美術室が荒らされていたことや部費が盗まれたことは脇に追いやられ、普段のお互いの態度や作品のこと、果ては交友関係や、家庭のことまで……。最初は他の部員たちもどうしてよいか分からず言い争う二人を見ていることしかできませんでしたが、やがて一年生の水戸部さんが西原先輩を支持する声を上げました。西原先輩や月見里部長と親しくなされていた彼女もまた姫川先輩のことを快く思っていなかったようです。水戸部さんは部活動に対する姫川先輩の態度を厳しい口調で非難しました。しかし、水戸部さんが西原先輩の味方につくと、今度は姫川先輩を擁護する意見が出始めます。佐治先輩のように、日ごろから姫川先輩と仲良くされていた方たちです。水戸部さんは佐治先輩らの反論を受けるとさらに反論し、その反論がまた反論を呼びました。そうして、お二人の争いは美術部全体にまで発展していったのです。 月見里部長が指摘したように西原先輩の主張はとても乱暴なものでした。でも、きっと彼女も不安だったのだと思います。だから目に見える敵を欲したのです。しかし、姫川先輩を槍玉に挙げたのは普段から彼女に対して不信感を抱いていたからです。それは姫川先輩も同じでした。彼女の怒りは当然のものですが、根底にはやはり西原先輩や月見里部長に対する日々の不満があったのだと思います。 西原先輩が姫川先輩を疎ましく思っていたのは部活動に非協力的だったからでしょう。姫川先輩は姫川先輩で西原先輩たちに見下されているように感じていたのかも知れません。結局、西原先輩も姫川先輩も普段は何事もなく過ごしているように見えて、心の底では互いを嫌い合っていたのです。 私は彼女たちの争いを前に膝を震わせることしかできませんでした。止めに入る勇気などありません。ガラスを引き裂くような罵声が響くたびに頭が朦朧として、授業中なのにどうしてこんなところにいるんだろうと、そんな考えばかりがぐるぐると巡っていました。新里先生や教頭先生ですら場の雰囲気に呑まれているようでした。しかし、ヒステリックな状況の中でも、やはり冬子だけは何の反応も示していませんでした。さすがにおかしいと思いました。いくら冬子でもそこまで無関心でいられるはずがありません。まるで心ここにあらずといったような、一人だけ違うものを見ているかのような……。事実、冬子の目は眼前の争いではなく、どこか別の一点へ向けられていました。私は言い知れない不安に駆られ、冬子の視線を追いました。辿った先には準備室の入口があり、半開きになった扉から二つの人影が出てくるところでした。神坂さんと中山さんです。私はお二人の姿が見えなくなっていることにそのときになってようやく気が付きました。 「あの、ちょっといいですか」 神坂さんが皆に呼びかけましたが振り向いたひとはいませんでした。神坂さんは両手を口に添えてさらに大きく声を張りました。 「ちょっといいですかあー!?」 二度目はさすがに聞こえたようで示し合わせたように全員の視線が神坂さんに向きました。神坂さんは一身に注目を浴びて緊張しているようでしたが、震える手を真っ直ぐ伸ばし、皆に見えるよう開きました。 「準備室で、こんなの見つけたんですけど」 それを見たときの冬子の顔は今でも忘れられません。蜘蛛の巣に絡めとられた蝶に表情があるとするなら、きっとあんな顔になるのでしょう。私もまた制服の下に汗が滲むのを感じていました。 「はあ……!? なに、それ? それがなんなのよ?」 佐治先輩が神坂さんに詰め寄りました。 「その、これ。何か手がかりがないか美星ちゃんと準備室を探してて……」 「床に落ちてたんです。鍵が保管されてる机の下くらいに。これって先生の持ち物ですか?」 新里先生は自分への問いかけだとは思わなかったようです。神坂さんの掌をしばらく呆然と眺めていましたが、皆が自分の答えを待っていることに気が付くと慌てて首を振りました。 「いや、違う。見たこともない」 神坂さんが質問を重ねました。 「昨日、準備室に入ったときもなかったんですよね?」 「そんな目立つものなら気付くだろう。……なかったはずだ」 皆が一斉にどよめきました。 「じゃあ、それって犯人が落としたものってこと!?」 「うそー!?」 「誰か見覚えないの?」 「私どっかで見たことあるかも」 皆、先ほどまで喧嘩していたことなどすっかり忘れてしまったかのようでした。西原先輩と姫川先輩すら無言で記憶を辿っていました。教頭先生は結論を急ぎ過ぎないよう皆を諫めましたが、どう捉えるべきかご自身も判断に迷われているようでした。神坂さんがタイミングを見計らって言いました。 「私もつい最近どこかで見た覚えがあるんです。教室か、この美術室で。確か誰かのバッグについていたと思います。ここ見てください」 神坂さんが摘まんだそれを指差しました。 「ここで紐が切れてるでしょう? 多分机の角に引っかけて先だけ取れたんじゃないかと思うんです。犯人がこのことに気付いていなければ、もしかしたら犯人のバッグにはまだ元の部分が残っているかも知れません」 神坂さんの一言に皆がギラギラと辺りを見回しました。教室へ向かわず直接美術室に来た方たちのバッグが多くあったからです。犯人を吊し上げる役にはなりたくないのか誰も動き出そうとはしません。ですが、それも時間の問題のように思われました。 冬子は、ずっと下を向いていました。室内は寒く暖房なんかもかかっていないのに、汗を流し、唇を震わせて……。冬子もまた美術室にバッグを持ち込んでいた一人でした。私の位置からも冬子の足元にあるそれが確認できました。 ……もうお分かりでしょう。神坂さんが準備室で見つけた『犯人の手がかり』こそ私が冬子の誕生日に贈ったとんぼ玉の根付だったのです。 小春さんはそこまで話すと沈むように沈黙した。足元に伸びた枝葉の影はこの世界の恐るべき秘密を知っているかのように神秘的で複雑な形をしていた。 今日もまた今日が終わろうとしている。 少女の肌は夕陽で照らされ、唇は赤く艶めいている。細い身体を流れる髪だけが果てまで深く、音のない色をしていた。 彼女の瞳は小箱に横たわるとんぼ玉に注がれていた。半年前、荒らされた美術室で見つかったという、親友へ贈ったプレゼント。つまり、 「あなたは冬子先輩をかばったんだ」
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