「今日限り絵画は死んだ」 ベンチに腰かけた冬子先輩がおもむろにそう宣言した。いつもと変わらない唐突な口調。唐突な話題。違っているのは俺も先輩も美術室ではなく私服で校外にいるという点だ。 今の時期はどこで息を吸っても清々しさが約束される。洗われた心で景色を眺めると、広場を通り過ぎていく全ての人がこの開放感を共有してくれそうな錯覚さえ覚える。 そんな爽やかな朝に舞い込んできた突然の訃報。絵画さんと親しくなかった俺には何を言えば正解なのか分からなかったが、恐らくは喜ばしいことではないだろう。 「それは……、お気の毒に」 「歴史画家ポール・ドラロシュの言葉だ。彼は初めて写真を見たとき、そう嘆いたと伝えられている」 お悔やみの言葉を全く無視して先輩が続けた。よく分からないが最新のニュースではないらしかった。 「かつて識字率がまだ低かった時代、絵画は文盲の民衆に聖書の教えや神話のアレゴリー、支配者の権威を示すメディアとしての役割を担っていた。神性を顕現させる依代の役目を果たしていたと言い換えてもいい。そこに求められてきたのは真に迫る再現性。見る者の心を揺さぶり、思想すら支配し得るリアリティーだった。古来より画家たちはリアリティーを得るために人体を切り刻み、遠近法をはじめとする様々な技法を編み出してきた。 しかし、十九世紀に写真技術が登場すると絵画の在り方は大きく変容する。絵画のように膨大な時間をかけずとも対象を写し撮る即時性。そして、何よりも画家が追求し続けてきた再現性という点において写真は絵画のそれを遥かに上回っていた。写真の普及とともに絵画の需要は減少し、多くの画家たちがその職を失った。筆を捨て写真家に転向した画家たちも少なくなかったという」 まるで朗読を命じられたかのような話だったが、先輩の手に教科書は見えなかった。両膝の間で手を組み、地面に落ちた鳥の羽根を眺めていた。 「現実を映し出す媒体として、より上位の存在が現れたとき、絵画はその存在意義を失いかけたんだ」 木々の葉にろ過された陽射しが先輩の姿をまだら模様に彩っていた。さながら一枚の絵画のように。 小春さんと話をした翌日の放課後、俺は冬子先輩に根付の写真を見せた。先輩は「ああ」と驚くでもなく呟き「やっぱりあのときだったか」と自分が落とした根付であることを確かに認めた。 「探しても見つからなくて諦めてたんだが、そうか、あのときの男が」 そして、神坂たちの誤解を解かないで欲しいと小春さんが訴えていると伝えると、表情を微かに曇らせ、 「あいつはまだそんなことを言っているのか」 と辛うじて分かる程度に嘆息し、 「だが、あいつの立場ならそう主張し続けるしかないのも確かだろうな」 と俺の知らない事情を汲んでくれたのである。 入学してから一月程度の付き合いだが、冬子先輩が不要な手間を好む人ではないことは知っている。相談しても断られるのではないかと半信半疑だった俺は、小春さんの言うとおりになったとは言え、それでも意外に感じざるを得なかった。 「だが、私が付き合うのはお前とあいつの小芝居までだ。モデルの話は断るし、写真の根付も返して貰うぞ」 先輩は底冷えするような声で念を押した。 返すも何も根付は最初から冬子先輩のものだし、先輩の首を縦に振らせることまでは嵐山さんの依頼に含まれていない。あとは先輩と嵐山さんの間で交渉して貰えば済む話だった。 ただ一つ、小春さんの主張と立場とは一体何なのか。口に出せないその疑問だけが頭蓋に焦げ付いて剥がれなかった。 そして、さらに二日たった土曜日の朝、俺は先輩と一緒に嵐山さんが現れるのを待っていた。待ち合わせ場所は霧代中央公園。約束の時間までの十数分を俺たちは木陰のベンチで消化していた。 「存在意義がなくなって、そのあと、どうなったんですか?」 写真の登場によって絵画が無用の長物になったところまでは聞いた。 先輩は音声ガイダンスのようにすぐに答えをくれた。 「当然だが写実を追求した絵画というものは主流ではいられなくなる。何しろ追い求める先にあるものが別の形で現れてしまったんだ。絵画は再現という在り方から離れ、新たな道を模索せざるを得なくなった。