造花のうた
第二話 風の花、嵐の山(2)

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 始まりは二日前だった。  月曜日の放課後、俺はいつものように特別教室棟の籠の中で単行本のページをめくる作業に勤しんでいた。教室の真ん中にはキャンバスと向き合う冬子先輩の姿。日暮れ前の美術室は少しだけ暗く、その薄暗さにまた言い知れない落ち着きを感じてしまう。開け放した窓からは合唱部の歌が流れ、長々と耳を傾けてしまうこともしばしばだ。美術部における日常の光景だった。  とは言え教室の時間が止まっているわけでもない。眺めている漫画は微妙に面白くない長編シリーズが終わって新章に突入したし、下書きを終えた冬子先輩は白衣を纏って色塗りに着手していた。  思えば油絵の作業を近くで見るのはこれが初めてだった。溶き油と呼ばれる小瓶は話に聞くほどの悪臭はせず、むしろ芳香剤のような香りがして嫌いではないと思った。先輩もこの匂いは好きらしい。ただ長く嗅いでいると気分が悪くなることもあるそうなので、忠告に従い窓の側まで退避していた。  机の上には目にしたことはあるが使い道のわからない道具が並べられていて壺やらナイフやら全体的に銀色だった。先輩はたわしでこすりたくなるほど濁ったパレットの上へ絵具を複数捻り出し、それらを溶いて作った水色をキャンバスにベタ塗りしていた。輪郭は全く無視されていた。せっかく描いた下書きを塗り潰してしまうのかと尋ねると、インプリなんたらという答えが返ってきた。 「インプリミトゥーラ。有色下地。単に下塗りとも言う。あらかじめ背景の暗さと同程度の中間色を置き、その色を基準に、より明るい色、もしくは、より暗い色を重ねることで効率的に立体感を表現する技法だ。下地の発色によって色に深みを出す効果もある」  とのことだが何のことだか俺にはさっぱり分からなかった。キャンバス全体を単色で染めてしまっては後々色が滲んでしまうのではなかろうかと疑問に感じたが、きっとそうはならないのだろう。それより気になったのは先輩の手元にある写真だった。 「人物画って写真を見ながら描くんですね。てっきりモデルさんにお願いするもんだとばかり思ってました」  先輩は写真を一瞥した。 「そうすべきだという人もいるし、必ずしもそうではないという人もいる。写実画家の中には写真を使って描く人が多いかもな」  写真のように本物そっくりに描くことを写実画と呼ぶらしい。先日見て驚かされたスケッチの数々もそれに分類される。彼女も写真を見ながら絵を描くことがあるのだろうか。 「だが写真をそのまま写せばいいというものじゃない。写真は一見現実を在りのままに写し取っているかのように思えるが実際の人間の視覚とは大きく異なっているし、どうしてもやはり平面的だ。実物を見て感じ取った質感や触感、色彩や空間、作者が思い描く理想のイメージ。それらを再現し表現しなければ中身のない表面的な絵になってしまう。存在を描き出すことが重要なんだ。  できることなら私もモデルを前にして描きたい。だがモデルを承諾してくれる人間は中々いない」 「恥ずかしいからですか?」 「それもあるだろうが、何より作品が完成するまでの間、長期に渡って拘束されることになる。専属のモデルや身内を別にすれば、他人のために私生活を犠牲にしてくれる人間は稀だし、作者の眼鏡に適うモデルとなればさらに一握りだ。静物画や風景画を選ぶ人の中には人物画が描けないから仕方なくという人も少なくない。私も去年は部員同士で互いを描いたりしてたんだがな。ところで」  先輩は滑るように話題を変えた。 「お前、小春には会ってきたのか」 「ああ! そう言えば!」  思い出した勢いのままに椅子を蹴って立ち上がった。 「先輩、あの絵、全然小春さんのじゃないじゃないですか! 人をあんなとこまでパシらせといてひどいですよ!」  糾弾の声を浴びせかけても先輩は他人事のような顔で筆を振った。 「そうだったのか?」 「そうですよ! あの険しい山を登るのに太腿の筋繊維がどれだけ犠牲になったことか」 「お前がひ弱なだけだろう。小春はその山を毎日登り下りしてるんだぞ」  それを指摘されるとぐうの音も出なかった。大人しく座り直した。  俺の抗議など端から聞く耳を持っていないのだろう。