ムギアラシは森へ帰る
人間はおそろしい

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 たん、たんたん、たんたんたん、と音が聞こえた。  薄暗い小屋の中で何かが駆けているようだ。  たん、たんたん、たんたんたん。  たたん、たたたん、たんたんたたん。  小気味良いリズムがしばらく続いたと思ったら、突然、ゴト、ゴトゴト、ゴトゴトゴト、という、なにやら恐ろしげな音に変わった。  くそっ、なんてこった!  甲高い声がした。小屋の隅、松脂のような粘着質の液体が塗られた木板の上で、丸パンほどの小さな灰茶色の生き物が必死にもがいている。ムギアラシだ。  ムギアラシはその名の通り、麦を荒らす。だから、人家のそばや小屋の中にはこういった罠が仕掛けられている。天敵を気にせず腹を満たしたいムギアラシと、保存している麦を荒らされまいとする人間は相容れない。人間もまた、ムギアラシにとって天敵なのだ。  全くツイていない、とムギアラシが呻いた。粗く積まれたレンガの隙間から、陽の光が差し込み始めている。凍える季節を耐え忍んで、甘い香りが鼻をくすぐる暖かい季節がやってきたというのに。細長い自慢の尾は不自然に曲がったまま板に張り付いて、背中まで痺れるような苦痛をムギアラシに与えていた。  くっ……殺すならひと思いに殺せっっ! こんな気色悪い思いをしながら飢え死にするのなんか、俺は御免だっ……くっそ、人間め!  もがいても鳴き散らしても、逃れられる気配はない。むしろ動くほどに毛という毛が粘々に絡めとられて、まるで体が板に縛り付けられるようになる。キーキーと切ない鳴き声と、乾いた土の上で木板が揺れて擦れる音だけが小さく響く。  ギイ、と立て付けの悪い扉の開く音がした。朝の光と青々とした草の匂いが小屋の奥まで届いて、警戒したのか鳴き声はぱたりと止んだ。木板が光に照らされ、冷えた体にほんのりと暖かさを感じた。  しかし心地よさを感じる暇などなかった。人間だ。人間が歩いてくる。強張る体を隠すことも叶わず、こちらに向かって歩いてくる人影を凝視するしかない。長い影が木板を覆うと、心まで闇に落とされたような重苦しさに襲われる。  逆光で顔はよく見えないが、長い髪に長い衣。甘い匂いがする。この大きさと匂い、まだ子供だ。こんなガキに見つかったら何をされるか。人間の子供は残酷な遊びをする。こいつらに捕まったが最後、羽をもがれたり、紐で括られて水責めされて死んだ生き物を、嫌というほど見てきた。ぬう、と巨大な手が迫りいよいよ終わりだ、そう思った時だった。 「ああ、ムギアラシだね。かわいそうに。今、助けてあげる」  どういうことだ? た、すけ……?  ムギアラシ、と呼ばれた小さな生き物にとって、それは人間の言葉にしては聴き慣れない、優しい響きだった。人間の言葉で知っているのは、もっと、威嚇するような調子や、悪臭で鼻がやられた時のような、嫌悪感むきだしの音だ。子供が発したのは、そうではなかった。  木板ごと持ち上げられた体は、宙に浮いたようだった。木を登った時とも、小屋の屋根の上とも違う、ゆらゆらと浮遊する景色を眺めながら、懐かしい気持ちを思い出した。……母だ。幼い頃は、こうして母に首を掴まれ、草むらを進んだ。目線の高さは今の方がうんと高いが、危機的状況に反した多幸感がムギアラシを包み込んだ。死が迫っているせいで、そんな甘い記憶が蘇ったのだろうか。 「ちょっと気持ち悪いけど、我慢するんだよ」  ムギアラシに子供がまた何か話しかけた。言葉の意味は分からなかったが、敵意は感じなかった。しかし、木板が再び地面に降ろされた直後。  うわっ、何だ!  香草の匂いがする水の中に、木板ごと体を沈められた。匂いはまだいい。草の匂いは好きだ。けれど人間の手が、皮膚をちぎるように爪を立ててくる。  やっぱり水責めじゃないか! 痛い! こんなの拷問だ! くっ……これなら火炙りのほうがまだ早く死ねるぞ! 「よし、後ろ脚が外れたぞ。もう少しだからね、あっ、暴れないで……!」  力を込めた脚が水を蹴った。  よし! これなら逃げられる!  ムギアラシは我を忘れて夢中で水を掻いた。次第に前足にも自由が戻ってくるのがわかり、尾に走る痛みもいつの間にか消えていた。 「あっ」  早く、一刻も早く暗がりに!  完全に木板から体が離れたムギアラシは、水から飛び出て一目散に小屋の前を駆け抜けた。  森へ! そしてどこか身を隠せる所まで!  小さなムギアラシにとって、昼間の森は危険だらけだ。人家が危険なのも承知の上で、それでも森より静かに眠れる小屋が好きだった。けれど子供の戯れで惨たらしく命を落とすくらいなら、誰かの腹に収まってそいつを生き永らえさせてやる方が万倍マシだと心底思った。 「もう罠なんかに捕まるんじゃないぞー! 元気でね!」  投げかけられたその言葉の意味は、ムギアラシには届くはずもない。  たん、たんたん、たんたんたん、と野を駆ける小さな足音が、大きな森へと帰っていった。  さわ、さわさわ、さわさわさわ、と、青い麦の穂が、手を振るように揺れていた。

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