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不意に。ルスが大きく溜息を吐く。 嫌な予感に、どきんと心臓が跳ねた。 何か。 何か言わないと……。 「今、俺は、お前に優しくしてやれそうにない」 ルスの静かな言葉が胸に刺さる。 「お前は、お前の家に帰ってくれ」 ルスはそう言うと、今までより少し早足で歩き出す。 俺と、距離を取ろうとするように。 俺は、必死で駆け出してその腕を掴んだ。 「ルス……。ルス、嫌だ……。俺はもう、離れたくない……」 頼む、俺から離れないでくれ。 だってお前は、俺の見てないところで、すぐ危ない目に遭うじゃないか……。 「レイ……」 ルスの声には、戸惑いが混じっている。 振り払われなかった腕に、俺は縋った。 「ルスが俺に優しくできないのは……、俺のせいだろ? 俺がお前を傷付けたんだから、俺はルスに傷付けられてもいいんだよ。そばに……」 「馬鹿な事を言うな」 ルスの声に、チリリと苛立ちが浮かんでいる。 お前、それ、俺のために……苛立ってんのか? 「……な、何でだよ……、ルスは、俺には何でも言えって言う癖に、なんで俺には――」 「それはお前だろ!!」 怒りの込められた声で怒鳴られて、身が竦む。 「…………俺……?」 口にして、ようやく俺は思い至る。 風呂場で漏らした俺の嘆きと、ルスが残した赤い血痕。 「辛いなら辛いと、俺は、お前に打ち明けて欲しかったんだ!」 …………ああ、本当に。……そうだよな……。 後から『辛かったのだ』と知るのは、胸が絞られるようだと、俺も今日思い知った。 なのに、先にそう思わせていたのは、俺だったんだ……。 「お前が、俺が忘れてしまった俺の事を、大事にしてくれてるのは分かっていた。だが、俺は今も昔も、俺一人しか居ないというのに……」 ルスはゆっくり振り返ると、苦しげに眉を寄せたまま、俺を見る。 真っ直ぐに。悲しみと祈りの込められた眼差しで。 「俺を……今の俺を見てくれ。俺の事だけを……」 のぼり始めた月に照らされて、ルスの輪郭が夕闇にほんのり浮かんでいる。 「ルス……」 俺は、ルスから目が逸らせない。 こんな切なげな表情を向けられたのは、初めてだった。 「認めるのも悔しいが、俺は嫉妬しているんだ……」 ぽつりと零されて、俺は目を見開いた。 「お前の心を埋め尽くしている、俺ではない俺に」 ルスは寂しげにそう言って、黒い瞳を揺らすと強引に俺に口付けた。 ……――ちょ、おまっ、まだ、外だぞっっ!? 動揺したのは俺だけで、ルスはそっと唇を離すと、自嘲の混ざった声で言う。 「……滑稽だろう? 自分自身が、恋敵だなんてな」 月光を背に浴びて、ルスの輪郭で、黒髪が艶やかに光る。 小さな瞳が、痛みを抱えたまま、俺を見ている。 俺を真っ直ぐ、求めている……。 知らず、ごくり、と喉が鳴った。 どうしようもない喜びに、胸が震える。 「ルス……」 俺の口から出たのは、震えた小さな声だった。 「レイ、全部話してくれ。俺の忘れてしまった俺との事を、全部……」 真剣な眼差しに射抜かれて、俺は頷いた。 部屋に戻れば、もうすっかり冷めてしまった鍋が待っていた。 そういやそうだったな。なんて思い出しながら、作りかけだった鍋に火を入れて、二人で作って食べた。 ルスは、俺の知らないうちに料理の腕をぐんとあげていた。 この一ヶ月、一緒に過ごす間に初めて知った事だって、色々あったのに。 俺は、それを大事にできてなかったんだな……。 俯いた俺に気付いたルスが、不意に顔を寄せて、ぺろりと俺の耳を舐める。 「なっ……何……っ!?」 慌てた拍子に、両手に持っていた二つのボウルから汁が跳ねる。 手が塞がってる時に、いきなり何してくれんだよっっ。 顔を見れば、ルスは慌てる俺の様子に満足したような表情を浮かべていた。 ……なんだ? 俺、からかわれてんのか? 恥ずかしさから、カアッと頬が赤くなる。 「何を気にしてるんだ? 何でも話せと言っただろう」 ルスは、目を細めてそう言った。 ああそうか。ルスは、俺がルスを前に俯いた事が嫌だったんだ。 それで、無理矢理にでも俺の注意を引きたくなって……? 「……っ」 何だそれ、何だよそれ……っっ。 ルスが妬いてくれた事がたまらなく嬉しくて、俺は口元を押さえた。 じゃないと、口が勝手ににやけてしまう。 ルスは、そんな俺に気付いたのか、ちょっとだけ照れ臭そうに言った。 「……冷めないうちに食べるぞ、話は食べながら聞かせてもらおう」 そうして、俺はあの日の話を始めた。 あの日、俺が酔い潰れて、団長の手配した鳥車に乗ったところまでは、ロッソに聞いたらしい。 ルスは飛び出してから、俺との思い出を埋めようと「心当たりをあたっていた」とバツの悪そうに告げた。 俺がもっと……、もっと早くに、何でも話せば良かったんだよな……。 後悔する俺の頬を、ルスの温かな手が撫でる。 黒い瞳が、優しく慰めるように俺を見ている。 温かな眼差しに導かれるままに、俺は話した。 食事を終えて、二人で後片付けをしながらも、話し出した俺の言葉は、止まらなかった。 ソファにピッタリ寄り添って。 泣いたり、笑ったり、口付けたりしながら、俺は全てをルスに話した。 あの、たった二日の、でも俺にとって、人生で最高に幸せだった時の話を。 花束の話になって、ルスは「それは叔母さんから聞いた」と言った。 「へ……? そ……そっか……」 わざわざ、花屋まで俺の話を聞きに行ってくれてたんだ……。 嬉しさと、叔母さんにそれをもう一度言わせてしまった恥ずかしさと、そうしなければならなかったルスから伝わってしまっただろう俺の不甲斐なさに、胸の中の感情が何とも言えない色に混ざる。 俺は、花束を受け取った日に見送ったルスの背と、怪我をさせてしまった日に森で見たルスの様子までを伝えて、ようやく長い話を終えた。 気付けば、時計の針は日を跨ごうとしていた。

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