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 翌日から早速出勤となり、ほぼ脅しで労働契約を結ぶことになった。潔子は手渡された契約書の内容をじっくりと読んだものの、内容としてはごく普通のものだ。  ただひとつ、了承できかねる部分があった。 「……あの、住み込みって書いてますけど。聞いてない」 「そう。俺がこんな身体なもんで、いつでも動かせるように隣に住み込んで働いてもらいたい。まあ、そこは強制しねえけど、独身の実家暮らしなら家出ても問題ねえだろ」 「いや、まあ、そうですけど……」  人魚──海音あまねれいは普段人間に化けているが、長い時間その姿を保ち続けることはできない。四、五時間に一度はこうやって人魚の姿に戻り水に浸からなければならないらしい。  昨日のルキの台詞──『あなたひとりで回せるんですか?』の意味を、潔子はやっと理解した。昼間は十二時から十六時、夜は十九時から二十四時と営業時間を区切っているとはいえ、頻繁に水に浸かっていたら確かに商売にならない。そのフォローを潔子が押しつけられたというわけだ。 「つまり、二十四時間動けるようにしておけと」 「二十四時間は大袈裟だ。だけど、俺が必要なときにすぐ来てもらわねえとな」 「……とんだブラック企業ですね」 「心外だな。労働力を提供してもらう代わりに、お前の家賃は俺の売り上げから負担してやるし、食と住は完備してやるぜ。給料もまあ、そこに書かれてる時給通り払ってやる」 「はあ……」 「それに、逃げられたら困るし。まあ逃げたら殺すまでだけどな」  玲は愛想のかけらもないので、こういう物騒なことを言うと冗談に聞こえない。これから潔子は労働力の代わりに命を彼に差しだすことになる。そう考えると、契約書が鉛みたいに重く感じる。  命を預けているとはいえ、二十四時間働けるようにしておけとは対価があまりに大きい気がして、潔子は騙されているのではと思えてきた。    昨晩、潔子は自分の置かれている状況をよくよく考えてみた。半年以上引きこもりニートのような生活をしていて、外に出るといえばせいぜい心療内科の先生と顔を合わせるときくらい。友人にも会う気が湧かず、気がつけばこの半年間は家族と医者としか会話をしていない。  そんな潔子が、半ば無理矢理とはいえ働きだそうとしている。考えようによっては、これは神様が潔子に与えた社会復帰のチャンスではないだろうか──命を対価に取られるのは重くはあったが。  ──考えたって、仕方ないか……。  潔子はとりあえず言われるがまま頷き、労働契約書にサインをした。  どうせこのままの生活を続けていても、死んでいるのと変わらない。この化物達に命を渡そうが、今の生活を続けようが、結果としてはあまり変わらないような気がした。  死にながら生きるか、本当に死ぬか。それだけの違いだ。 「ところでお前、その手袋したまま仕事する気か? それじゃ洗い物できねえだろ」 「はい。だから使えないと思いますと言ったはずですが」 「手袋、はずせよ」 「無理です」 「手が荒れるとか、気にしてんのか? 誰もお前の手なんか見ねえよ」  ──直接見てもらったほうが早いかな。  潔子は手袋を外した。今朝はまだトイレと洗顔のとき以外に手を洗ってはいない。  乾燥してところどころ血が滲んだ潔子の両手に、玲の顔がわかりやすく引きつる。 「なんだその手。荒れすぎだろ。お前、家で奴隷でもしてんのかよ」 「いえ、自分で手を洗いすぎて。そういう病気なんです。だから手袋は外せない」 「はあ……あれか、ケッペキってやつか」  少し違う気もしたが、玲に対して説明をするのも面倒だったので潔子は適当に頷いておいた。玲のような人間──いや人間ではないけど──に精神的な病の話をしてもわかってもらえないだろうから。

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