「今日は画材を買いに行くぞ」 いつもの唐突な口調で告げられたのは昼休みのことだった。ぶどうパンとクリームパンを片手に日野と渡り廊下を移動していると向かいの校舎から歩いてくる冬子先輩の姿が見えた。すれ違いざまに頭ぐらいは下げておこうかと歩みを進め、次の一歩で頸椎を傾けんとしたところで、ひたと立ち止まった先輩がそう言ってきた。俺は鳩みたいに首を出して引っ込めてから応答した。 「……行けばいいじゃないですか」 と返したのは何も反抗心からではない。至極単純に先輩であれば俺の都合に構うことなく一人で勝手に出かけてしまうだろうと思ったからだ。 「ホワイトが少なくなっていてな。他に不足気味のものがあれば買い足そうかと考えている」 「美術室に顔を出さないって話ですか?」 「折角だから、坂吾通りの貸画廊に寄って展覧会を観ていくつもりだ」 「へえ、展覧会。そんなのやってるんですね」 「正門で待っていろ。16時45分には学校を出るぞ」 「はあ」 先輩は最低限の情報だけ残すと回れ右をして元来た校舎へ姿を消してしまった。 廊下に立ち尽くしたまま日野に問うた。 「……なあ、日野。あれはもしかして俺に付き合えと言っていたのか?」 「もしかしなくてもそうだと思うよ」 先輩のAIに不具合でも生じているのではないだろうか。やりたいことがあれば一人で勝手にやってしまうのが冬子先輩だ。買い物をしたければ買い物をするし、宇宙に行きたければ宇宙を目指す。自らの行動に俺を付き添わせるなど考えられない。 「十中八九荷物持ちでしょ。色々買うものがあるから持てってことだよ」 「ああ、なんだ」 そういう傍若無人さなら納得ができた。 「まあ、彼女が君に気がある可能性もゼロではないかもね」 UFOの存在を信じるかと問われたような顔で日野が肩をすくめた。俺も特に信じているわけではなかった。 「でも、展覧会を観てから買い物をするんでしょ? 客観的に見ればまさしくデートと言えるんじゃないかな。羨ましいよ。あんな美貌の女剣士みたいな先輩と二人きりの時間を過ごせるなんて」 「暗殺者の間違いだろ。感情のない殺戮機械として育てられたとかそういう設定の」 「だったら主人公の愛で失われた感情を取り戻してあげないと」 全然上手くねえよと、日野の肩を肘で小突いた。 そんなわけで放課後、正門の隅で冬子先輩が現れるのを待っていた。俺とは違ってルーズな人ではないので約束の時刻には顔を見せてくれるだろう。 下校する生徒の流れをぼんやり眺める。授業が終わってすぐ帰るのは帰宅部の連中ばかりで、風船みたいにふらふらと校舎から浮き出てくるが、中には会話を弾ませる男女の姿もなくはなかった。充実した高校生活。結構なことだ。 見るからに待ち合わせをしている俺もそういう目で見られているのだろうか。日野がたわけた口を利くからデートという単語をまるで意識していないと言えば嘘になる。だが、相手はあの冬子先輩だと思うと浮き立つ心が途端に冷え込むのも紛れもない本心だった。今日の目的は画材の買い出し。それ以上でもそれ以下でもない。 気分が上向かないのにはもう一つ理由があった。小春さんのことだ。 『冬子も私には会いたくないのだと思います』 寂しげな声が耳から離れなかった。 俺は、小春さんと冬子先輩は仲が良いのだと思っていた。先輩のことを話す小春さんの口ぶりには親しみがこもっていた。先輩は先輩で転校した友達の様子を知りたがっているように見えた。だから、神坂たちと違い小春さんと先輩の関係は悪くないのだろうと、勝手にそう思っていた。だが、小春さんは、冬子先輩もまた自分のことを倦厭しているのだと言う。 (だったらどうして先輩は小春さんの求めに応じたんだ? 感情を抜きにしても協力し合わなければならない利害があるってことか?) 状況を整理するとこうだ。去年の冬に美術部で何らかのトラブルが起こり、退部者が続出した。トラブルに関わりのあった小春さんは神坂たちから疎まれ、冬子先輩もまた彼女とは疎遠になっている。しかし、冬子先輩と神坂の立場も違っていて、先輩と小春さんの間には共通する利害があるらしい。 いや、利害関係と言い切ってしまってよいのだろうか? 感情という点においてすら俺は二人がいがみ合っているとは思えないのだ。 本当のことは当事者でなければ分からない。小春さんが話したがらないから、冬子先輩からも事情を訊けずにいた。 そもそも最近は先輩と話す機会自体があまりなかった。一緒に嵐山さんと会ってからもう二週間近くがたつが、あれから先輩は美術室には幾日も顔を出していない。来ることがあっても三十分程キャンバスの前で座ると黙って独りで帰ってしまう。製作中の画も連休前の状態からほとんど進んでいないようだった。 スランプに陥っているのではないか。 