先輩は呆れるでも悪びれるでもなく話を先に進めた。 「それで、あの絵はお前が持っているのか?」 「いえ、小春さんが預かってくれました。なんでも友達の絵だとかで」  先輩はふうんと素っ気ない反応を見せた。誰のものとも分からない絵の行方には興味がないらしかった。またさらりと話題を移した。 「で、小春は何か言ってたか」 「何かって、何をですか?」 「話くらいはしたんだろう」  人に譲り渡した花を巡って一幕あったが報告するほどのことではないと思った。あとは小春さんの両親について教えて貰い、着物の理由を教えて貰った。つまりは世間話だ。 「ああ、そう言えば何枚か絵を見せて貰いました」 「絵?」  先輩はキャンバスを塗る手を止めこちらを向いた。久しぶりに横顔以外の先輩を見た気がした。 「どんな絵だ?」 「どんなって言われても口じゃ説明できませんが……ええと、スケッチです。花とか、虫とか。あと描いてる途中の風景画があるとか言ってたかな。そっちは見せて貰えませんでした」 「風景画……」 「……小春さんの絵、とんでもないすよね」  存在を描き出すことが絵画にとって重要ならば小春さんこそその肝を掴んでいると言っても過言ではない。存在だけでなく、存在を包み込む世界すら想像させる描写力。見せて貰ったのはスケッチだけだったが、話からするに彼女の本分は油絵だ。モノクロですら魅了されるあの世界が色彩で満たされたとしたら、それは一体どれほどの……。 「何ニヤニヤしてるんだ気持ち悪い」  冷めた声で現実に引き戻された。頬杖を付いている間に先輩は既に作業に戻っていた。だが、顔が綻ぶのも仕方がないというものだ。小春さんの絵は観る人を幸せにする。  もしかしたらどこかの展覧会に出展するつもりなのかも知れない。時と場所が分かれば観に行ってみるのも良いだろう。それは、きっと有意義なことだ。  芽生えた楽しみに胸を弾ませていたら、建物全体がズシンと揺れた。玄関の開閉音だ。 「ゆいちゃんですかね」 「ゆいちゃんだろうな」  程なくしてペタペタとサンダルの音が聞こえ教室の引き戸が勢いよく開いた。 「おっす、柊。今日も頑張ってるな」  と現れたゆいちゃんは軽快に言い放った。手に一枚のプリントを持っていて、あれは何だろうと目を凝らしているうちに先輩の後ろにある空いた丸椅子にどかりと腰を下ろした。机に両肘を突いて足を投げ出す姿には慎みも何もあったものではない。ゆいちゃんは先輩の背中に視線を投げた。 「今日は下塗りやってんのか」 「粗描きまでは済ませておこうかと思っています」 「根は詰めるなよ。私は新里先生みたく遅くまで付き合ってやれんからな」  新里とははじめて聞く名前だった。西高の教師を全員覚えているわけではないので確信は持てなかったが、会話の流れから察するに三月に転勤したという美術教師のことではないだろうか。想像を巡らせていると、机越しにゆいちゃんと目が合った。 「藤宮、先週はすまなかったな。絵のほうはちゃんと持ち主に届けてくれたか?」 「んー、届けたような届けなかったような」 「どっちだよ」 「先生こそ試合はどうだったんすか?」  ゆいちゃんは、机に背を預けたまま後頭部を後ろに反らし、へそ丸出しのだらしない格好で投げやりに声を張った。 「負けた負けた! 大負けだった。弱えーなあ、うちのバスケ部。育て甲斐あるわ」  ゆいちゃんは大口を開けてからからと笑った。でも、口振りや態度とは裏腹に声にはどこか気鬱な響きがあった。機嫌が悪いとはまではいかずとも、試合の結果を軽く受け止めてはいないような調子。天井に向けて溜息を吐いた。 「インハイの予選が来月からだがちょっと間に合わんだろうなあ……。三年には申し訳ないが本番は来年になるだろう。せめて引退までに後輩に示しがつくような姿を見せて欲しいところだが」  負けては示しがつかないだろう。そう言ってやると、ゆいちゃんは身体を起こし「そうでもないさ」と口の端を釣り上げた。 「まあ、いずれにしろ今まで以上にこっちに顔を見せる時間がなくなるかも知れん。お前たちを蔑ろにするつもりはないが、迷惑をかけることにはなると思う」  そんなことは初めから分かり切っていたことだった。もっとも先輩は先輩で勝手に活動しているし、俺は俺で勝手に活動していないので顧問が来ようが来まいが影響があるわけではない。