作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

* 「見ろ、腹筋が割れてきた」 「おお! 六つも夢じゃないかもですね」 「ふふん。店のインスタに載せてもいいんだぜ」 「変な店だと思われそうなので、それはやめときます」  そんな話をしながら盛り上がる夜。店休日にも関わらずパライソは住人達が集まって賑やかだ。琥太郎と汐乃も玲の腹筋を覗き込んで、感心したようにおお、と声を上げる。その横では希良が自慢げに「僕が育てました」と腕を組んでいた。  玲央につーっと脇腹を指で撫でられて、玲がフヒヒと妙な笑い声を上げている。 「玲くん、よく頑張ってるよね。僕も育てがいがあったよ」 「そうか。大分辛かったけどな、筋トレ。俺はお前に嫌われてるのかと思ったくらいだよ」 「本当に希良くんは敏腕トレーナーやね。俺も鍛えるべきやろか……」  琥太郎は情けない顔で腹部を撫でる。玲央が横から「ぷよぷよ」と言いながらお腹をつまんだ。琥太郎も歳相応の身体をそれなりに気にしているらしい。  希良は利用者ひとりひとりに合ったトレーニングプランを立てて、食生活なども指導をしている。無理をせず、健康的かつ確実に筋肉を育てる方法を利用者へ伝え、成果を出している。そういう評判がどんどん伝わり、夜だけしか営業しないにも関わらずそれなりに繁盛している。  それにも関わらず、希良はテーブルの上で手を組み、うーんと口を尖らせる。 「やっぱり昼の営業もやった方がいいかなって最近思うんだよね」 「どうした急に」 「うーん、最近お客さんから言われることが多くてさ。それに夜だけじゃ受け入れられる人数も限られてて……お断りしてるお客さんもいるし。遮光さえしっかりやれば、大丈夫かなって思って」  ──そういえば……。  潔子は先日ジムへ行ったときのことを思い出した。おそらく常連と思われる男性客数名と昼の営業のことを話していたのを、潔子もそばで聞いていた。  夜のみの営業の理由を昼にジムへ通えない人のため、ということにしている。それに昼間に通えるジムならば世の中にごまんとあるから、必要ないだろう──というのが希良の表向きの言い分だ。これは半分本音で、半分建前。 「希良ちゃんの気持ちはわかるけど、それは現実的じゃないわ」 「そうだけど……でも、朝活で運動したいってニーズもあるし……僕、お客さんには喜んで欲しいから……試験的にやってみるのも……」  そう言いつつも希良の顔からは不安が拭えない。いつもは寝ている時間を仕事に充てるというわけだし、不安がつきまとうのは当然のことだ。  ──お客さんのため、か。  そういう身の削り方を目の当たりにして、潔子は希良を素直に応援できなかった。『誰かのため』とは自分を奮い立たせる魔法の言葉でありながら、いつか自分を壊してしまう諸刃の剣でもある。潔子はそれをよく知っている。  手の表面にぴりっと小さな痛みが走って、テーブルの下で爪を立てた。  ──思い出すな。我慢しろ。  手を洗いたくて仕方がない。薄いゴム手袋の表面同士が擦れる音がして、潔子は唇を噛み締める。 「どうした、潔子」  玲に声をかけられ、潔子ははっと顔を上げる。鼻にかかった低い声にぴくりと反応して、深呼吸をすると落ちついた。最近はパブロフの犬みたいに玲の声を聞くと手を洗いたい衝動が和らぐ。  潔子がその衝動に飲み込まれそうになると、決まって玲に洗うなと言ってもらうようにしていたところ、潔子の耳は玲の声を覚えてしまったようだ。 「い、いえ……希良くんは真面目だなって思って」 「真面目なのかな。えへへ」 「そうやねえ、希良くんはちっと真面目すぎるかもしれん」  琥太郎が希良の肩の上に手を置き、目を細める。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません