作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 玲はルキの背中でかつて暮らしていた海の底の夢を見ていた。美しいサンゴの間を泳ぎ回っている自分と、仲間たち。  夢心地になっていると、突然ごつっと音がして玲は目を覚ます。お尻のあたりに鈍い痛みが走った。  きょろきょろとあたりを見回すと、知らない家の浴槽の中に玲は座っていた。  急に冷たい水が玲の肩を伝った。うわっと声を上げると、先ほどの男、ルキが楽しそうに笑っている。 「水が溜まるまでそのままどうぞ」 「あの、ここ……」 「僕の家です。どうぞごゆっくり」  しばらくして浴槽が水でいっぱいになり、玲はなんとか命を繋いだ。服を脱いで人魚の姿に戻ると、やっと渇きが癒えた。その間にルキが玲の服を洗濯してくれている。  終わるまで浴槽で待つようにと指示をされて、玲はこっくりと頷く。 「あの……ありがとう、ございます」 「いいえ。それより人魚さんがそんな状態になって、なにがあったんですか」 「バイトが長引いて……人魚に戻るまでに家に着けなかったんです」  玲はうなだれる。なぜ、自分はこんな生活をしているのだろう。なぜ、人間と同じように暮らしていけないんだろう。ただ、好きな料理をして贅沢をせず普通に生きたいだけなのに──そんな考えがミキサーにかけられたフルーツみたいにぐるぐる回って、どろりと玲の胸を満たした。 「バイトですか。なんのお仕事を?」 「えっと……飲食系のバイトをいくつか……もともと海で料理人をやってたので」 「ほう。料理人ですか」  ルキが切れ長の目をほんの少し見開いた。  こんな自分が料理人を名乗るなんて、おかしいのだろう。玲はルキを見ながらそんなことを思う。妖怪のくせに人間みたいになろうなんて、そもそも間違っていた。    もう、こんな世界で暮らすのは嫌だ。  いっそのこと泡にでもなってしまった方が楽なのかもしれない。ルキに自分の始末を頼もうと、ルキの手を握る。 それと同時にルキは口元を緩ませて、穏やかに笑う。 「人魚さん、僕が所有するビルで商売をしませんか?」 「えっ?」 「ちょうどお部屋が余ってて。住居兼店舗という形にはなりますが」  ──自分の店を持て、ということか?  料理人の玲にとってはこの上なくありがたい申し出だった。しかし短時間のバイトを掛け持ちして、自分が生活するだけで精一杯の玲に店を構える費用などどこにもありはしない。 「外で働くよりはご自分のペースが掴みやすいかと。いかがでしょう?」 「それはありがたいけど……でも、俺、店を開くほどの金なんて、持ってないですし……」 「援助します。まあ、お店を成功させて返してもらえればいい。ああ、もちろん法外な利子はつけませんので、ご安心を」  ルキはまるで詐欺師のように玲のことをこのビルへ誘い込んだ。結果的に、別に怪しい勧誘ではなかったが、冷静になると玲はもう少し危機感を抱くべきだったのではないかと思った。  とりあえずどんな店にしようかとルキと相談して、ランチタイムとバータイムで分けて営業できるカフェバーをオープンさせる運びとなった。  そこから玲の夢が始まった。これからは普通の人間のように生きていける──このときは希望ばかりが胸を占めていた。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません