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* 「ケッペキ、今日からこれ使え」  洗い物用のゴム手袋に付け替えるため、潔子はいつものシルクの手袋を外し傷だらけの手をさらしていた。玲は使い捨て用のゴム手袋一箱を潔子の目の前に置く。  今日からそれを使うようにと伝えると、潔子はぽかんとする。 「使い捨てゴム手袋? なぜ?」 「いちいち手袋外したり付けたりしてると効率が悪いだろ。汚れが気になったら、その都度捨てればいい」 「なるほど……。ありがとう……ございます」  潔子はマスクをしているので目しか出ていないものの、その下で鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているのが容易に想像つく。玲としては必要な備品を渡しただけで、特別なことはなにもない。ただ、従業員が働きやすくしただけ──それなのに、そんな顔をされるとは。  なんだその顔、と突っ込むと潔子は気まずそうに頭を下げた。玲は別に怒ったわけではなかったが、潔子は叱られた子どもみたいに視線を足元へ向けた。 「む……その、お前に辞められたら困るから、店主なりに工夫を凝らしたんだよ。俺はいい店主だからな」 「はあ、どうも」 「なんだよ、よ……余計なお世話だったか」 「いえ、玲さんが優しくしてくれるのに驚いているだけで。なんか暴君ってイメージだったし」  ──暴君……。  そんな風に思われていたとは、いささかショックだった。確かにパライソをオープンするまでと、オープンしてからしばらくの間潔子をこき使っていたのは否めないが。  だけど、今は──潔子に気持ちよく働いて欲しいと思っている。オープンの日に水の中で聞いた胸の音がまた蘇ると、玲の喉の奥にものが詰まったように息苦しくなる。 「ふん……悪かったな、暴君で」 「あ、いえ……これ、ありがたく使わせていただきます」  潔子はポケットから塗り薬を取り出して手に馴染ませる。潔子の赤切れだらけの手を初めて見たときはぎょっとしたものだ。 「お前、昔からケッペキなの?」 「いえ……元々綺麗好きな方ではありましたけど、ここまではなかったです」  潔子は右の人差し指で左手の赤切れを撫でた。薬が馴染むのをじっと見てから、深い溜息をついた。  手を洗いすぎてしまう病気を治すため月に一度病院に通っていると、務め始めた時に潔子から聞いていた。病院に行って治るものなのかと思っていたが、潔子曰く少しずつ和らいではいるらしい。  その痛々しい傷を目にする度に潔子の手が傷だらけでなかった頃はどうだったんだろうと玲は最近よく思う。すらりと細長く、爪も形は綺麗だ。 「勿体ねえな」  気づくと潔子の手を握って、その傷のひとつひとつを眺めてしまう。いつか潔子の手が綺麗に治って、手袋なんて必要なくなればいいのにと願った。  ──なんで、こんなこと考えてんだろ。 「ヒィ!」  突然パチンと玲の手が弾かれた。はっとして玲は手を引っ込めたが、遅かった。  目の前の潔子は目を潤ませて水道の蛇口を捻り、食器用洗剤を手に振りかけると勢いよく手を洗いだした。呼吸を荒げ、まるで妖怪にでも追いかけられたように肩を上下させている。  潔子が手を洗い終えるのを玲はじっと見ていた。呆然と立ち尽くしていた、という方が正しい。自分が不浄なものだと態度で示されたような気がして、玲は言葉を失っていた。  五分ほど手を洗い続けてようやく泡を流した。真っ赤になった手を見ながら潔子は「またやった」と嘆息する。 「……俺、そんなに汚いのか?」 「……ごめんなさい。あの、玲さんのこと汚いとか思ってるんじゃなくて……人に、触られるの、ダメで……」

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