先輩は何も言わないし、見た目普段と変わりはないが、難しい想像ではなかった。まさか絵具不足で作業がはかどらないわけではないだろう。 腕を組んで悶々としていると下校する連中の中に見知った顔が混じっていた。相手もこちらを認めると眼鏡の奥を柔らかくする。 元美術部員の中山先輩だ。 「こんにちは、藤宮くん。誰かと待ち合わせ?」 「……ええ、これから冬子先輩とデートなんですよ」 「ふふ、美術部も男子一人だと大変ね」 冬子先輩を知っているからだろう。中山先輩は俺のジョークを察してくれた。 「この間はごめんなさい。せっかくのお話なのに断ってしまって。藤宮くんの顔に泥を塗ってしまったんじゃないかしら」 「別に泥なんて。根付の持ち主を見つけることが俺の仕事でしたから」 嵐山さんから根付を返して貰ったのが五月三日の土曜。中山先輩には六日の火曜に会って貰うことになり、俺と冬子先輩も仲介役として同席した。中山先輩を呼び出したのは冬子先輩だったが、事情を一切話していなかったらしく、嵐山さんがプロポーズのような勢いで迫ると顔を真っ赤に染めて混乱していた。 「恥ずかしいというのもあったんだけど私も来年は受験でしょう? 時間も中々取れそうになくて」 「二年になるとやっぱ色々大変なんすね」 「藤宮くんもすぐよ。一年なんて小テストに追われているうちにいつの間にか終わっちゃうんだから」 先輩が校舎を見上げる。 「この分だとあっという間に卒業かもね」 光陰矢の如し。送る月日に関守なしか。 言わんとしていることは分からないでもないが、 「そりゃあ先輩。終わっちまえば何もかもむかしの一言ですよ。俺なんか三限目の物理が永遠に続くんじゃないかって不安になってたくらいなんすから」 中山先輩はきょとんとしたあと、くすぐられたみたいに笑った。 「そうだよね。飯塚先生はもう少し喋り方に抑揚を付けて欲しいよね」 「昼飯のあとだと最高なんですけどね」 中山先輩はまた可笑しそうにする。豊かな表情を見せてくれる人だなと思った。同じ先輩でも小春さんや冬子先輩とはまたタイプが違っている。もっともあの人たちが大人びているだけで同年代の女子は大体こんなものだろうが。 「それで、今日は冬ちゃんとどこへ行くの?」 「ああ、絵具を買いに行くそうなんですよ。あと坂吾通りのほうで何かの展覧会を観るとか」 中山先輩は弾むように手を合わせた。 「逆吾通りのギャラリーって言ったらマリオンだよね? その展覧会、私の友達も出展してるんだよ。梅女の美術部の子なんだけど」 「梅女の人、ですか」 心臓が高鳴った。 「うん、主催の『好文木の会』が梅女のOGで構成される団体なの。学校との繋がりが深いから希望すれば在校生の作品も出してくれるそうよ。成沢伊吹って子だから行くなら彼女のも観てあげてね」 成沢伊吹か。 俺が期待していた名前ではない。無論、彼女と中山先輩らは仲違いしているのだから友達などとして紹介されるはずもない。期待だけがどこからか湧いてどこかへと消えた。 そして、改めて不思議に思った。目の前の優しそうな人と、穏和な小春さんとの間に一体どんな確執があるのだろうと。 「あの、中山先輩」 先輩は「なあに?」と首を傾げた。 続きを口にするのが躊躇われた。他人の敷地に許可なく踏み入るようなものだ。喉に息が張り付く。 「先輩は美術部員だったんですよね? 神坂先輩と一緒に」 先輩の整ったまつ毛がほんのわずかに揺れた。 「うん、去年までね。冬ちゃんから聞いたの?」 俺は小春さんからだと返した。彼女の名を出すことにも躊躇を覚えたが、そんなところで足踏みをしていたら話が進まない。核心は次だ。 「良ければ教えてくれませんか。お二人がどうして美術部を辞めてしまったのか」 伏し目がちに問いかけた。機嫌を損ねてしまうかも知れない質問だ。正面から相手を見据えられるほど俺の神経は太くない。 先輩の反応を待った。が、先輩の顔に表れたのは不快でも怒りでもなく上級生らしい鷹揚な笑みだった。緩やかな唇が控えめに動いた。 「藤宮くんって意外と大胆なんだね」 「だ、大胆?」 「だって、普通は上級生のいざこざに首は突っ込まないよ?」 「……すみません」 やはり無神経な質問だったかと肩をすぼめる。と先輩は俺を安心させるように首を振った。 「ううん、そうじゃないの。それでも人に関わろうとするのはとても勇気がいることだから。凄いなって驚いちゃった」 はあ、と気の抜けるような声が出た。 皮肉とも取れる言い回しだったが先輩の口調に非難の響きはなかった。どうやら本当に感心しているらしい。何だか調子が狂う。 先輩が続けた。 「でも、私に訊くってことは小春さんは教えてくれなかったんでしょう? そういう、人が言いたくないことを本人がいないところでこっそり話すのはどうかと思うし、それにフェアじゃないと思うの」 「フェア、ですか」 中山先輩は頷いた。 