造花のうた
第一話 小さな春(2)

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 土曜も午後一時半を過ぎた頃、俺は千数百円のスニーカーでアスファルトを踏み締めていた。右手には本日の目的にして唯一の荷物たるキャンバス。寸法はF30号だそうだが、でかいということ以外、正確な数字は聞いていない。たぶん縦幅80センチはあるだろう。  もうすぐ五月がやってくる。熱さも控えめな過ごしやすい陽気で、風に揺られる新緑がさらさらと波の音を奏でている。こんな晴天なら外を散歩するのも悪い気はしない。コンビニで握り飯でも買って木陰で頬張るのも良いかも知れない。腹を膨らませたあとはベンチのうえでひとねむり。きっと木々の音にいつまでも身を委ねていたくなるだろう。もっとも、 「こんな坂道を登らなくてよけりゃの話だけどな。くそ、まだ着かねえのかよ!」  答えをくれる人は誰もいなかった。    横暴な女二人から体よく面倒を押し付けられた俺は、土曜も昼を過ぎる頃、上げたくもない腰をようやく上げた。自宅のある穏前町から山ノ前へ辿り着くまでには五つの駅を経由する必要がある。沼田、宵納屋よなや、霧代大学前、角寺すみでら、西日、そして山ノ前で所要時間は約二十分。山ノ前駅を越えたあたりから線路はすぐに高架を昇り、木里こさと神池かみいけなぎを経由して俺がいつも下車している霧代駅に到着する。  持ち主の家は山ノ前駅の近くだと教えられていた。通学途中にある駅なので車内からの風景は見慣れているが、降りたことは一度もなかった。  足元にキャンバスを置いて芸術家の気分に浸りながら電車に揺られること約半時間。新鮮な気持ちでホームに足を着けた俺は地図アプリに示された場所を見直して愕然とした。確かに目的地は駅からさほど遠くなかった。直線距離にすれば一キロ程度のものだろう。目と鼻の先にあると言っても過言ではない。  曲がりくねった坂道を登らなければ辿り着けないという、ただそれだけの話だ。 「山ノ前駅。山ノ前。山の前、ね……」  その生徒の家は、駅前の住宅街の、そのさらに奥に突き出た小高い山の上にあるらしかった。  いくら穏やかな陽気とは言え太陽の下を十分も歩いていればさすがに汗が噴き出してくる。坂道ともなればなおさらだ。運動不足で縮んだ肺は太ももを動かすたびにひゅうひゅうと泣き言を上げる。加えて俺は大荷物を提げていた。普通に持つだけなら重いものではないが提げて歩くとなるとすぐに腕が痛くなってくる。右手、左手と持つ手を換えても鈍い痛みは消え去らない。おまけに巨大なキャンバスは山風に煽られ、バランスを安定させるだけでも一苦労だ。  あと何分歩けば目的地に辿り着くのか、具体的な所要時間が分からないのも結構きつい。こんなにきついのならやっぱり断っておけば良かったと一日遅れの後悔をする。確かに冬子先輩に運ばせるわけにはいかなかったろうが、だからこそ先輩は行くのを嫌がったのではないか。結局ゆいちゃんが車を使って運ぶのが一番手っ取り早かったのだ。くそったれめ。  ものぐさ教師に悪態を吐きつつ、いくつ曲がったかも覚えていないヘアピンをさらにもう一度折れ曲がった。  次に広がったのは100メートルほどの直線だった。道の左手に擁壁があり、続く先に石垣が見えた。どうやらあれがゴールではないか。気持ちとしては一足飛びで駆け上がりたかったが、それができるのならここまで苦労はしなかったろう。「もう少し、もう少し」と両脚にエールを送りながら亀の歩みで進んでいると、何分後かには目的地に辿り着いた。  スマホの画面に目を落とす。駅から降りて15分しかたっていなかった。立ち止まって息を整える俺の脇を、山菜を提げた老夫婦が軽い足取りで歩いていく。我ながら大袈裟だったろうか。終わってみると大した坂道ではなかったような気がしてくる。まあ、マラソンとは常にそういうものだ。  旅の終着点を見上げた。小春さんの家は陽当りの良い石垣の上にあった。屋敷と呼べるほど大きくはないが、それでも立派な日本家屋だ。敷地は木柵で囲まれ、道から見える家屋との距離を考えると庭もある。植わっているのは桜だろう。花が散り、若葉が光を透き通していた。葉桜だ。葉の瑞々しさが家屋の趣を深め、建物の趣が葉桜の鮮やかさを際立たせている。一月早く来ていれば一層見事な景色が見えたに違いない。  門扉へ続く石の階段には大小様々な花が飾られ、こちらも風景と調和していた。