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 パライソで働く前は、外食なんて行けなかった。テーブルやカトラリー、料理自体も全て汚れているような気がしていて、食事なんてできなかった。しかし、最近は『しんげつ』や他の店に通ったりして、次第に慣れていった。  やっと、人並みの生活を送れるようになったのだと、潔子は今更ながら気づく。  運ばれてきたボロネーゼにフォークを入れると、もわっと湯気が立った。口に含むとひき肉の旨味が口いっぱいに広がって幸せな気分になる。当たり前の幸せを、改めて感じる。 「あの、潔子ちゃん……今日誘ったのは、ちょっと相談があってさ」 「どうしたの?」 「うん……あのさ、潔子ちゃん。うちに戻ってこない?」  綾子はひと口水を含むと、話を始めた。  潔子の元彼である瀬野裕也が来月にも別支社へ転勤になり、裕也と浮気をしていた後輩の女子社員は会社を辞めることになった。裕也が転勤になったことで、別れを決めたらしいと綾子は言った。  潔子が仕事を辞める根本の原因となったふたりがいなくなり、現在人手不足の会社としては即戦力になる人員が欲しい──ということで潔子に白羽の矢が立ったというわけだ。 「潔子ちゃんは仕事も丁寧だし、真面目だし……その、瀬野さん達もいなくなるからさ、考えてみてくれないかな」  確かに、会社に戻れば今よりもうんと給料は上がるだろうし、自分に向いている仕事ができるんだろうと潔子は思った。しかし、今潔子が辞めてしまえばパライソは──玲はどうなるのか。それを考えると、潔子の選択肢はひとつしかない。 「ありがとう。でも、私今のところ辞められない。今の仕事楽しいし、やっと店が軌道に乗ってきたからさ……ここで頑張りたい」  そう答えると綾子は遠くへ旅立つ友人を送るような目をしつつも、最初から潔子の答えをわかっていたようにも見えた。潔子は頭を下げてごめんとひと言だけ述べた。  その後は在職時のように雑談で盛り上がった。綾子に彼氏ができたとか、係長が昇進しただとか、玲のことを見に行きたいだとか、最近離婚した芸能人のこととか。  途中、デザートのティラミスが運ばれてきてそれを食べてしまったにも関わらず、店の閉店時間までずっと話し続けた。  それから数日後──汐乃から招集されて、潔子、玲、希良はしんげつに集まっていた。焼肉を囲み、ビールを飲む。希良は下戸でにんにくが苦手なので、琥太郎が特別に用意した鶏むね肉の塩麹漬けを網の上で焼き、ジョッキに注がれているジンジャーエールを飲んでいる。  汐乃はとりあえずビールが飲みたいという理由で時々こうやって住人達を招集していた。  話題は、というと今後の店舗の運営だとか、ルキへの不満だとか、トレーニングの内容だとか──実にとりとめもないことばかりだ。それでも楽しかった。 「そういえばこの前友人と行ったイタリアンの店がおいしくてですね。駅前の、二年くらい前にオープンした店で」 「ああ、行ったことあるわ。あそこ美味しいわよね。お友達ってまさか……男の子?」 「いえいえ、以前勤めていた会社の同僚の女の子です。なんか今、人手不足らしくて前の会社に戻ってこないかーって言われたんですよねえ」  潔子は普通に世間話をしているつもりだったが、隣に座っていた玲が勢いよくビールジョッキを置く音が聞こえて、びくりと硬直する。手が滑ったのかと思いきや、怒気を含んだような目を向けていた。 「は? なにその話。聞いてねえんだけど」 「別に……その場で断ったから話す必要もないと思って。前の会社に戻る気はさらさらありませんし」 「でもそれ、大事なことだろ……話してくれてもいいんじゃね?」 「すいませんでした……そんなに怒らなくても……」 「まあまあ、玲くん怒らない怒らない。潔子さんも余計な心配をさせたくなかったんだよ、ね?」  こういう雰囲気の中での希良の明るさは救いだった。玲もそれにはすぐに懐柔されたようで「まあな」と言いながら、泡が切れかけたビールをぐいと飲む。

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