「私は別に隠すようなことじゃないと思ってるのよ。言い難いことではあるけどね。でも、私は、私と美星ちゃんが見たことしか教えてあげられないわ。小春さんはきっと私たちとは違うものを見ている。それが何なのか最後まで知ることはできなかったけれど……でも、片方の話だけで物事を判断するのはやっぱり違うと思うの。だから、ね」 中山先輩は「分かるでしょう」という顔で俺を見た。駄々をこねる弟をあやすかのような表情に頬が熱くなるのを感じた。 同時に先輩の人柄に誠実さも覚えていた。そして、それゆえに湧き上がる疑問もあった。 「中山先輩は、小春さんのことをどう思ってるんですか?」 神坂は頭から嫌っていた。だが、中山先輩は小春さんの声にも耳を傾けるべきだと言う。 先輩は眼鏡のつるを中指で撫でた。 「……そうね。私は好きだったよ。彼女も、彼女の描く絵も。だから、去年のことは本当に残念に思ってる」 鏡面の奥の双眸に記憶と愛惜が入り混じる。とても触れがたいと思った。 俺は深く息を吸い込む。 「ありがとうございます。色々と不躾なことを言ってすみませんでした」 「ううん、藤宮くんが謝ることじゃないよ。私のほうこそ何も教えてあげられなくてごめんなさい。もし、藤宮くんがどうしても納得できないと思ったら、そのときはまた相談して。私も考えてみるから……あら?」 中山先輩が腿のあたりに手を当てる。俺には、耳慣れない古風な音が聴こえた。琴の音色だ。どうやら先輩の携帯が鳴っているらしい。先輩は俺に一言断りを入れるとスカートからスマホを取り出し耳に当てた。 「はい、もしもし。……うん、学校出るとこ。……うん。え、そうなの?」 中山先輩のスマホは真っ黒なカバーで覆われていて表面に金色の装飾が施されていた。持つ手に隠れて全体像は見えないが、端から覗く形からするにウサギの図柄らしい。 ウサギと言っても、女子が好みそうな可愛い絵柄ではなく、何かのエンブレムのような洗練されたデザインだ。シンプルで趣味は悪くないが、琴の音を着信音にするような先輩には似合っていないようにも思えた。他人から貰ったものなのかも知れない。 「うん……うん、気にしないで。場所は? ……うん、わかった。7時ね。うん、大丈夫。じゃあね」 先輩は一分ほどうんうんと頷いたあと、スマホをスカートに仕舞った。 「ごめんね話の途中に。友達からだった。今日は塾に遅れるって」 先輩の友人のことはともかく、引き留めてしまった手前、先輩自身の都合は気にかかった。 「先輩は時間大丈夫なんですか?」 「うん、始まるまでにはまだ時間あるから。でも、今日はここまでにしておこうかな。そろそろ藤宮くんを冬ちゃんに返してあげないといけないし」 「欲しいのなら持って帰っても構わないぞ」 冷気を帯びた声は背後から届いた。声のほうを向くと冬子先輩が校舎から出てきたところだった。 中山先輩がやれやれといった顔をする。 「そういうわけにもいかないでしょ。藤宮くんがいなくなったら冬ちゃん一人になっちゃうじゃない。美術部がなくなっちゃう」 「ならお前が戻ってくればいいだろう」 冬子先輩は飾り気なく続けた。 「私は別に気にしていない」 その言葉は中山先輩にとっても意外ものだったらしい。先輩は大きな瞳をぱちくりさせた。そして、ふわりと瞼を閉じて開いたあと、折り紙を水で濡らしたような笑顔を見せた。 「ふふ、ありがと冬ちゃん。考えておくわ」 冬子先輩は気鬱そうに首を振る。中山先輩の中では既に答えが出ている。そういう類の返答だった。 中山先輩は俺に向き直ると小さく片手を上げてにこりとした。 「それじゃあね、藤宮くん。冬ちゃんとのデート楽しんできてね」 「あ、はい。色々ありがとうございました」 「冬ちゃんも」 冬子先輩はおざなりに応じる。 そうして中山先輩は下校する生徒の流れに戻って行った。歩道を遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら俺は冬子先輩に話しかけた。 「先輩、中山先輩と仲良いんですか」 「別に。元美術部のよしみで会えば話す程度の仲だ。特別どうという間柄でもない」 普段どおりの先輩だった。普段どおり、感情が読めない。嘘とも。真とも。 冬子先輩に訊きたいことはたくさんあった。でも、中山先輩にああ言われてしまった以上、訊くわけにもいかなかった。蒸し返したい気分でもない。また次の機会でいいだろう。 「じゃあ行きましょうか冬ちゃん」 「誰が冬ちゃんだ」 先輩と一緒に買い物に行く。今日はそれで充分だ。
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