なぜ冬子がこんなことをしなければならなかったのか。そんな疑問は冷静になってから浮かんでくることです。当時の私に余裕などありませんでした。何とかしなければ、何とかしなければ冬子が犯人扱いされてしまうと、ひたすらそれのみを恐れたのです。ですが、興奮した皆が納得する理由などすぐには思い浮かびません。下手に話を切り出せば冬子の立場が危うくなってしまうだけでしょう。何よりも沈黙する冬子がいつどのように動き出すのか私には全く判断が付かなかったのです。私は冬子が堂々と名乗りを上げて自ら疑惑を晴らしてくれることを期待しました。確かに自分が落としたものだが美術部荒らしの件とは何も関係はないと、そう断言してくれることを願ったのです。しかし、いくら待てども冬子はうつむき、貝のように口をつぐんだままでした。裁きの時をじっと待っているようにすら見えました。ですから……私にできる最善のことは、皆の注目が冬子に向く前に私が罪を被る以外にないと、そう考えたのです。 私は結論付けるなり……右腕を振るい、手近にあった窓を叩き割りました。ガラスの割れる大きな音と、何人かの悲鳴が響きました。冬子も、先生方も、誰も何が起こったのか理解できない顔をしていました。私は皆が呆気に取られている隙に神坂さんに詰め寄り彼女を突き飛ばしました。血の滴る手で落ちたとんぼ玉を拾い上げ制服のポケットに入れると、あとは……室内にあるものを掴んで投げたり、叩き付けて壊したりしました。私はすぐに先生方や他の生徒に抑え込まれましたが、それでも力いっぱい抵抗しました。完全に身動きが取れなくなったあとも、皆のことを思い付く限りの言葉で罵倒しました。夜中に教室を荒らしたのは私だということ。部費を盗んで泥棒の仕業に見せかけようとしたこと。日頃から部員たちの態度が気に喰わなかったこと。上手く絵が描けずに苛々していたこと。何もかも壊してしまいたい衝動に駆られたこと。……聞くに堪えない雑言の数々が滑るように口から溢れました。……ふふ、嫌になりますね。私、月見里部長や西原先輩のこと、姫川先輩や神坂さんのことだって嫌いじゃないと思っていたんです。なのに彼女たちを罵る言葉が止まらなくて……、止まらなかった。結局、私も憎しみをぶつけ合う他の皆と何一つ変わりはなかったんです。 幸い、私のバッグに根付が付いていないことには誰も気が付きませんでした。あれだけ暴れたのですから失念してしまうのも無理はありません。私は、保健室で傷の手当てを受けたあと生徒指導室で先生方から聴取を受けました。私は何を何度訊かれても先ほど言ったようなことを繰り返し、部費も既に使ってしまったと主張しました。先生方に確かめる術はありません。本来は保護者が呼び出される場面なのでしょうが生憎唯一の肉親は海外です。7時を過ぎる頃には先生の尋問からも解放されました。 外はもうすっかり暗くなっていました。手の傷は浅く跡も残らない程度のものでしたが、じくじくと痛みが収まらないのはとても不快でした。包帯を巻いた手でとぼとぼと自転車を押していると道の前方に冬子が立っていることに気が付きました。冬子は私を見るなり足元に茶封筒を投げつけてきました。 「お前が盗んだ金だ」 「冬子」 「まったく、随分な言い草だったな。自分の絵に満足できなかった? 美術部が低レベル過ぎてムカついてたって? その低レベルな連中の中には当然私も含まれているんだよな。確かに、お前の絵で満足できなければ私の作品なんて落書きにもならないだろうよ」 「冬子、違うの。私、そんなつもりで言ったんじゃない」 冬子は私との距離を大股で詰めました。 「無価値な私を哀れんでかばってくれたんだろ? ありがとう。図に乗るなよのどか。お前なんかずっと私の後ろを追いかけてきた鈍間のくせに」 「本当に、冬子がやったことなの? どうして、あんなことを」 「それが分からないほどの間抜けか?」 冬子は私の制服の襟を掴み、ぐっと引き寄せました。勢いでサドルから手が離れ、自転車が地面に倒れました。 「嫌いだからだ。ずっと嫌いだった。大した絵も描けないくせに偉そうな口を利く西原も、能無しも姫川も、月見里も……、お前に劣る自分も、自分の不甲斐なさも! 嫌いで嫌いでどうにかなりそうだった!」 冬子は口の端を歪めました。自らの胸をナイフで刺し貫くような、痛々しい笑みでした。 「美術展の審査員が私の絵を見てなんて言ったか教えてやろうか? 何も言わなかった。お前の絵は言葉が出ないと絶賛したのに私の絵はただの一瞥をくれただけで一言の評価もなかったんだ。はは! 笑えるだろ? 笑えよ。私の十年には言葉一つの価値もなかった」 「……偶然よ。たまたま上手く描けただけで、私が冬子に敵うはずなんてない」 「それが侮辱だと言ってるんだ!」 叫びが叩きつけられました。 「一年半だぞ!? たった一年半でお前は私の十年を無意味なものにしたんだ。培ってきた技術も、先生から叱られたくやしさも、やっと得られた評価も! お前の絵の前では何の意味もなかった。どうして許せる? どうやって認めろと言うんだ!?」 冬子は背を丸め、懇願するように声を震わせました。 「教えてくれ、のどか。私はこれからどうすればいい……?」 言葉に詰まりました。 冬子が、どれほど絵が好きか。どれほど努力を続けてきたか。誰よりも近くで見てきた私が誰よりも深く知っています。だからこそ、分からなかったのです。分かるはずもありません。私は、冬子が積み重ねてきたことを、何一つ経験してこなかったのですから。 「私は、描きたいものを描いてきただけだから」 瞬間、襟を掴む冬子の手から力が抜けていくのを感じました。絡まっていた指がするりと離れ、腕がだらりと垂れ下がりました。まるで、糸が切れた人形のように。 冬子は後ろへ一つ二つよろめき、怯えた瞳をこちらに向けました。冬子はさっと背を向けると「もういい」と吐き捨てました。私は去ろうとする冬子を呼び止めました。 「冬子は充分に上手よ。これからだってもっと上手くなる。だから一度認められなかったからって、そんな気に病む必要ないじゃない。また来年がんばればきっと……」 冬子は、心臓がきりりと痛むほど無言で立ち尽くしていました。やがてその崩れそうな後ろ姿から冷淡な声が返ってきました。 「お前はもう喋るな」 「ふゆこ……」 「嫌いだ。お前も、お前の絵も。二度と見たくない。二度と私の前に現れないで。お願い。これ以上……、私を辱めるのはやめて」
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