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 ──嫌。  潔子はゆっくりとベッドから身体を起こす。じっとりと汗ばんだ額を手で拭うと、塩分が人差し指の第二関節あたりのささくれをぴりっと刺激した。  ──ああ、夢か。  少し前の夢を見ていた。  かつての恋人、裕也とふたりで住んでいたマンションで、裕也と会社の後輩の女が夢中で抱き合っていた。その日の朝まで潔子と裕也が寝ていて、潔子が綺麗に整えていったベッド。  それは信頼していた恋人と、よく面倒見た可愛い後輩の、ふたりによってしわくちゃにされていた。おまけにほんのりと湿り気を帯びたふたりの身体がシーツや布団に擦りつけられていた。  その光景がよみがえると潔子の身体から血の気が引いて、慌てて洗面所へ向かう。水栓をこれでもかとばかりにひねり、泡状のハンドソープを十回くらい押して手のひらから、手の甲、そして手首にまで広げる。昨晩切ったばかりの爪を手の甲にがりがりと押しつけて、しつこい汚れを削ぎ落とすかのように洗った。  ──洗わなきゃ。  潔子の手はかさぶただらけだ。傷に泡が入り込むととにかくしみる。しかし、その痛みは潔子を安心させた。汚れが、皮ごと落ちている──そう、思わせてくれるから。 「潔子! あなたまた手を……!」  母親が駆け込んできて泡を綺麗に流してくれた。そこではっと我に返る──また、やってしまった、と。 「ごめん、お母さん」  今頃になって手の表面がちくちくと疼きだす。潔子は朝早くから泣いてしまった。  仕事へ出かける両親を見送り、潔子も出かける支度をする。出かけると言っても、定期的に通っている心療内科へ行くだけだ。  裕也と別れて以降、潔子は仕事を辞めて実家に戻り引きこもるようになった。裕也達の情事に出くわしてからというものの、あのしわくちゃのベッドシーツが目に焼きついて離れなくなった。裏切りを吸い込んだ、あの真っ白なシーツを。  そして、あの上で平気な顔をして眠っていた自分にぞわりとした。知らないことは幸せであって、そしてこの上ない恐怖でもある。  本当は、この世の全てのものは汚れているのかもしれない。潔子の知らないところでおぞましい姿になっていているのかもしれない。  なにかに触れれば、自分も汚れてしまう。いやだ、汚れたくない。  そんな恐怖に潔子は取り憑かれて、頻繁に手を洗わなければいられなくなった。潔子の生活に支障をきたし、仕事どころではなくなってしまった。  潔子の家族が幸いそういう病気に理解があったため、潔子をすぐに心療内科へ通わせてくれた。薬や認知療法で治療をしながら、かれこれ半年くらいになる。症状は緩和してきたものの、ときどきこうやって無性に手を洗いたくなることがあった。  潔子の主治医は日本昔ばなしの絵本に出てくるような全体的に丸いシルエットで、六十代くらいの男性だった。 「……また、がりがりと手を洗ってしまいました」 「あらまあ、痛かったでしょ。見せてごらんなさい」  潔子は白いシルクの手袋を外した。砂漠みたいに乾燥してところどころ血が滲み赤黒くなって、手だけが老婆のようだった。潔子が自分の手の汚さにうなだれていたら、主治医は「気長に取り組みましょう」と穏やかな口調で言った。  手指用の塗り薬と精神安定剤を処方され潔子は帰路を辿る。  自分はいつか社会に復帰できるのだろうか。そんな不安を抱えて迎えた二十七歳、冬。  幼い頃、二十七歳という年齢は当然のように幸せな結婚をして子どもを生み育てているものだと潔子は思っていた。しかし、今ショーウィンドウに映る自分は、想像していた二十七歳とはまったく違っていた。

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