鉢にキャンバスをぶつけないようそろりそろりと段を登り門の前に辿り着いた。  門には閂がかかっておらずインターフォンもないようだったので、ここは恐らく開けて入ってもいいのだろうとおっかなびっくり鉄柵を開いた。今度は庭の風景が目に飛び込んでくる。赤土色の鉢。しっとりと咲く花々。道を覗き込んでいた桜の木。丸い踏み石は水滴を垂らすように配置され、格子戸の玄関へと続いている。  どこか懐かしさすら覚える長閑な庭。  午後の陽に照らされたその縁側に、彼女はいた。  深い、夜空色の黒髪を垂らした女性だった。その長い夜の色は川のように流れ、薄紅色の着物を黒く濡らしていた。華奢な肩に乗った小顔は硝子細工のように整い、瞳は静かに閉ざされていた。  日本人形。  頭に浮かんだイメージを、すぐさま否定した。  彼女は人形なんかじゃない。その全身から人形にはない生命力が溢れ、存在を誇示している。人形なんかじゃない。絵だ。葉桜の咲く庭園を切り取った一枚の絵画。彼女はキャンバスの中心に息づく作品の主役だった。  溜息が漏れた。  鑑賞の時間は長かった。山の音を聴きながら思考を止めて見惚れていた。が、ある瞬間不意に現実に引き戻される。  彼女が小春だ。間違いない。微動だにしないのは眠っているからだ。小春さんは縁側の柱にもたれかかり気持ち良さそうに昼寝をしていた。俺はこの人に絵を届けるために山を登ってきたのだ。でも、どうすればいい?  本音を言えばすやすやと眠る彼女をずっと眺めていたかった。だが、それでは用事にならない。うるさくない程度に声を上げた。 「ごめんください」  彼女に目覚める気配はない。仕方なく庭に足を踏み入れた。数歩進んだところで再度呼びかける。 「あの、ごめんくださいっ」  小春さんは目覚めない。相当深く眠っているらしい。さてどうしたものか。他に家族はいないのだろうか? 玄関へ目を向け、すぐさまいないと結論付ける。確証はないが人のいる気配……テレビの音だとか床を踏みしめる音だとかが全く聞こえてこないのだ。恐らく彼女一人だけだ。家族はどこかへ出かけているのだろう。  やむを得ず彼女の側まで近づいてみることにした。考えがあってのことではない。他にどうすればいいのか分からなかったからだ。だが、ここまでくれば肩でも叩いて起こすしかないだろう。  側に立つと彼女の顔かたちをより細部に渡って観察することができた。緩やかに曲線を描くまつ毛。透明な肌。すうすうと耳心地の良い寝息。薄く整った唇。床に付く手は光を放つように白くほっそりとしていて思わず握り締めたくなる。  緊張に唾を飲んだ。俺はこの人の眠りを妨げていいのだろうか? 静寂を壊すことが恐るべき大罪であるような気さえする。何よりもう少しこのまま眺めていたいという気持ちに胸を締め付けられた。  頭を振った。忘れ物を届けにきただけだというのに何を逆上せているのか。さっさと用を済ませるべきだ。  葛藤を振り払い、そして細い肩に指を伸ばした、そのとき、 「あ」  深く澄んだ湖に見つめられ俺は動きを止める。  小春さんも静止している。  二人とも微動だにしない。まるで石膏像のように。  寝起きに知らない男が目の前にいたらそりゃ誰だって混乱するだろう。状況の把握。記憶の照会。感情の反応。行動の選択。いずれの処理も追いついていない。  程なくして、その瞳に揺らぎが生じ始めた。明らかに好ましくない反応だ。俺の社会的な立場にとって全く好ましくない。半分開いた彼女の口から「あ」だとか「う」だとか声に成り損なった声が漏れる。 「あ……、や」  整った顔は恐怖と混乱で崩れつつある。黙っていれば悲鳴が響き渡ることは明白だ。非常事態を確信した俺は先手を打って声を絞り上げた。 「あやしい者じゃありませんっ。霧代西校美術部の者です」  霧代西高美術部。これだけでも相手が聞く耳を持つには足りたらしい。小春さんの目に理性が灯った。まだ完全には事態を呑み込めていない様子だったが、緩慢な動きで俺と、俺が傍らに置いたキャンバスに目を向けた。 「突然すみません。今日は用があってお邪魔しました」  小春さんは鼓動を抑えつけるように胸元に手を当て、怯えを引きずった表情でこくりと頷いた。  これからが本題だというのに、俺は既に疲れ果てていた。

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