俺も展覧会に来るのは初めてではない。親に連れられて県外の美術展を巡ったことは何度かあるし、小学校の遠足だって県立美術館だった。ただ、芸術から何か学ぶことがあったかと問われれば、申し訳ないと頭を下げる他なかった。 今回は人生で初めて美術部という立場で絵画を鑑賞する。なので漫然と額縁に向き合うのではなく、初心者なりに作品の魅力や伝えんとするところを掴み取ろうとちょっとばかり意気込んでいた。 風景画や人物画といった形のはっきりした作品の場合、俺の試みを果たすことはさほど難しくなかった。心から綺麗だと言える色使い。溜息の漏れる緻密さ。刹那の躍動感。口元が緩んでしまう幸福な表情。懐かしい山郷。哀しく錆びた鉄屑。幻想の海。中には趣味を疑うグロテスクな絵画もあったが、それゆえに刺激的だった。 一方、どういうふうに捉えればいいのか解釈が困難な絵画も散見された。 たとえば、あるものはキャンバス一杯に複数の色を薄く塗り伸ばしているだけの作品だった。波形に塗られたそれは色の付いたもやにしか見えず、さりとてもやを描いているとも思えず、只々俺を困惑させた。またある作品は精一杯好意的に見ても濁ったペンキをぶち撒けているだけだった。 作者の心象を表現したものなのか、何かの象徴なのか。良いものなのか、悪いものなのか。困惑はやがて思考の停止を招き入れる。 赤線を二本引いたキャンバスを見せられて俺は何を言えばいいのだろう? 「わからないか?」 多分引かれた線と同じような顔をしていたのだろう。並んで観ていた冬子先輩が声をかけてくれた。 「……わかりません」 否定する理由は見当たらなかった。先輩は横顔のまま「だろうな」と相槌を打つ。 「私にもわからない」 「先輩にもわからないんですか?」 「わかると思うのか?」 いや、それがわからない。 なので解説を期待したのだが、先輩はそこで口を閉ざしてしまった。俺は宙ぶらりんのまま鑑賞を再開する。と何点かの作品の前を過ぎたところで、 「写真の登場によって写実絵画が主流ではいられなくなったところまではこの前に話したな」 と先輩がまたぽつりと語り始めた。いつものように、唐突に。 戸惑いつつも、ええと頷いた。 「写実の次に現れたのは印象派だった。印象派というのは、端的に言えば事象を見たときの印象をそのまま描き出そうとするスタイルのことだ。マネやモネと言えば聞いたことぐらいはあるだろう」 さすがの俺でもその程度なら。中学の授業でも習った気がする。 「彼らは写実の流れに立ちながら光や水の一瞬の表情に感心を抱いた。陽光を映し出す泉を描こうにも太陽は刻一刻と位置を変え水面は揺らぎ移ろいでいく。変化し続ける風景を一枚の画面に『再現』するにはどのような表現が相応しいのか。それにはもはや伝統的な写実画の手法では不十分だった。そこで彼らが編み出しのが断続的な荒々しいタッチで風景のエッセンスを抽出する印象派の技法だった。彼らの斬新な筆使いは従来の様式を重んじる批評家や権威者からは酷評されたが、のちにポスト印象派、新印象派と呼ばれるゴッホやスーラのような画家たちに絵画の新たな可能性を提示した」 俺たちの前には林檎とオレンジを奇抜な色使いで描いた静物画が展示されている。 「そんな印象派から始まり近代絵画は角度や色使い、そして形状を事物のまま『再現』する行為から離れていく。そもそも現実そのままに色を置く必要があるのか。一枚の絵の中で物の角度を揃える必要があるのか。物体を物体として描く必要があるのか。花は花の、人は人の形をしていなくてもいいのではないか。私は私の感じたままに世界の姿を描き出していいのではないか。そんな模索の潮流で生まれたのが抽象絵画だ」 何だかインフレし過ぎて収拾が付かなくなったバトル漫画みたいだな。 「一般的にはワシリー・カンディンスキーが創始者とされているが、彼が抽象絵画を生み出したきっかけとして有名な逸話が残されている。ある日帰宅したカンディンスキーが自分のアトリエに入ったところイーゼルの上に『光り輝く美しい絵画』が立てかけられていることに気が付いた。何が描かれてあるのかさっぱり判別できなかったが、彼はその絵の神秘的なまでの美しさにすっかり魅了され、見入ってしまった。しかし、しばらく眺めているうちにふと気が付いた。これは自分が描いた馬の絵が横倒しになっているだけではないか」 「ふっ」 何のネタ話だ、それは。 「一度馬の絵だと認識してしまうと、以降横向きにしても逆さにしても、『神々しいまでの美しさ』は二度と感じられなかったという。……カンディンスキーの非凡なところはな、その経験を単なる笑い話として済まさず、なぜ自分は形の分からない横倒しの絵を美しいと感じたのか極致まで突き詰めたことだ。彼はこう考えた。『描く対象とは絵画の真の美を表現するためにはむしろ邪魔なだけなのではないか?』 つまり、具象を離れてこそ真の美は現れると結論付けたわけだ。カンディンスキーは抽象絵画という新たな境地を切り開いた革命性によって今も高く評価されている」 先輩は息を継ぐように一拍置いてから、さてと発した。 「そんな抽象画を私が見て理解できるのかという話だったな? 先に話したとおり美術の経験者だからと言って見ただけで分かるというものではない。何しろ作者自身が形を判別できないように描いている。カンディンスキーは色彩と形態によって精神を表現していると言ったそうだが、それも数あるスタンスの一つに過ぎない。抽象によって摂理を表現しようとした画家もいるし、鑑賞者に解釈を委ねるという作家もいる。作者の思想やスタンスを全て把握することが困難な以上、見えるものが同じならば分からないのもまた同じだ。 ただ一つ言えるのは抽象画を含む現代アートにはある種の知識や情報を得ることによって初めて評価できる作品があるということ。そして、私とお前の違いもまたそこにあるということだ。私はそれらが世に現れた経緯を知っている。評価される背景を知っている。見て分からずともそこに許容が生まれる。こういうものがあっても構わない。そういうふうに考えることができる」 先輩はとある作品の前で足を止めた。 「抽象画を前にして戸惑う気持ちも理解できる。きっとお前の中にある『絵画のイメージ』とあまりにかけ離れているからだろう。見慣れないものを目にすれば誰だって困惑する。だが一度その固定観念を捨て、自由な感性で眺めれば、こういう作品だって面白い。そんなふうに思えてこないか?」 見上げたのは展示場の中でも数少ない大型の作品だった。先輩はおろか俺の背丈すら超えているかも知れない。縦長のキャンバス一杯にカラフルな縞模様を描いただけの作品で、まるで色鉛筆だった。タイトルにはこう記されていた。 『世界』
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