これには識字率が高まり、メディアとしての役割を担う必要がなくなってきたことも関係している。絵画は公から個人のものになり、こう描くべきという束縛から解放された。芸術家たちは各々が自由な発想で表現を探求し始め、やがて印象派が生まれ、キュビスムが生まれ、現代美術の流れが始まる。現代美術に解釈の難しい作品が多いのも何も奇をてらうためだけじゃない。根底には写実を拒絶し進化し続けてきた近代芸術の文脈があるんだ」 ふうんと俺は分かったような返事をした。 「意外と根深い話なんですね」 「昔も今も写実絵画は大衆にも理解しやすい。だが現代美術においてはもはや古典の分野だと言っていいだろうな。……藤宮、あれがそうか」 促されて広場の向こう側を見ると茶髪の女性が満面の笑みで手を振っていた。隣にはすらりとした背格好の男性。嵐山さんと風花さんだ。待ち合わせの五分前だった。 近付いてきた風花さんは、いかにも休日のテンションで片手を上げてきた。 「ごっめんねえ! 折角の休みなのに。待ったんじゃない?」 「いえ、十時ぴったりですよ。それより例の物は持ってきていただけたんですか?」 ベンチから立って二人に近付いた。 「ああ、ここに」 と嵐山さんはバッグから茶封筒を取り出し蓋を開けた。口が細いので中は見えなかったが、確かにそこに根付があるのだろう。 「では、梅女の小春さんとやらに返しておいてくれ。頼んだよ」 「確かに。嵐山さんこそ気を付けてくださいよ」 「もちろん。最初から他人のプライバシーを曝すつもりなんてないよ。安心してくれ」 これで根付の本当の所有者が神坂に伝わることは防げるはずだ。 俺は差し出された封筒を受け取りバッグに収める。嵐山さんの隣で風花さんがにこにこと笑っていた。 「まさかこんなに早く見つけてくるとはねえ。しかも、ラシヤマ先輩のエロイ目的まで見抜いちゃうなんて。藤宮くんって結構デキる子?」 一方の嵐山さんはばつが悪そうな顔で頭を下げた。 「騙すような真似をして済まなかった。恥ずかしい限りだ。しかし、俺にとっては人に任せられない大切な交渉だったということもどうか理解して欲しい」 「別に責めやしませんよ。嵐山さんがそれだけ本気だってことでしょう?」 「君にそう言って貰えると助かるよ」 俺は終始お使いをしていたに過ぎない。損を被ったわけでもない。無くなった根付は先輩の元に戻るのだし、怒る理由など何もない。 それに、昨日ネットで調べたのだ。去年の霧代美術展の応募作品を含め、嵐山さんが撮影したとされる写真が数点検索に引っかかった。嵐山さんがどれだけ真剣に写真に取り組んでいるのか。理解するにはそれで充分だった。 「ところで」 嵐山さんが冬子先輩に目を向けた。冬子先輩はベンチから冷ややかな視線を送っていた。 本題が始まるのだ。 先輩はモデルの話を断ると断言した。嵐山さんにとって厳しい交渉になるのは間違いない。だが、分野は違えども芸術を志す者同士。熱意を以って頼み込めば先輩の氷を溶かすことも、あるいは……。 固唾を呑んで展開を見守っていると、 「こちらの女性は藤宮くんの彼女かい?」 「は?」 「あ?」 嵐山さんの口から奇妙な言葉が飛び出した。二重の意味で奇天烈な発言だった。表情はほとんど動いていないはずなのに、冬子先輩がすごく怖い顔をしていた。 「綺麗な子じゃないか。機会があったらモデルをお願いしたいくらいだよ。一体いつから付き合ってるんだい? 入学してから?」 「え? いや……え?」 俺は先輩と嵐山さんを交互に見比べる。嵐山さんは先輩から睨まれていることに気付いていない。お菓子を待ち切れない子どもみたいにそわそわと周囲を見回した。 「それで……くだんの柊さんはどこに? 今日連れてきてくれるんじゃなかったのかい?」 「いや、あの」 「ん? 来てないの?」 嵐山さんは首だけを俺に向けて動きを止めた。風花さんも笑みを張り付けたまま小首を傾げている。くだんの柊さんはえらく不機嫌そうにしていた。ええと、 「何言ってるんですか?」
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