どうぞご自由にと漫画に目を戻すと、 「そんなわけで藤宮。今日はこんなん持ってきた」  と先ほどから手に持っていたプリントを俺に向けてぺらりと示した。表には、何を伝えたいのかさっぱり分からないが、とにかくカラフルでポップにデザインされたアルファベットのロゴが印刷されていた。字体がかなり崩されていたので、すぐに読むことができなかった。 「む、し……むしろ、ある、て?」 「mushiro art exhibition.霧代美術展、のチラシ。ここに書いてあるだろ?」  ロゴの下に明朝体で併記されていた。霧代美術展。 「ってなんですか?」 「霧代近辺に在住する美術愛好家たちが毎年十一月に開催している公募展だ。主催者の一人に市出身の某芸大教授がいるから、その人脈で審査員にも実績ある芸術家や美術評論家が名を連ねている。霧代の名を冠してはいるが参加資格に在住要件はなく全国どこに住んでいても作品を応募することが可能。年齢要件もなし。募集期間は四月の初旬から。この地方で開かれる美術展としては年々規模を拡大させつつある」 「解説ご苦労。よくある話なんだが、元々は県展の運営に反発した県内芸術家たちが独自の美術振興と若手育成を掲げて立ち上げたものでな。確か柊は去年出展したんだよな?」 「画塾の師が実行委員会のメンバーですから。入賞などはできませんでしたが」 「なに、公募展の審査なんざ長老どものさじ加減だよ。どうってことないさ」  俺からすればそんな展覧会に出展できるだけでも大したものだ。考えてみれば俺は完成した冬子先輩の絵を一度も観たことがなかった。感情の起伏をローラーで均したようなこの人が一体どんな絵を描くのか。少し気になった。 「で、その霧代美術展がどうかしたんですか?」 「藤宮、お前この公募展に出展しろ」  そう言われたとき最初はゆいちゃんの提案を自然に受け入れていた。直前まで先輩の出展について考えていたからだろう。ああ先輩今年も出展するんだなあ、すごいなあと他人事に思っていたところでようやく違和感を覚えた。ゆいちゃんが真正面から俺のことを見ていたからだ。額に手を当てしばし黙考した。 「あの、もう一回言って貰えませんか?」 「だから霧代美術展に出展しろと言ったんだ」 「誰が?」 「お前が」 「バカですかあんた」 「教師に向かって馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」  俺は思わず手で机を叩いていた。 「できるわけないでしょうが! 十一月つったらもう半年しかないんですよ。そんな玄人の展覧会に授業でしか絵を描いたことがない俺が? 馬鹿らしい!」 「開催が十一月ってだけで締切は九月末だけどな」 「余計無理だわ!」  ゆいちゃんは腕と足を組んで背筋を直ぐと伸ばした。その顔が存外に真面目だったので俺は息を呑んだ。ゆいちゃんは俺を落ち着かせるように声を抑えた。 「何も今年そうしろと言ってるんじゃない。バスケ部の連中と同じだ。来年に向けてゆっくりと学んでいけばいいんだ。それが無理なら再来年だって構わない。そのペースなら私だって付き合ってやれる」  そして、人差し指を立て、 「とにかくまずは始めることだ。そのためには目標を定めておいたほうがわかりやすい」 「だから、どうして俺がそんなこと……」 「自分でもわかってるだろ?」  こともなげに言った。  俺は反論をしようとした。しかし口を開こうとした途端、自分が何を言おうとしていたのか忘れてしまった。俺はその場で沈黙した。舌を置く位置がすっかり分からなくなっていた。  ゆいちゃんは丸椅子から立ち上がると、机越しにパンフレットを差し出してきた。安っぽい木机の上で楽しげなデザインが参加者を手招いていた。霧代美術展。  何も言えず、動くこともできず、蛙のようにパンフレットを凝視する俺を見てゆいちゃんがふっと笑った。 「別に今すぐじゃなくても構わない。時間はある。考えてみろ。あとで悔いることがないように。それに入賞者には部門毎に賞金も出る。想像しにくいのならそれを目当てにやってみるのもいいさ。最低ラインでも十万円。欲の出る数字だろ?」  パンフレットに手を伸ばさず、一言「考えてみます」とだけ答えた。

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