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*  早いもので潔子が玲の店に勤務し始めて一ヶ月が経ち、とうとうカフェバー『パライソ』のオープン日を迎えた。ここまでの準備は大変だったものの、なんとかこの日を迎えられたことに潔子は安堵する。安堵している辺り、玲やルキに上手く転がされている気がしないでもない。 「玲ちゃん、潔子ちゃん、オープンおめでとうっ」 「あ、ありがとうございます」  最初のお客さんはこの建物の住人達だった。  五号室でヒーリングサロン『ファムファタル』を営業している綾香あやか汐乃しの──彼女はサキュバスという悪魔の一種で、男性にいかがわしい幻影を見せて精液を搾り取ることで生きている。  潔子は妖怪の類に詳しくないのでサキュバスというものを知らなかったが、説明をしてもらってそんなものもいるのかと心底驚いた。  汐乃は年齢不詳だし、出るところはしっかり出て締まるとこは締まった魅惑のボディの持ち主だし、その場にいるだけでアロマオイルのいい匂いがした。男性を惑わす悪魔と言われると、潔子は妙に納得してしまう。  そんな恐ろしい悪魔ではあるものの、潔子に対しては優しく接してくれる。潔子の手を見ても気味悪がることもなく、刺激の少ないハンドクリームをくれたりだとか、面倒見のいいところもあった。  汐乃から胡蝶蘭の鉢植えを受け取り、カウンターの上に乗せて席へ案内する。 「いやあ、綺麗な店やねえ。これ差し入れやけん、食べて」 「ああ、ありがとうございます……うわあ、ビビンバだあ。美味しそう」 「ふふ。玲くんにこき使われとるーって聞いとるけん、潔子さんにはうちのプリンばあげるね」  続いて入って来たのは四号室の焼肉店『しんげつ』の店主、森野もりの琥太郎こたろうだった。無精髭をたくわえながらも垂れた目元が優しげで、森のクマさんのような男だ。今日は日曜日なので琥太郎の息子、玲央れおも一緒だった。 「おお、玲央。久しぶりじゃねえか」 「玲くんだあ! 久しぶりっ」  玲央は六歳でやんちゃ盛り。玲と顔を合わせるなりハイタッチをしていた。玲は子どもに優しい。その優しさをティースプーンひとさじ分でいいので自分にも向けて欲しいと潔子は思っていた。  この一ヶ月、潔子は玲にうんとこき使われた。しかも玲は三時間に一度は水に浸かり二十分くらいはそこで時間を過ごすので、ほとんどの雑務は潔子が請け負った。料理の練習やら、備品の発注やら、チラシ配りやら──思い出すと、自分を褒めてあげたいくらいだ。  それなのに玲からは労いの言葉もないし、申し訳なさそうな態度はないし、むしろいつもふんぞりかえっている。命を握られていなければ切り身にしてやりたいほどだった。  チラシ配りとSNSでの宣伝が上手くいったらしく初日から多くのお客さんで店内は溢れている。玲は額に汗を滲ませながら手早く料理を用意して、潔子もそのペースに飲み込まれそうになりながらホール業務をこなす。 「おい、ケッペキ。ちょっと浸かってくる……限界だ。すぐ戻る」  玲の首元には薄い鱗のようなものが数枚見えて、潔子は慌てて頷く。玲が二階へ小走りで上っていくのを見送ってから、潔子が腕時計を見ると十四時を過ぎたところだった。  今日は朝早くから仕込みと店内の掃除をしていたので、おそらくこの時間まで水にまともに浸かれていないはずだ。鱗が浮いてくるほどなので、ぎりぎりまで我慢をしていたのではなかろうか。  ──オープン前はあんなに頻繁に浸かってたのに。  オープン日となると気合が入るのか。あの玲が我慢をしていたことを知ると潔子はもう少しだけ頑張ってみようと思った。腹が立つ妖怪だが、根はちゃんと真面目なんだろう。それならば、少しくらいは力になりたかった。

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